SUGAR×SPEAKER
その部屋のドアをノックするまで、実は五分ほど悩んだ。
ニールの住まいは相変わらず僕の勤める薬局からほど近い寂れた古いアパートで、冬は暑いし夏は寒いし、煙草のにおいで満ちている。
それでも通うのは、僕の新しい住居がほんの少し遠くなってしまったことと、自分の部屋に彼を招くとどうしても送り出すのが寂しくてだらだらと袖を掴んで泊まって行ってとねだってしまうからだった。
自分が帰るのは平気なのに、ニールにさよならと言われるとダメなんて訳がわからない。けれどそんな僕のわがままを笑って許して『俺もたまには袖を掴んでねだるかもしれないけれど』と言ってくれるから、本当に彼は甘くてすばらしい恋人だと思う。
今日は珍しく早番で、ニールは公休だった。お互いにカレンダー通りの休みではなかったけれど、逆に週末以外はゆっくりと過ごせることが多い。
まだ夜も更けないうちから会えるのは正直うれしい。彼と出会って一年以上すぎたけれど、いつまで経ってもまったく落ち着けない自分が恥ずかしい。
そわそわと仕事をこなし、応援で店舗に顔を出していた斉脇さんの誘いを断り続け、逃げるように店を出た。
夕飯の相談はしていない。久しぶりに一緒に作るのも楽しそうだし、外食する時間だってたっぷりある。
本当に浮かれながら階段をかけあがり、なじみの部屋のドアの前でノックの為に浮かせた手を止めたのは、中から言い争う声が聞こえたからだ。
片方はニールだった。怒鳴っていても声を張り上げる人じゃないから、ちょっとなにを言っているのかわからない。
もう一方の声はたぶん男性だろう。高めの声は早口の英語で何かをわめいているが、こちらも早すぎてよく聞き取れない。
不思議だったのはその高い声に妙な聞き覚えがあったことだった。
僕はNYにほとんど知り合いがいない。
仕事場のスタッフはほとんどが女性だし、ニールの部屋に彼の友人が来ているとしてもその知り合いの声にどうして聞き覚えがあるのかわからない。
唯一ともいえる共通の知り合いは彼の同僚のニコラス氏だが、確実に別人の声だった。
……警察を呼ぶほどのトラブル、ってわけじゃないだろう。たぶん。と思うものの、入っていいのかわからず首を傾げてしまう。
さりとて帰ろうかという選択肢はない。結局僕はほんの少し覚悟を決めて、強めのノックをしてドアを開けた。
「……あの、ニール……なにか、トラブル……」
おそるおそるのぞき込んだ先には、なぜか既視感のある知らない男の顔があった。
ばちばちと音がでそうなほど派手な瞬きをする。ニールと同じ赤毛だけれど、ニールほど柔らかくはなさそうで、きれいにふわりと流すようにセットされていた。
こちらも何度か瞬きをする。
そして見覚えがあるのはなぜか、ということに思い当たった時にはなぜか彼に全力で手を握られていた。
「ワォ!! やぁこれは光栄だキミが例のスモーキング・ノーマンの心を煙草から奪い取ったスーパーヒーローだねうははちょっとノーマン面食いすぎるだろうすこぶる美人じゃないの! 僕は日本人の顔には詳しくないけど絶対美人だそのくらいはわかる、なんていうのこういうの、アジアンビューティー? ヤマトナデシコ? ああもう、とにかく光栄だし嬉しいしすばらしいし世界と今日の偶然に感謝だねどうもキミのことはほんのちょっとしかノーマンは話してくれないんだけどクロエからたまに聞いてるよミスター・キャンディ!」
「…………スピーカー・ジャック……?」
「うわぁ名乗る前に当てられちゃった光栄が二倍だ! 最近は驕らずきちんと自己紹介しようって心してたんだけど、知っててくれてうれしいよ。ノーマンすら間違える本名はスタンリー・ジャックマンっていうんだ、よろしくね。みんなは面倒がってSJって呼ぶけど、本当に好きなように認識してもらってかまわないよ、ええと日本語で挨拶ってどうだっけ、『ハジメマシテ、ツキガキレイデスネ』?」
