花と花。
「勧酒、好きなんだよねぇ」
はらり、と音もなく落ちる花弁を追って窓の外を眺めていた時だった。
春先はどうも、忙しない。久しぶりに休みが被って、じゃあ桜も咲いてるし花でも見ながらお酒でも、という話になった。週末には町内会の春祭りと花見会が控えている。
ここんとこ雨ばっかりだったから、平日とはいえ近所の公園は夜桜見物で溢れていた。
肌寒い中見上げる桜もいいけど、スワンハイツの窓から見える桜だって十分風流だ。
ふわりと甘い日本酒を注がれながら、甘く微笑む有賀さんの言葉に首を傾げた。
「なにそれ、酒の名前?」
「違う違う。漢詩の題名。聞いた事ない? 『花に嵐の例えもあるぞ』」
「あ。さよならだけが人生だ?」
「そう、それ」
「へー。あれって漢詩だったのなー」
相変わらず、変なこと知ってる人だ。
有賀さんはテレビをあまり見ないし、本を読んでる時間もあんまり取れていないようで、結局知識はネットに頼ることになるらしい。耳年増で恥ずかしいけど、なんて笑うけど、有賀さんの独特の感性と言葉はやっぱり柔らかくて面白いから、これからもどんどんとググってそのおこぼれを俺に披露してほしいと思う。
ところで俺は何処で耳にしたんだろうなぁ。
なんかの漫画だったかもしれない。語呂が良くて、ちょっと寂しい感じがして耳に残っていた言葉だった。
「あれ、そういえば意味は知らないわ。なんとなく、奇麗で寂しい感じするなって思ってたけど」
「井伏鱒二の訳だよ。直訳とはちょっと違うみたいなんだけど、僕も言葉の響きが好きだね」
まだ寒いからと言って、有賀さんはぬる燗を傾ける。
相変わらずぼろいアパートが背景なのに妙にさまになっていて、イケメンって得だよなぁと見とれた。
もしかしたら俺の目が腐ってるだけかもしれない。
有賀さんに会って、桜の咲く時期を経験するのも二度目だけど、まだ俺の目は有賀さんに慣れていない。
「あれって前後に続きあるの?」
「後ろには続かないけど、前には詩があるよ」
「へー。どんな?」
「この盃を受けてくれ。どうぞなみなみつがしておくれ。花に嵐のたとえもあるぞ。さよならだけが人生だ」
滔々と、俺の盃に酒を注ぎながら、有賀さんは少しだけ低い声で言葉を零す。
その響きの柔らかさに、思わずとろりと思考が溶けそうになる。
ついに、耳までいかれてしまったのかもしれない。有賀さんの声と言葉は、俺にとっていつも甘い。
「……すげー奇麗だな、それ。なんか、こう……うまく言えねーけど、いいなぁ」
「うん、わかるよ。奇麗だし、ちょっと寂しいけど、愛おしいよね。どんな情景が浮かぶかは、きっと人それぞれなんだろうけど。僕はね、静かな桜が散る寒い夜に、二人で酒を酌み交わす風景が浮かぶかな。専門家じゃないし、詳しくは知らないから、本当にそれで正解かはわからないんだけどさ」
「どれも正解でいいんじゃないの。だってさー、読んでる方は書いてる方の人生なんか知らないじゃん。誰がどう感じたって正解だし、あと有賀さんの想像した感じすんごいわかるし、そんで気障」
「え。気障かな? でも、今日の夜には合うでしょ?」
「合うから気障だよ。日本酒舐めながら漢詩の話してるイケメンなんて今世界に一人しか居ないだろって話……」
「痒い? 嫌い? ええと、もっと庶民的な話する?」
「好きだよばーか。漢詩語っちゃう有賀さんも、豆腐のパッケージ剥げなくて包丁入れたら全力で水吹き出してべちゃべちゃになっちゃう有賀さんも、どっちも好き」
「……僕ね、あのパッケージあけるの本当に苦手なんだよ」
渋い顔をするのもかわいい。今日も俺は絶賛病気だ。恋の病はまだ暫くは直らなそうだと思う。
まだ暖かい厚揚げのあんかけをつまみながら、さっきの詩を反芻する。
はなにあらしのたとえもあるぞ。
さよならだけがじんせいだ。
俺はろくに本も読まないし、読書家でも専門家でもないけれど、やっぱりきれいだなぁと思う。
はらりと桜が散る。
有賀さんが酒を傾けふわりと笑う。
頭に残ったきれいな音の詩がもの悲しく思えて、こそっと有賀さんの隣に移動した。
「……え、どうしたの。寒い?」
「いや、普通に甘えに来た」
「うん? うん、ええと、嬉しいけど、これは抱き締めて口説く流れ?」
「毎日口説いてるようなもんじゃん。これ以上やられたら桜見てる場合じゃなくなる」
口ではそうは言いつつも、頭をころんと有賀さんの肩に乗せる。
どうも有賀さんは俺のこの仕草が最高に萌えるらしく、思いっきりきゅんとしてますっていう息の飲み方をしてくれた後に照れたように酒に手を伸ばしていた。
相変わらず可愛いなおい。照れるイケメン最高だ。
「今まで僕はね、うーん……愛してるって、ちょっと良くわからない言葉だなって思ってたんだよね。外人さんが洋画の中で言うのはすっと馴染むんだけど、日本のドラマとか小説とかだとすごく浮いてる気がしてさ」
「あー、まあ、元々なかった言葉らしいからな。日本の愛って、家族愛とか友愛が主なんかなー」
「そうそう。そうかなって思ってたんだけど。最近ちょっと、愛してるって言葉、じわじわ分かって来た気がする」
「……え、これ口説かれる流れ?」
「うん。口説くよ。桜が奇麗だからね。僕の中の痒い気障男部分がとても元気です」
「なにそれかわいい」
「サクラちゃんはすぐ僕のこと可愛いって言う」
「だってかわいいもん」
「……待って待って、僕が口説くんだってば。もー、ちょっと、酔ってる?」
「日本酒って強いよね?」
「サクラちゃんって本当にお酒入るといろんなタガが外れるよねぇ」
全くもってよろしくない、と呟きながら、ぎゅうと抱きしめられたのは照れ隠しだと知っている。
有賀さんは酒では酔わない癖に俺の言葉ですぐ赤くなる。耳まで赤くして顔を伏せて照れる様が最高にかわいいので、ついつい俺は恥などかきすてて甘い言葉を洩らしてしまう。
「まあ、確かに人生突き詰めたら最後はさよならだし、さよならだけが人生なんだろうけどさ。さよならするまで、全力で俺はアンタを満喫するよ」
「わぁ。サクラちゃんは今日もかっこいいしたまらない。……何で僕の方が口説かれているんだろ」
「目には目をってやつ?」
「ハンムラビ法典式恋愛って怖そう。あいしてるっていったらわらう?」
「痒くてふははって言っちゃうかもしれないから服脱いでからにして」
「……夜桜なんかどうでもよくなりそう」
「ふはは! 有賀さんってほんっと俺に弱いよなぁー」
かわいい、と何度目になるかわからない言葉を呟いて、空いた盃に温い酒を継ぎ足した。
はなにあらしのたとえもあれど、さよならだけが人生なれど、舞い散る桜を眺める夜は恋慕で溢れて哀愁をふらりと消した。
end