マシュマロココアと憂鬱美容師
師走というのは本当にアホみたいに忙しいもので、その忙しさだけならばまだしも、何に焦っているのか世界人類の余裕が比較的品薄になるらしい。
というのは、毎年毎年実感するしだからといって対処法がないことだった。
「……どうしたの唯くん。珍しく見るからにだめそうじゃない」
お仕事の依頼の用事で、有賀デザイン事務所の扉を叩いたんだけども。
奥のデスクからでてきた有賀さんは目を見開いてきょとんとした表情をつくった。
あんまり見ない顔だ。この人はいつもまったりぼんやりしているっぽい外見だから、わぁ有賀さんもびっくりしたときは口開くんだぁうははなんて思ってしまう。うん、知ってるおれはとても疲れている。自覚はある。
比較的自覚のあるげっそり感があったおれは、苦笑いも面倒でマフラーで口元を隠す。
書類の入った封筒を受け取りながら、ソファーを勧められたけどすぐ帰るからと断った。
「どうってこともないんですけどぉ……まあ、年末って人間ぴりぴりしてますよね? みたいな案件が積み重なっていい加減人生しんどいみたいな思考に火がつきそうでー……あ、ゆきちゃんおれすぐ帰るからお茶とか気にしないでー」
「まあ、きみは、平気な顔してても結構どんどんため込んじゃうタイプだろうけど。にこにこ笑っているのが義務みたいなところあるのに。……ちゃんと寝てる?」
「うはは、それ有賀サーンに言われたらおしまい感ある〜けどぶっちゃけ寝れなかったっすねぇ昨日ちょっと日々のばたばたプラスお客様にわりと本気で詰られる理不尽事案発生でーなーんかもうぐるぐるしちゃって。いや、おれが何かしたってわけでもないんでへこんだところでどうしようもないんですけどー」
本当に、普段だったらまあこんなこともあるわなぁ人間十人十色ーとか言い聞かせてどうにか忘れることができそうなことばかりだった。
バイトの子のミスでお客様の予約が被ってしまった。確実にこちらが悪い。確認しなかったおれたちも悪い。それは怒られて当然だ。謝るしかない。
お客様のお洋服にカラー剤が飛んでしまってシミが消えなくなった。カラーをしていたのはおれじゃないけど、後々それに気がついたお客様が乗り込んできて、それに対応したのはおれだった。これもどう考えてもこっちがわるい。謝るしかない。
謝るのは当たり前だけど、余裕とか思いやりとかが師走で一気に持って行かれたようなお客様方はわりと本気でおれを詰ってくださる。
怒るのはわかる。謝らなきゃいけないのはわかる。
でも正直なところ、誠心誠意頭を下げても、「生意気ね」なんて言われたらもう泣きそうになっちゃうでしょって思う。そのうえミスした子やらが『たかだあれだけのことでそんなに怒らなくてもいいじゃないですか』とか零すからより一層もやもやが溜まる。
いやいやお気に入りのお洋服を汚されたり、予約した筈なのに無駄になったりとかしたら、そりゃ怒るよそういうもんだよ。言い方きつい人が多かったけど、実際にミスした本人がそれ言っちゃいけない。おれとかチーフがフォローで言うならまだしも。
キミは黙って反省しなさいという言葉を飲みこんだのはチーフにはばれていて、ゆげちゃん今日はもう上がっていいよごめんねとフォローされてしまった。全くもって面目ない。
「ご飯は食べた?」
近所のおばちゃんみたいな心配のされ方して、普段だったら笑えるのになんか心配してもらって申し訳なくて涙ぐみそうになったからおれほんと今日だめだ。
「食ったら吐くと思って」
「……軽くて甘いものでもつっこんどいた方がいいよ。食べない寝ないってのはよくないから。壱くんは?」
「この週末は実家に帰省中。妹ちゃんがご懐妊らしくてー。おれも誘われたんだけど、残念予約がいっぱいでとてもお休みとれる状態じゃなったんでーすというわけで壱さん我慢二日めでーす」
「あー……それも、原因かな。唯くんはほんと、言わないと溜めこんじゃうし、言う人が限られてるだろうからね……」
御名答すぎてぐうの音もでない。まったくもってその通りだ。
なんかほんと人生の転機レベルの何かがあれば電話なりなんなりするんだけど、憂鬱は些細なことばかりで、わざわざ壱さんに連絡をとるほどでもないのは本当だ。何おれへこんでんの? っていう接客やってたらよくあるしかも自分悪くない案件ばかりが襲ってくる。
