面とモノノケ
「ガセかなぁーって思うわけですけど」
どうしましょうか、と、首を傾げた所で電話口の向こうの相手には見えないわけだが、どうも身振り手振りをつけてしまうのは癖だった。
朝出てきたというのに、あたりはすっかり暗い。一日ぎっちり入れた予定だったのに、という疲労感と絶望感が全身にずっしりとのしかかっているような感覚だった。絶望とまではいかないが、苦笑いはこぼれてしまう。
電話口の馴染みの編集長も同じ感覚を味わっているらしく、なんとも言えない息の音を感じた。見えないがおそらく、片眉を跳ね上げた難しい顔をしていることだろう。谷崎編集長は大変フラットな方で大概はにこにこというよりはにやりとしている人なので、苦い声が似合わない。
『あー……全部だめ? 全然だめ? ひとっつも使えない?』
「ダメですねーこれ。いやネタとしておもしろければ適当にねつ造して煽って書けなくもないですけど、正直面白く書けたとしても個人の中傷だし人権侵害でしょう。相手が死んでるとか犯罪者だとかならまだしも完全に逆恨みですし」
『まじか。そうか……おもしろいと思ったんだけどなぁ……「現代に実際していた!? 河童信仰の禁断呪術を受け継ぐ闇の巫女!」』
「字面はいろんな意味で面白いですけどね。禁忌だったのはご本人の存在そのものでしたよ」
薄暗い道を歩きながら、さっきまで延々と話を聞いていた女性の事を思い浮かべた。
水瀬は三十代前半といった風情の、ごく普通の女性だった。
ライター用の名刺を渡した俺の事をやたらと親し気に『秋さん』と呼んだあたりから、なんか微妙だなぁとは思っていた。
職業柄、やばい人間とも結構話す機会が多い。あ、こいつちょっと変だな? というのは話して五分でなんとなくわかる。話が通じない相手は決してこちらの話を聞こうとか理解しようとかしない。
「いやーまー創作のネタくらいにはなるかと思いますけどね。河童信仰もなにもネットで手に入れた河童のミイラがご神体だし実際にそれを見せてくださいってお願いしても、入信しないと無理だとか言うし、結局彼女がどうしてこんなに不幸になってしまったのかっていう身の上話と職場のいじめ被害の恨み辛みを延々五時間ですよ。不幸っていっても現在同じ会社に勤めてるそうで、毎日ちくちく嫌味を言われてるくらいのもんだし。いやそりゃ、それが死ぬほどしんどいって人もいるでしょうけど。そういうのはオカルト雑誌のライターに話してどうなるもんでもないでしょ」
『ただのダメな奴だったかー……実際周りに不審な事件とか続いてるっていう噂は?』
「それ午前中にさくっと調べましたけどね、噂ですね、まじで。隣の家の老人は確かに死んでますけど老衰です。彼女の家の周りで怪我や事故が相次いでるってのも、偶然っていうかある意味必然ですよ、交通事故多発のカーブと傾斜がある道路が近くに二つもあるんです。そら事故も多い。彼女が越してくる前からこの辺は事故が多いそうで」
『あー。関係ないなそりゃ。思い込みタイプか……うーんいけると思ったのに……ガセでもわりと面白いタイプだと思ったのに……』
「まあねー。思い込み宗教タイプとしてはぶっとんでてアリだとは思いますけど。自分が河童様に選ばれたのは同僚の女への恨みが募ったからで彼女を殺す為に日々精進してます、なんて言われたらね。ぶっとびすぎでしょ」
『没かー。没かなー。じゃあどうするよこの記事の穴埋め』
「なんか適当に書きますよ。この前微妙だって没にしたほら、埴輪は宇宙人の武器だった説とか……」
『うーんぶっとんでるけどまあ、物騒なもんよりはマシか。いやー申し訳なかったね秋ちゃん、取材までさせたのに』
谷崎さんの情けない声なんて珍しいものを聞けたのだから構わないと笑えば、電話向こうの声は少し明るくなった。
面白そうなくだらないネタあるんだけど、息抜きにどう? と声をかけてくれたのは普段お世話になっているキオン出版の谷崎編集長だった。
なんでも、自称黒巫女という女が怪しい呪術を行っているという、どう考えてもくだらないし笑い話くらいにしかできないような話だった。
確かに息抜きには丁度いいくらいのあほらしいネタではあったが、谷崎編集長が毎月死ぬ思いで出版しているオカルト雑誌『オソロシ』は、そのコアなネタ感が一部で受けていて割と売れているらしい。ネットのオカルト掲示板を見るような感覚で騒がれ、SNSで注目されたのが妙なブレイクのきっかけだったと記憶している。
その雑誌の一角に毎度民俗学とオカルトを足して三くらいで割ったようなコラム『忌日和』を連載させていただいている身としては、編集長の頼みは断れない。