「あー……半分くらい正解ですけど……あの、ニール、もしかして彼、知り合い?」
「認めたくないがな。一般的にはそう呼ばれる間柄らしい」
ぶんぶんとSJに手を握られ激しい握手を交わしつつ、壁に寄りかかってため息をついている疲れた顔の恋人を見た。
機嫌は悪くない、と思う。だから本当に友人なんだな、と納得できて、よく休憩室で垂れ流しになっているテレビの画面の向こうとまったく同じ笑顔のSJをまじまじと観察し、どう反応したらいいのかよくわからなくなった。
SJが何者なのか、実は僕はよく知らない。
テレビ番組は基本的に見ないので、本当に休憩室のテレビに映る彼しかしらない。
キャスターなのかタレントなのかスタッフなのか、よくわらかないがやたらとどの番組でも見かける顔だった。
現状がよく理解できないまま、思ったことをそのまま口にすると、SJは相変わらず僕の手をぶんぶんと振りながら高らかに笑った。
「僕が何者かなんて僕がいちばんわからないよ! そうだね、たぶんうちのチャンネル――NICYっていうんだけど、それ自体がわりと僕そのものって感じかな。NICYの仕事なら僕はなんでもやる! ニュースキャスター以外はね。NICY以外の部分の僕の自己紹介をすると、某有名イケメン俳優の公認恋人で、そんでノーマンの数少ない友人ってとこかな!」
「勝手に俺の友人の数を少なくするな」
「え、いっぱいいるの?! できたの!?」
「……いないけどな、なんだかこう、おまえに言われたくない感がとんでもないし、いい加減センセイから手を離せ感染ったらどうするんだ」
「うはははなにが感染るっていうんだよ口うるさい病!? ほもが感染るとか言うなよノーマン、きみだって彼にメロメロなくせにー」
「いいから黙って出ていけって三十分言い続けている俺の努力をくんでくれよSJ……おまえがメロメロしている俳優のところにいけばいいだろ」
「だーから、僕のハニーは今日はプロデューサーと演出家とごーはーんーなーのー。それじゃあ僕暇じゃない? じゃあ僕も友達とご飯とかしたら寂しくないんじゃない? って一時間悩んでみたんだけど連絡が取れてさくっと会える友人ってノーマンしか思い当たらなかったんだってばー! ごーはーんーいーこーうーよー」
「お前と外出なんて死んでも嫌だ。今までディナーの誘いなんて来なかったぞ。何してたんだこの五年間は」
「勿論仕事さ! 寝て食べる以外は仕事だよあったりまえでしょ他に何すんの」
「……じゃあ仕事してろSJ」
「それがさぁ、最近スタジオ入りっぱなしでいい加減休めって出禁にされちゃったの」
甲高い声の彼の早口を聞きとるのは、僕の耳ではやっとだった。
なんとなく雰囲気で理解して、つまり彼は暇で、そして友人と食事をするために押し掛けて、最終的にはニールに邪険にされているのだということまでは理解した。
眉に深い皺を刻んだニールは、煙草を切らした時のようだ。
苛々している。でも、不思議と不機嫌ではないのがわかるから、僕はなんだか微笑ましい気分になって笑ってしまった。
僕の手をSJから奪い取ったニールは、お帰りと恋人の顔で囁いて耳元にキスをくれる。
いつもは唇なのに、友達に遠慮しているのもちょっとかわいい。
「騒がしくて悪い。センセイは着替えて待ってろ。今この煩い虻を追いだすから」
「え、いや、別に、僕は彼が居ても構わないけど。夕飯一緒に食べたいだけでしょう?」
「……正気か? 嘘だろ」
「ニールは嫌なの?」
「…………嫌、と言う程ではない、けどな。あー……いや、センセイが良いなら……でも、いいのか、本当にこいつは驚く程煩いし喋る」
「聴き取れるかどうかは怪しいけどおしゃべりは好きな方だし。あとなんか、ニールが年相応の若者って感じで喋ってるのなんか好きだなって。僕の前だとかっこよすぎる彼氏だから」
