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ジョゼと雨とキスと香水。




「花の匂いがする」

ふいに恋人が零した言葉は、頭の上から降ってきた。

ソファーに座る彼の足元で、うつらうつらと暖かい体温に微睡んでいたぼくは、しばらく頭の上から降ってきた言葉の意味を考え、慌てて睡魔を追い払う。

彼の言う『花の匂い』の元が、決して窓から侵入してくるご近所の花の匂いではない、ということに思い当たったからだ。

「ラベンダー? カモミール? ……シトラス、じゃないな」
「ええと、ジョゼ、あの、これは……たぶん、香水の匂いだよ」
「香水? キミは今日、アニータと新しい椅子を買いに出かけたんじゃなかったのか?」
「そうだけど……化粧品売り場の前で、店員の女性に捕まっちゃって、そしたらアニータと店員さんに挟まれて香水のテスターまみれ。アニータ、香水持ってないっていうから、まぁ買うなら付き合うよって言っただけなんだけど……」

花のように美しい彼女に、甘い匂いはとても似合うと思っただけだった。確かに普段のアニータは清潔な石鹸の匂いはするけど、香水やお香みたいな匂いはしない。

昼間、女性二人に挟まれて甘い匂いまみれにされたことを思い出し、シャワーを浴びたのにと自分の腕や髪の毛に鼻を鳴らしてみるけれど、正直よくわからない。

そういえば、ジョゼはなんでか鼻がきく。
彼は絶妙に目が悪くて、ついでに味覚もちょっと怪しい。スヴェンはよくジョゼを眺めては、『アイツは割合スマートなあの見た目と身長に良いところを全部割り振られたんだ』とジョークまじりの苦笑を漏らしているけれど、身長と見た目のハンサムさ以外にも優秀なのが、彼の敏感な鼻だった。

対するぼくは、あまり、嗅覚に関しては自信がない。
目はとてもいい。ポーラパークの大自然の檻の前で、双眼鏡を使わずに動物を見つけられたぼくの視力は折り紙つきだ。そもそも、割合身体能力と五感は優れていた。だからサーカスでも虐げられつつも捨てられることはなかったし、無茶苦茶なスタントもすぐにこなした。

唯一鼻がどうも鈍いのはたぶん、マダムの屋敷で常に甘ったるいお香にまみれていたからじゃないかと思う。特に甘い匂いにはぼくの鼻はことさら鈍感になる。

今日だって山ほどある香水の違いがまったくわからず、吹きかけられては何が違うの?と首を傾げていた。ぼくの鼻があまりにも鈍感すぎるから、店員の女性も躍起になっていたのかもしれない。

次々と吹きかけられる香水にまみれ、最終的にはアニータも匂いが混じってわからない、と笑っていた。
この顛末を言い訳に聞こえないように丁寧に説明したぼくに、ジョゼはいつものように特別なにも感じていなさそうな顔でなるほどと頷く。

「それでキミから、なんとも言い難い甘い匂いがするわけか。……いや、そんなに気にすることじゃないよ、イージー。ちょっと鼻をくすぐった匂いが気になっただけだ。僕は別に、キミとアニータが秘密の花園でティーパーティをしていても、微笑ましいなと思うだけだよ」

おいで、と声をかけられ手を引かれる。暖かい床の上からソファーに座るジョゼの膝の上に移動すると、自分が子供にでもなったかのような錯覚を覚える。
ぼくは結構身長もあるし、それなりに貧弱ではない筈だけど、ジョゼと比べるとやっぱり華奢に見えてしまうだろう。
インドアなのになんでかそれなりに逞しい胸にもたれ、ぼくはちょっとだけ心配していた質問を口にした。

「……ジョゼはアニータに、嫉妬したりしないの?」

ふっとジョゼが笑う気配がした。彼の笑顔は貴重で、そして嫌になるほど優しくてぼくはいつも胸がいっぱいになってしまうから、未だに直視ができない。甘い気配の後に、ジョゼはぼくの髪の毛をくるくると弄る。

「アニータには嫉妬しない。キミと彼女の仲の良さを微笑ましく思っている。ただ、キミの素肌や髪や服に甘い匂いをこれでもかとふりかけたその店員は大いに腹立たしいと思う」
「でも彼女は、接客しただけだよ。アニータに高い香水を買ってもらおうと必死で、とにかくぼくを味方につけたがっていたから」
「店員にキミは、年下の彼氏扱いされたんだろう?」
「……あなたは超能力者かな」
「キミたちはスヴェンが嫉妬する程仲が良いし、美男美女だ。僕とキミが寄り添って歩いていたって、土地勘のない東洋人を案内してやっているステイ先の地元人としか思われないだろうけれどね。アニータと並べば若い異国のカップルだろう。物価の高いノルウェーの土産に、と、高級品をここぞとばかりに売りつけるチャンスだ。――アニータは香水を買ったのか?」
「え、うん。ええと、どれを買ったのか、ぼくなんか銘柄もメーカーも詳しくないし、匂いも結局わからなかったけど」
「そうか。……スヴェンが彼女の甘い匂いに気が付けばいいな」