じゃあ穴埋めの記事の打ち合わせは明日で、と都合をつけ、俺は電話を切った。
ふわーとあくびが出る。ついでのように腹が鳴り、そういえば何も食っていない事を思い出した。
何か食って帰るのも面倒くさい。かといって連れもいない一人暮らしだ。いそいそと帰ったところで食事が待っているわけでもない。
ひとつ、うまい飯を家でのんびり食える手だてがあるにはあるが、それには対価が必要だ。
差し出すものと得るものの価値を考え、いやでもイカ大根食いたいなぁと腹を摩り、誰もいない夜道でその名前を呼ぼうとした時だった。
「秋さん」
俺が呼ぶ前に、俺の名前が呼ばれた。
けれどそれは、俺が呼ぼうと思っていた者の声ではない。
先ほどまで延々と不幸自慢をしていた自称闇巫女の不幸な女だった。
「よかった、追いついた……お車だったら、どうしようかと。あの、すいません、わたしお食事を用意していたのに、ついお話に夢中になってしまって。ぜひ、わたしの家でお食事を……あの、原稿の依頼の件も、まだきちんとお話してませんし、それも、ほら、ペンネームとかも、考えなくちゃ」
「……いや、あの、水瀬さん、今回はルポの取材で、まだお話を伺っただけなので、編集に持ち帰って実際どうするかという相談をしないといけないんです。お時間を割いていただいて、このようなお返事しかできないのは恐縮ですが……」
「でも、わたし、書かなきゃいけないんですよ。そうだ、書けばいいんだってお話してて気が付いて……わたし、昔小説を書いていたんで、だから、書くことは好きで、いえ、とてもお見せできるようなものではないんですけど、ただ、書けばいいんだって思ったので、そのお話と、原稿料のお話を」
「……すいません、家で妻が待っているもので、今日は帰らなくちゃいけないんです」
だめだ、話通じないわ、と判断する。
後は逃げるしかないので、俺は無害そうと評価または揶揄される笑顔をふんわりと浮かべて、適当な言い訳を口にした。
ものすごいイケメンでもないが、見れない顔ではないことを自覚している。取材の際には、自分の好青年的な容姿を意識して行動することもある。ただ、やばい人間は何かと依存したがる傾向が強いので、こうやって追いかけられたりすることも、少なくはない。
勿論俺は独身なので完全な嘘である。相手が女性だと知っていたのだから、フェイクの結婚指輪でもしてきたらよかったな、と後悔しても遅い。
大概は連れが居ることを仄めかすと、まるで騙されたかのように嫌悪も露わに諦めてくれるものだが。
一瞬茫然とした水瀬はしかし、困ったように笑って一歩近づいた。
「……でも、ごはん、作ってしまったので。食べないと、もったいないし」
それはお前の都合であって俺には関係ない、とは言わない。
ただ、こちらも一歩下がる。さて走って逃げて大丈夫だろうか。彼女が投げられる武器のようなものを持っていたら背中を晒すのはまずいだろう。そう、例えば包丁とかナイフとか。アイスピックや千枚通しでも、思い切り投げられたら流石にやばい。
石だってぶつかりどころが悪ければ死ぬっていうのに。
「お金が欲しいわけじゃ、ないんですよ。わたし、知ってほしいんですよね、わたしのこととか、ほら、同じような境遇の人に、呼びかけたいし、あと、きっと伝聞することで、呪いが強まると思うんで、だから、やっぱり書いて発表しないとダメだと思うし、ごはん、冷めちゃうんで、もったいないし」
「水瀬さん、あの」
「よかったら、泊まっていってください、一泊だけでも、あの、あの女、わたしを見下しているんですよ、自分の方が美人だからって、結婚して子供もいるから勝ってるって、だからわざと親切するように見せかけて、わたしの足を何度もひっかくんですよ。痛くて夜中に目が覚めるんです。家でもひっかくんです。すごい執念だなって、わたし、びっくりして泣いちゃうんで、秋さんが一緒にいてくれたらわたし、とても安心だなって思って」
「水瀬さん」
「秋さんって、あの、素敵な名前ですよね。ごはん作ってあるので、どうぞ、ええと、朝ごはんはわたしはパンなんですが、最近はあの女が邪魔をするのでみそ汁しか作れないんですが、そうだ、買い物に行きましょう。歯ブラシもないし、タオルも買わなきゃいけないし」
だめだ、と諦める。
何度呼び掛けてもダメだ。完全に頭がおかしい。まあ、インタビュー中もわりとこれに近い感じで、何言ってんのかよくわからなかったけれど、それをじっくり優しく聞いてやったのがまずかったのかもしれない。そうは言っても仕事だからどうしようもない。
もう彼女の名前を呼ぶことを諦めた俺は、仕方なく。……仕方なく諦めて、先ほど口にしかけた名前を呼んだ。