「格好つけてるんだよ、これでもな」
ふわり、と甘い笑顔で額にキスをくれるのがくすぐったい。こんな風に誰かの前でスキンシップを取ることはないから、本当に友人として彼の事を信頼していることがわかった。
僕達のささやかな会話を横目で眺めていたSJは、若干興奮したように声を上げた。
「ワオ、驚いたノーマンって笑うんだね!?」
友人だという彼までもそんな事をいうものだから、僕は笑うよりも呆れてしまう。
「……それ、みんなに言われてるけど本当にニールって笑わないんですね……」
「笑わないよ! スモーキング・ノーマンってあだ名がつく前はノースマイル・ノーマンだったんだから。クロエの前だとほんと、ほんっとうっすら笑うかな!? え、今の笑顔かな!? って目を凝らしてギリギリわかるくらいだったし、どんなに親しい人間が隣にいてもノーマンの表情筋はいつだって冷静だなんて言われてたんだから!」
「なんだその妙な例えは。俺は知らないぞ」
「悪口を面と向かって言う人間は流石に馬鹿だしそういう馬鹿は僕は嫌いだったから早々に周りからカットアウトしたのー。僕ってば優秀なファイヤウォールだったんだからね! 勝手に僕が自分の環境作りをしてただけだから感謝しろとは言わないけど、一晩食事くらい付き合ってくれてもいいんじゃないのーねーねーノーマンいいでしょキャンディーさんも良いよって言ってくれてるんだからもうキミが嫌だって言い続けるなら僕はいっそキャンディーさんと二人で夜の街にくりだしてキミの学生時代のエピソードをあることないことふきこむことにするんだから!」
「……おまえ昔からそんなに強気だったか……?」
「んーん。最近ね、ハニーがわりと僕に甘いから世界ってもしかしてもうちょっと甘えても怒られないんじゃないかなぁって思ってきたんだよね」
うはは、と笑うSJはとても楽しそうで、僕は好感が持てた。
よく見たらイケメンだ……と思う。実はまだアメリカ人の顔の美醜がうまく判断できないんだけれど、ニール程じゃなくてもすらっと背は高いし、手足は長いし、奇麗に笑った顔はチャーミングという感じだ。
僕がじっと見つめていた事に気がついたらしい彼は、首を傾げてにっこり笑う。
ああ、うん、かっこいい、と思わず赤面しそうになって、それを見られていてニールに睨まれてしまった。
僕の恋人は嫉妬深くて本当にかわいい。
「…………センセイの好きな顔?」
「いや、えーと、好きな顔っていうか、真正面から笑顔向けられたら、普通照れる、と思うし僕はニールが好き」
「知ってるし信じてるし別に疑っちゃいないがイラっとするもんは仕方が無いな。生理現象みたいなもんだ。……あー、いいよSJ。飯だけは付き合ってやる。ただし外に食いに出掛けるのはナシだ。お前をひっ連れていたらどこに居たって注目の的だ。十分待ってろなんか買ってくる」
「デリバリーのピザでもいいよ? 僕は割となんでもおいしくいただくよ? あ、お金は僕が出すから気にしないでっていってもキミ高級取りだったっけねえ」
「いいから大人しく待ってろ。センセイは、あー……いいや、ちょっとその煩い男の相手してて。悪い奴じゃない。良い奴かって言われたら保障できないけど」
「そこは言いきってよマイフレンド! キミってばほんと僕に厳しい! わりと仲良かったじゃないの! 少なくともいきなり訪ねてきた僕にドアを開けてくれるくらいには――」
「お前が勝手に入って来たんじゃないか。俺はドアを閉めた」
「つれない!! ほんとつれない!!! もっと僕に優しくなってよニール・ノーマン!!」
「十分優しいだろう煩い黙れ俺は買いものに――」
ニールが玄関のドアを開ける、その寸前にドアが三回ノックされた。
この部屋のドアがノックされることは、基本的にない。多分僕が時折ノックするくらいだ。