ぼくの首筋に鼻を埋めるように柔らかく抱きしめられ、なんだか急に恥ずかしくなった。

たぶん、昼間のアニータと香水を売る店員の話を思い出したからだ。

――ねぇ、イージー、香水ってね、キスをしてほしいところにつけるのよ。

そう言って笑うアニータは、あなたはジョゼにどこにキスしてほしい? と至極小さな声で囁いた。それにどう答えたか、ぼくはあまり覚えていない。頭の上からくまなくぼくに吹き付けられた香水を思わず意識してしまい、耳まで熱くなったことは覚えている。

アニータは、どこに香水をつけたのだろう、なんていうちょっとプライベートすぎる想像までしてしまいそうになって、慌てて頭を振った。

「……アニータは」

そんなぼくの内心を知ってか知らずか、ジョゼは一人ごとのように言葉を零した。

「彼女は、以前、香水は苦手だと言ってたから。それを楽しく選ぶ日が来たというのなら、喜ばしい事だと僕は思う」
「え。そうなの?」
「うん。昔、マカオに居た時に香水を付けて店に立っていたから、思い出してしまうと言っていたな」
「…………知らなかった。そんな辛い気持ちを押し込んでいるそぶりは、全然なかったから」
「それじゃあ吹っ切れたか忘れたか、どちらかだろう。彼女は笑っていたんだろう? それなら、楽しい思い出を上書きできて良かったと思えばいい」

今日の彼女は、待ち合わせをしてから手を振って別れるまで、始終楽しそうに笑っていた。だからきっと、香水の匂いで過去を思い出して辛くなったりはしていない、と信じたい。
アニータが楽しかったのなら、香水まみれにされた甲斐があったのかもしれない。

ぼくはといえば、昔たくさん甘い匂いを嗅いだから鼻が鈍感になったのかも、なんていう呑気な悩みしかない。トラウマになっているのはむしろ幼少時代の寒さと暴力への恐怖で、そんなものはトロムソにはホイホイと落ちているものではない。
寒いけれど、家の中は暖かい。ぼくはジョゼの家の床暖房が好きで、ついソファーではなくて床に座ってしまう。彼の長い足にじゃれつくのも好きだから、自分でも猫みたいだな、と思っているところだ。

でも、ジョゼはぼくを決して猫扱いはしない。
ちゃんと恋人として傍に置いてくれているので、なんというか、その、猫の方がよかったかも、というくらいに恥ずかしい気持ちになる時も多々ある。

例えば今みたいに、膝の上に抱え上げられて抱きしめられ、軽いキスを落とされると、彼が感じている愛おしさみたいなものが恥ずかしくなるくらいに伝わってきて、ぼくは彼の身体の上に崩れ落ちてしまうのだ。
……この家は暖かいし、この人は、とても暖かいから、ぼくが寒さに怯えることはない。

「キミを甘い香りで汚した店員は腹立たしいが――……、石鹸以外の香りがするキミも、悪くないな」
「ジョゼはいつもセーターの洗剤の匂いがする……」
「僕も香水をつけたほうがいい?」
「うーん……別に、どんな匂いだって、汗のにおいだってぼくは、あなたのものならなんでも好きだけど。でも、香水つけるなら、鎖骨と喉仏にしてね」
「……何でだ?」
「キスしてほしいところにつけるんだって、アニータが言ってたから」

ぼくはあなたの鎖骨と喉仏に吸い付くのが好き、と言うにはほんの少しの勇気が必要だったが、ぼくの些細な愛の言葉を受けたジョゼは珍しくソファーに沈んで耳を赤くしていたから、今日香水まみれにされたのも悪くない体験だったんじゃないのって思ってきた。

ぼくは匂いに鈍感だから、ぼくに似合う香水はぜひともジョゼに選んでもらわなきゃならない。ジョゼが香水も悪くないって言うなら、甘い香りをほんの少し、耳の後ろに吹きかけるのも悪くない。
ぼくはジョゼの甘い言葉と一緒に耳にキスされるのが好きだから。
……これを言ったら今度は、キミはもう今日は喋るなと言って唇にキスされた。



椅子を買いに行ったら香水まみれにされて恋人にキスされた日の話。