ちりも積もれば山となるというのを実感する。こんなことで実感したくない。できればおれの人生は平坦であってほしい。山なんざ要らない。そうはいかないことは知ってるけれど。
「うちくる? お酒くらいなら付き合うけど」
「あー。行きたい、って言いたいとこですけど明日おれ早いんですよーう。今有賀さんちで飲んだくれたら絶対明日二日酔いだもん……また今度誘ってください忘年会しましょー忘れようこの世界のしらがみ」
「ほんとダメっぽいね。あの、無理そうだったら電話でもして。シナくんも、明後日くらいからは暇だって言ってたし。忘年会はしましょう。……あ、あとちょっと待って。渡したいものがある」
思い立ったように自分のデスクまで戻り、なんだかがさごそした有賀さんは、一冊のでかい本を持って帰って来た。
写真集? 画集? と思ったけどやけに薄い。あ。これ絵本だ。そう思ったのは表紙のちょっと独特な色鉛筆絵を見た時だった。
「あげる。唯くんたしか、はるくさ先生の絵本好きでしょう? じゃあ、これも好きかなって思って、この前資料と一緒に買っちゃったんだ」
はるくさ、という名前の絵本作家の本を見たのは木ノ瀬先生の病院の待合室で、独特な色遣いの絵が結構好きで、中身もなんていうかじんわり切ないっていうか言葉のチョイスが不思議でヒトメボレしてしまった。という話を確かになんかどっかでしたかもしれなかった。
有賀さんが渡してくれた絵本は横に長い。
ふんわりした絵柄は不思議でおもしろい。多分マグカップに浮かんでいるのはマシュマロだ。そいつにはぼんやりと間抜けな目と口がついている。
表紙にはアルファベットが並ぶ。おれは英語あんま得意じゃないけどそんなおれでもわかる。これ英語じゃない。ちがう。絶対違う。laとかついてる。絶対英語じゃない。
「……おふらんす語……?」
「うん。フランスのね、オーレリー・コラールっていう作家さん。日本じゃ翻訳されてないから、中身もフランス語なんだけど翻訳のメモつけといたから読めると思うよ。タイトルは『マシュマロと憂鬱』」
「え。いいんですかもらっちゃって。なんかおれ好きそうだけど。ほんといいの?」
「かなり遅いけど、誕生日プレゼントだと思ってくれたらいいかなって。包装もしてなくて申し訳ないけど」
「おれ、有賀さんに何もあげてないのに……」
「僕の誕生日、みんなで買いもの行って選んでくれたんでしょ?」
嬉しかったから、と笑う金髪王子社長の腕には、サクラさんが二時間悩んで買った腕時計が巻かれていた。
確かにわりと大変だった。デザインが良いやつはめっちゃくちゃ高くて、おれとシナシナはお値段的な意味でかなり悩んでいたんだけど、サクラさんは値段なんか気にすんな百万とかじゃなきゃ出せるとか言っててほんといろんな意味で怖かった。怖すぎてめっちゃ高いけどめっちゃかっこいい、みたいな時計を視界からカットするのが大変だった。
でも、楽しかったなーと思いだす。おれは本当に友人ってやつがほとんどいないから、誰かの誕生日プレゼントを誰かと一緒に選ぶ、なんて生まれて初めてだったかもしれない。
楽しかったのにお礼を言われて、その上プレゼントまでいただいてしまった。
嬉しいのに鬱が加速してもう申し訳なさがやばい。
「忘年会の時におれ有賀さんになんか買ってきますー……えー、嬉しい……申し訳ない……」
「あんまり気にしないでいいよ。それ、僕が好きだったから好きの押しつけみたいなものだからね。中身もいいけど、後がきがとてもいい」
「あとがき?」
「うん。一番最後にね、『感想は何語だってかまわない。頑張って読むからどんどん欲しい。我慢も配慮も全くもって不要なものだ。ただし返事はフランス語になる!』って書いてある。僕ね、あーこの人好きだなって思ったんだよね」
かわいいでしょ? と小首を傾げるイケメンに、ちょっとというかかなり気を使われているのが分かって、泣きそうだったけどじわじわと嬉しくて、一刻も早く家に帰ってこの薄い絵本を開こうと思った。
ふらふら人生に疲れてぼんやり泣きそうな顔晒していたら、マシュマロに顔が付いている絵本を貰った。
これが、オーレリー・コラールの絵本との出会いだった。
* * *
珍しく、憂鬱が続いているようだったのに。
「……どしたの。急に元気じゃん」
今朝まではまるでゾンビのようだった同居人は、俺が一日の仕事を終えてくたくたになり帰宅する頃には何故か急にテンションを取り戻していた。クリスマスも間近な寒い夜だというのに、真夏の向日葵のようだ。