「――小林」
一言でいい。
その後に、そいつは必ず現れる。
「ここに」
耳に馴染む気持ちの良い声は、いつもは俺の右側から響く。しかしこの時は正面の女の後ろから聞こえた。
唐突に響いた男の声に、水瀬は驚き声を上げようとしたようだ。息を吸う、振りかぶる、声を上げる、そのアクションの前に彼女は全ての動きを止めてぐらりと足から崩れ倒れた。
その後ろから現れた男は、小ざっぱりとした黒いスーツと、いつものように不気味な能面をつけていた。
小面という女面をつけたこいつの事を俺は実はあまり知らない。
ただ、人ではないことくらいは流石に承知していた。
「……お前、お願いするまえに片付けんのやめろよ……」
地面に倒れた水瀬を見下ろし、俺は呆れて声を上げる。
小林の表情はわからない。きっちりと背を伸ばして立つ能面を見上げ、ため息をつくのはいつものことだ。
「お困りかと思いましたので。この方はどうやら刃物を握っているようですが、お手伝いは不要でしたか?」
「いや必要でしたけども……けども、お前だってこれ、俺のお願いごとにひとつカウントされんだろうが。対価求めるものを押し付けるスタイルやめてくださいやがれ」
「時間短縮ですよ。どうせこうなっていたのですから、問題はないでしょう」
「そりゃそうだけどなんか解せねえなー……」
しゃがみ込んで様子をうかがうと、水瀬は眠っているようだった。相変わらず人じゃない奴は恐ろしい。こんなオカルトが身近にいては、どんな取材も題材もあほらしく思えてくる。
水瀬を背負っていくのも面倒で、だからと言って救急車呼んで放置するのもどうかと思い、結局また小林を頼る事になる。
なるべくならば呼び出したくないし、なるべくならばこいつに何かを言いつけたくない。
『我々は与え、受け取る事ができない。なにかを成すには対価を交換するしかない』
というのが、人ではない小林のルールだというのだから、俺が小林をほいほい頼りたくないことは察していただけると思うわけだ。
水瀬を家に移動させてもらい、やっと安堵の息を吐き、そういえば腹が減っていた事を思い出して余計に疲労した。もうどうにでもなれ、と思う。
「小林、面倒ついでにあと、もう一個」
「はい、何でしょう」
「イカ大根食いたい。夕飯よろしく」
「……それは対価交換の申し出でしょうか」
「うん、それでいい」
「…………私が言うのもどうかとは思うのですがもう少し自分の身体を大切になさった方がよろしいのでは」
「大切にしてんだろ。代わりに命を差し出せって言われたら断るよ。物々しい言い方すんな一晩一緒のベッドで寝るだけだろう生娘じゃあるまいし姦淫するわけでもないのに」
笑う俺の隣にぴたりと並んだ小林が、ぐっと言葉を飲んだのが面白い。
どうやらこの面妖な妖怪は、どうにもしがたい感情を人間に抱いているらしい。その人間というのはまあ、俺の事で、つまりはそういうことだった。
好きか嫌いかと言えばまあ悪くはないが性別云々の前に根本的な種族が違う。生きる世界がリアルで違う。嫌いじゃないなら付きあえばいいなんていう軽さで応じるわけにもいかず、結局俺はまあお前がそれでいいなら許容できる限りは許容するよ、なんていう偉そうな状態に落ち着いてしまっていた。
たぶん、憑りつかれているいるような状態なのだと思う。
ある村で、ある事件をきっかけに、俺は小林に付きまとわれることになった。
小林は便利だ。大概のことを意味のわからない力でこなす。科学なんてくそくらえだと思う。不思議なことってやつは確実に存在する、と毎度思い知らされる。
そして俺が小林に望んだものの対価に、小林は俺の時間を求める。一度面倒くさいからお願い一つにつきキス一個じゃダメなのかという会議をしたが、面の口にキスされるよりも抱きしめられた方が嬉しいなどと可愛らしい事を言いやがって俺の方がなんだかアレな感じになった。
小林は恐ろしい。
いや別に、存在が怖いとか人じゃないのが嫌だとかそういう嫌悪感はない。
「――もう少々、他人に厳しくなさっては」
「いや充分厳しいでしょ俺。つか仕事関係の相手に失礼な態度も取れないし」
「それはそうですが。……秋吉さまが笑う度ににやにやと笑うあの女を、私は何度も殺してしまいそうになりましたよ」
人ではないモノの感情は、思いもよらない主張をしだすから恐ろしい。
「怖い事言うなよただでさえ怖い顔してんだから」
「顔はどうしようもありません。心の目で見てください」
「どんな目で見ようが能面は能面だろ」
うははと笑うのは、狂おしい感情に当てられるのが怖かったからだった。
End
長いの書きたいなぁと思って小林。