影猫ワルツ
ワルツのリズムが頭から離れなくて困った。
だからこの喫茶店は苦手だとシロウは思った。
いつだって陽気なタンゴや眠そうなワルツが流れていて古めかしい。特別ワルツが嫌いなわけではない。一定のリズムは端的で、明快で、清々しくて頭に残る。音楽なんて基本は一定リズムが一番きもちいい。途中で変調する曲は耳を驚かすけれど、結局身体に染み込まない。
ずんたった、ずんたった、と頭の奥でワルツが鳴る。
嫌いじゃなくても今必要なのはワルツではなくて胸に響くビートだ。身体にきもちいいリズムではなく、頭に刺さるフレーズだ。
家に居て適当にソフトを弄っていても、全く集中出来なかった。そんな時にふらりと遠出できるような場所も無く、電車に乗ることすら憂鬱で、結局足を向けるのはワルツばかりが流れる喫茶店だった
昨日の夜は音で溢れる地下に居た。
耳を浸食する電子音は脳味噌まで直接刺さる。その名残を手掛かりに、どうにか音楽の端を掴もうとするのに、もがけばもがくほどぐるぐると、思考も音も定まらない。
ずんたった、ずんたった、と耳にワルツが入り込む。
鼓動がワルツになってしまいそうだなぁ、と思ったところで、俯いた視線の先に靴先が映った。
まだ新しい皮靴だ。
伏せていた顔をそっと上げると、にこりともしない店員がことんと小さな音を立てて、テーブルの上にレモンスカッシュを置いた。いつも失礼しますとありがとうございました、しか喋らない静かな青年だった。
無表情で、声もあまり大きく無い。けれど歩き方が奇麗で、グラスを置く時の仕草がとても丁寧なので、嫌いではない。
……時折訪れてソフトドリンクを飲んで鬱々と妄想しているだけの客に、好きだ嫌いだと言われる由縁もないだろうが。
そんな事を考えつつ、小さな声でどうもと返す。
静かな店員の彼が『失礼します』としか喋らないのと同じで、この店でシロウが喋る言葉もまた、『どうも』くらいのものだった。
注文はいつもメロンソーダフロート。今日は、少し寒かったのでレモンスカッシュ。暖かいものが飲みたい時はココアしか頼めない。
三十を超えてもお子様舌な自分を変えようなどとはもう思っていない。ビールが飲めなくても、珈琲が苦手でも、とりあえずは生きていける。けれど今神掛った音楽が生まれなければ最悪死んでしまうかもしれない。
創作なんていう流動的なものを生業にした自分が悪い。
溜息を吐き、ワルツを聞きながら、レモンスカッシュに手を伸ばしたところで、店員がまだそこに立たずんでいることに気がついた。
何か、用事でもあるのか。
そう思い、帽子の下からそっと伺ってみる。
背は低くはないのに猫背が酷いので、かなり上を見上げないと顔を伺うことができない。
久方ぶりに茶色に染めたついでにとパーマまでかけられてしまった前髪の間から、奇麗な姿勢のまま頭を傾げる店員を見た。
なにか? の一言がうまく出てこない。最近は、歌う事以外で声帯を使っていない。曲を作ること以外で頭も使っていない。耳は零れる音を拾う道具で、目は楽譜を追うものだ。シロウの全ては生きる事と音楽を作り歌うことばかりに費やされていて、コミュニケーション能力なんてものは皆無に等しい。
なんて声をかけたら正解なのかわからない。
思ったままの事を口にして、他人が不快になることが怖い。
だから常に口ごもり、変な間が空いてしまう。変人だという自覚はある。けれど、そのおかしな会話のテンポのせいで笑われると、益々口は動かなくなった。
声も小さい。一般男性より高いかもしれない。その響く声が数少ない自分の音楽のファンを繋ぎとめている魅力だということは知っている。しかしそれは、音楽の中だけの話だ。
今喫茶店でワルツに殺されそうになっている皆森司朗という男は、昨日地下のライブハウスで電子音に囲まれていたミナモリシロウとは別人だ。
ここに居るのは、カフェインを摂取すると寝れない癖に近所の喫茶店でソーダを飲む、コミュニケーション不得手な男だった。
先に、微妙な沈黙を破ったのは、店員の青年だった。
「……猫、お好きなんですか?」
初めてきちんと聞いた声は、記憶よりも低い。まだ若い男の低めの声は奇麗で、響く程ではないけれど耳の上を掠る。
声ばかりに気を取られていて、何を問われたのかよくわからなくて帽子の乗った頭をこくんと傾げる。瞬きを三回した後に、ああ、これは僕が問いかけられているのだから僕が応えなきゃいけないやつだ、ということに気が付き慌て、とりあえず『ネコ、』とだけ繰り返した。