オーレリー・コラールは絵本作家で、そして本人曰くあまり売れていない。きちんと本屋に並んでいるのだから、自称と言う程ではないにしろ、確かに彼が裕福かと言えばそんなことはないから、まあ本当に売れてないんだろうなと思っていた。
別にオーレリーの絵本が売れていても売れていなくても、俺の生活はあまり変わらない。オーレリーはいい奴だし、彼の描く絵も話も、俺は好きだった。金が無さ過ぎて同居を解消して田舎に帰る、などと言われたら流石に動揺するだろうな、と思うくらいには俺達のルームシェアは好調だ。
ただ、作家業の彼は時折酷く凪いだ気分になる時があるらしい。
ナーバスになると、オーレリーはベランダで星を見ながらココアにマシュマロを溶かす。そしてゆっくりとどうでもいい事に意味を見つけるような言葉を零す。その作業に半ば強制的に同行させられるのは俺か、それとも屋根裏のシュクレさんなんだけど、オーレリーの言葉は不思議なポジディブ感に満ちていたから決して憂鬱な時間じゃなかった。
本人はナーバスになっても、彼は世界を恨んだりしない。まあ、そういうこともあるじゃないか、だから愛おしい人生じゃないか。そんな風にココアをかき混ぜる事が出来るから、柔らかい話が描けるんだろうなと思う。
いつもは二日くらいで復活し、さあ新しい世界を作るぞと陽気に筆を持つオーレリーだったが、今回のナーバスは結構長かった。
なんで、とかそういう理由はあんまりないらしい。ほんの少しの心ない通行人の言葉だとか。夜の肌寒さだとか。雨の音だとか。そういう憂鬱なものが溜まり込んだのさ、と苦笑いを零していたけれど、流石に俺もシュクレさんも心配していたところだった。
それが、今は全くどういうことだ、と言うくらいに元気にパソコンに向かっている。その横には辞書を片手にベッドの上にさんかく座りをするシュクレさんがいた。
うわぁシュクレさんかわいい。俺、シュクレさんがこう、きゅっと縮まってるの好きなんだよなぁなんて勝手にほわほわしていたら、元気すぎるオーレリーがヘイアンリと俺を呼ぶ。
「いいところに帰って来たぜ救世主! 今日ほどアンリの帰りを待っていた事は無いかもしれないってくらいに、首を長くしていたんだ。さあこっちに来いよそんなところに突っ立っていたら寒い! ムッシュ、ちょっとそっちに寄ってアンリを君の隣にちょこんと座らせてやってくれ!」
「……おかえりアンリ」
辞書を抱えたまま、きゅっ、きゅっと横に動く最高に可愛らしいシュクレさんにきゅんとしたけれど、なんだかオーレリーが俺に用事があるらしい。ただいま、とほほ笑んでからシュクレさんの横にすとんと腰を下ろす。
「で、何だよ。何でそんな急に元気なんだよ、ついにドーピングでもしたの?」
「薬に頼るなんざつまらない人間のつまらない手段さ。世界はこんなにも歓喜と憂鬱に満ちているっていうのに、わざわざハイとロウと演出しなくたって人生ジェットコースターだ!」
「…………日本の読者からね、感想が来たんだって。Guimauves et mélancolieの」
「へー。あれ、日本で出版されてたの?」
「まさか! 俺の本がサムライの国で翻訳出版されているなんて俺だって知らないことだ。そんな事が起こっていたなら例え作者に無断だろうが正直嬉しいね! 一人でも多くの人間に俺のマシュマロが届くのは何よりも嬉しいことだ。しかし、残念というか更に嬉しい事にというか、このジャパンの友はフランス語の本を読んだらしい。全く、なんて嬉しいことだ!」
「あー。それで、オーレリーのテンションはマックスなのか」
「マックス? 馬鹿を言え限界なんかもう超えている! こんなに嬉しい事があるか? しかもこのムッシュ・コワフーはフランス語に明るくもないらしい。友人から貰った本に感動して、どうにかこの気持ちを伝えたい……というところまでは解読したんだ。全く誰だ、何語でも構わないなんていうふざけたあとがきを付け加えたのは。あんな一文があったおかげでこんなにも辞書をめくるのが楽しい」
コワフーとは美容師のことだろう。フランス語のオーレリーの絵本を手に入れたのは、日本の美容師の青年らしかった。確かにオーレリーの絵本はちょっと大人向けだ。しんみりと悲しくて、ふわりと暖かい。子供よりも大人に好まれる気がする。