SJの来訪だって稀に見る事態だったのだろう。ニールは片眉を器用に上げて、ドアスコープを覗いてから慌ててドアを開けた。
その先に立っている人を見て、僕とニールは固まってしまう。
「あれ、ハニー!? あれ、ご飯行ってたんじゃなかったの!?」
SJのすっとんきょんな声が響く。
本物のハロルド・ビースレイは薄いサングラスをさらりと身につけ、至極疲れた顔で溜息をついた。
「……向こうの予定が狂って、結局延期になったんだ。携帯に連絡したのにきみは出ない。意味深なメッセージを残しただろう。あんなメッセを聞いた後じゃ俺はきみを追いかけないわけにはいかない」
「――SJ、お前、彼氏になんて言って出てきたんだ」
「ん? んー。んー……『ちょっと旧友と浮気してくるよ!』だったかな?」
「……恋人に謝って今日はそっちで飯を食え」
溜息をついたニールに、サングラスを取った俳優さんはささやかに笑いかけて握手を求めていた。
僕は映画に詳しくはないけれど、彼が出演している作品は見たことがある。本物のテレビキャスターが目の前に居るだけでも不思議なのに、映画の中の人間が玄関に立っていることも不思議で、現実とは思えなかった。
「いきなりお邪魔して申し訳なかった。こんばんは、ハロルド・ビースレイです。あー……そこの煩いスピーカーと旧友だと伺っているし、時折クロエからも話を聞いているよ。こんな成り行きでアレだが、会えてうれしい」
「……どうも。俺も、姉からたまに聞いているから初対面な気がしない。ニール・ノーマンです。どうしてこの家が?」
「NICYのスタッフにスタンがどこに行ったか心当たりはないか、と聴いたら一発でスモーキング・ノーマンの名前が挙がった。あとはクロエに事情を話して個人情報を漏らしてもらった。謝るよ、だが俺はスタンを回収しないといけないと思ってね」
「懸命で聡明だ、と思うから問題はないです。ほらSJ、迎えが来たんだからさっさと帰れ。おまえ何どさくさにまぎれてセンセイの手を握ってんだ離れろくそが。わかった今度ランチに誘う! 誘うから今日は帰れ!」
「うー……僕はキャンディーさんとご飯が食べたい……」
何故か懐かれてしまったようで、僕はぎゅっと手を握られたまま身動きが出来ない。
ニールの視線が痛いし、心なしかハロルドさんの視線も痛い。けれど離してとも言い難く、日本人精神よろしく苦笑いを零すしかない。
色々な事があって、よくわからなくなってきた。
もう、どうにでもなれ、と思って僕は口を開いた。
「……もう面倒だから皆でディナーしたらいいんじゃない?」
この言葉にSJは顔を輝かせ、ハロルドさんは驚いたように目を見開き、ニールはとてもイヤそうに眉を寄せたものだけど。
僕は旧友と喋る容赦ないニールが好きだったし、SJという彼の言葉の濁流も好きで、そしてハロルドさんが一々SJの言葉に反応するのもかわいいと思ってしまった。
これも縁だ、と思う。
NYに来てから、色々な縁が広がりすぎて、もう僕一人では抱えきれないのだけれど。たまには、非日常を楽しむべきだと思えば、どんなハプニングもおもしろく感じた。
「わぁミスター・キャンディー素敵な提案だ! でも僕料理できないけど大丈夫?」
「……ありがたいし、嬉しい誘いだが……残念ながら、俺も料理は不得意だ」
「僕も、あのー。……サラダ、くらいしか」
三人に見つめられたニールは、暫くしてから重い溜息を付き、財布をポケットにつっこんだ。
「…………ミートボールにペンネ。文句言うやつには飯はない」
なんだかんだいって、他人に甘いニールに、僕の他にも笑いが零れた。
「ノーマンってさぁ、わりと他人に甘いよねぇ。だから好きなんだけどね!」
「……僕も、そう思います」
何故か握ったままだった手を、今度はハロルドさんが丁寧に解くのが面白くて僕は旧友に対するように笑ってしまった。
よくわからない事ばかりで面白くて、本当に不思議な日だった。
end