とぼけた顔のマシュマロがココアに浮いて、いろんな人の憂鬱を食べてしまうあの絵本も、俺は好きだけど子供にうけるのかはわからない。
おじいさんが死んだのよ、という大きすぎるおばあさんの憂鬱を食べきれなくて、一緒に泣いて自分の涙で溶けてしまうマシュマロの最後は、切なくてすこし優しい。
オーレリーのPCに並んでいたのはまずは英語で、その下に懐かしい日本語が羅列してあった。
フランス語はわからないが、英語はどうにかなんとなくそれとなく作ってみたけれどあってるかわからない、一応日英文で書く旨が丁寧に書いてある。美容師さんって、確かに日本じゃ接客のエキスパートみたいな感じだ。人を不快にしない単語を選ぶのがうまいみたいなイメージがあって、だからなんか、文面からもやわらかい日本語が伝わって来た。
「ジャパンの文字は面白いな。マッチで描いたようなものと、よれよれの糸みたいなものと、そして中国語が混ざっている。これは一体なんて意味なんだ?」
「それはアンタの名前だよ、『オーレリー』。この人すごく丁寧だね。こういう文章を書くのは初めてだけれど、とても感動したからあとがきを信じて言葉を送るって事が書いてある、かな。ちょっと待って、俺翻訳とかしたことないから、時間かかる……」
自分の考えたことを言葉にするのと、今ある文章を正確に変換するのとは随分と違う。
ニュアンスみたいなものもあるし、そもそも俺はちゃんとフランス語をしっかり勉強したことはない。
現地で覚えたスラングとか、雰囲気で理解してる言葉がわりとある。最近ようやくちゃんと覚えないとやばいなーと思って、クレマンさんの本とか借りてシュクレさんの部屋で勉強してたりするくらいだ。
「あー。これ、ちゃんと訳したいから、ちょっとプリントアウトしてよ。明日休みだから、オーレリーが起きるまでにはどうにかしておくよ」
「本当か! なんて同居人思いの料理人なんだ、アンリ! 今そこにムッシュがいなければ俺はお前をだき抱えてくるくると部屋の中をダンスしてそしてキスを一発お見舞いしていたところだ!」
「シュクレさんが居なくても勘弁して。嬉しいのはわかるよ。……俺も嬉しい。あのマシュマロの話はさ、もっとみんなに読んでほしいから」
ざっと目を通した感想文は、固くて丁寧すぎてなんだかかわいい。この人、ほんと緊張してんだなぁでも、言いたかったんだなぁって微笑ましくなる。
細かくここが、そこがと書いてあるところはとりあえず宿題にすることにして、最後の結びだけをなんとなく、俺流に翻訳した。
「あなたのマシュマロに、僕も憂鬱を食べられた。今夜はあなたのお陰で眠れる。だってさ」
「――俺こそ今夜は眠れると感謝をしたいところだ。忘れていたな、誰かに読まれる為に何かを描いているということを。思い出したぞ、そうだ、ただ描きたいだなんてそんなのは理想さ。読まれたい。そして心に残りたい。そういうものが俺は描きたい」
歌いだしてしまいそうなオーレリーの言葉は力強く、そしてやっぱり少し優しいから不思議だ。
いい奴なんだよなぁと思う。いい奴だし、いい話を描く。俺も彼の絵本が日本の誰かの心に残ったことが嬉しく、くるくると踊りだしそうなオーレリーを苦笑いで見つめてシュクレさんと笑った。
「メールアドレスに返信するならそこの翻訳まで付き合うよ。オーレリー、英語も怪しいだろ」
「全くもってこのシェフは恋人に甘いだけじゃない。キスの代わりにアンリのココアにマシュマロをとかそう。今日のこの幸福な気分を表現する飲みモノは、マシュマロココアしかない、なあそうだろう?」
こっちの返事も聞かずに、オーレリーはココアを淹れだす。
甘い香りが満ちて、空気がふんわりと冬の気配を持った。夏はスカッシュを飲んでいる男だから、この香りが満ちるとああ冬だと思う。俺もすっかり、この部屋の生活に慣れてしまった。
柔らかいマシュマロをとぷんと浮かべる。
疲れも憂鬱も食べてしまうオーレリーのマシュマロだ。
「――日本のムッシュ・コワフーが、明日もよく眠れるように祈って」
乾杯の言葉までくさくてかっこいい。全くその通りだったから、俺も祈ってと付け加えて甘いココアに口をつけた。
口うるさいオーレリーのマシュマロココアが、遠くの彼の憂鬱を食べた話。
end
オーレリーとかアンリとかシュクレさんのおはなしはこちら> 屋根裏のシュクレさん