ねこ、ねこねこ、ねこ、そういえばさっき道中で、そんなものをみかけた気がする。
にゃーにゃー鳴く声が魅力的で、あーネコの曲もいいなぁ声が不思議だなぁでもちょっと僕の曲には高いかなぁどうかなぁと思いながら屈んで暫くネコの尻尾を眺めていた。
ついでに音の高さの確認に、何度かにゃーと真似したような気がする。
もしかしてアレを見られていたのだろうか、という事に思い当たり、若干のパニックのまま声を捻りだした。
「あ、……の、ネコ……えーと、さっき?」
「そうです。さっき、ゴミを捨てに外に出たんです。そうしたら、お客様が、ネコに話かけていたから、」
「いやあの、違……あれは、音階の確認で、えっと、違うくて、話してたんじゃなくて。流石に僕も、その、ネコと意思の疎通はちょっと……っ! 人間も、あやしいのに、そんな、ネコだなんて」
ああでも自分はもしかしたら人間とは違う生き物なのかもしれないだからこんなに言葉がうまく伝わらないのかもしれない、と思い、余計に慌てて言葉を探していたが、青年は他の人間とは違う笑う事も不快な表情をすることもなかった。
「音階?」
そんな風に訊き返されてしまえば、説明しなくてはいけなくなる。
「えーと……そう、あの、音階です。音。僕、そのー、売れてない、ソロアーティストで……音を、弄ってね、こう、ぴこぴこさせて、声を乗せてね、曲にする人で……だからこう、ああこのネコさんの声、割と、良いなぁなんて思いながら、音の高さの確認を……でも今日僕、録音機器持って無くて、諦めて」
「ああ……なんだか、そんな感じがします」
「そんなかんじ……?」
「音を作っている人、みたいな感じ。たまに、店内BGMに合わせてテーブルを叩いてますよね。指で、こつこつと」
「え。……え、本当に? うわぁ、ごめんなさい、全然、気がつきませんでした……煩くして、ごめんなさい」
咄嗟に謝ると、青年は少し表情を緩めた気配がした。
目を伏せてしまったシロウはわからない。人の顔を見るのが苦手で、どうも、いつも不自然に逸らしてしまう。
そんなシロウの様子をどう思ったかは知らないが、青年は淡々と言葉を零す。
「いえ別に、煩いとかは。……ワルツの合間に、不思議な音が不規則に気持ち良く混じるから。面白くて、わりと好きでした」
「え?」
「……え?」
「ええ、ああ、ちがう、ええと、こういうときは、そうだありがとうだ、うん……あの、あんまり、僕ね面と向かって褒められることがないから。いま、嬉しくて痒くて、ワルツを忘れそうになった……」
思わず、本音がぼろりと零れてしまう。
ナニソレなにそれ、と体温が上がる。こんな無機質なさらりとした『好き』という言葉ひとつで自分はテンションが上がってしまう。ああ、そういえば最近そういう言葉と無縁だったなぁ作って演奏してお疲れ様でしたって言うだけの生活だったなぁと思い当たり、その後に、いや彼は別に僕の音楽の事を褒めたわけじゃないし気まぐれに変人に声をかけてるだけに違いないと思ったけれど、やはり、体温は下がらない。
頬を隠すように両手で顔を押さえると、やっぱり暑い。
ああだめだ。言葉に弱くなっている。音ばかり追いすぎてきっと言葉に弱くなっている。
こんな風では、次から平気な顔をしてこの店に入れない。もっとうまく言葉を受け取って、さらりと流せる人間になりたいのに、と、暑い頬を抑えたまま唸っていると、青年が笑う気配がした。
嘲るようなものではなく、ふわりと優しい気配がする。
不安混じりの視線を向けると、すいませんと謝られた。声がどうにも、心地いい。
「……すいません。ワルツ、お嫌いなのかな、と思ったら、つい。……うち、ワルツばかりなのに」
「え。あ、いや、その、ち、近くて、別に、嫌いというわけじゃないんだけども、」
「でも、ちょっと飽きてる?」
「…………だって、こんなにワルツ漬けで、心臓までワルツを叩く機械になりそうで」
「マスターのせいなんですよ。社交ダンスが趣味で、今はワルツのステップを練習中。だから、マスターは毎日ワルツを聴いて、心臓までワルツまみれにしたいみたいです」
声をひそめるように近づき、囁くように内緒話をされ、シロウはどうしたらいいか分からずにただただ頷いた。
多分、大学生くらいの子だろう、ということくらいは分かる。背はわりと高い。けれどシロウもひょろりと細長いので、立てば同じか少しシロウの方が上かもしれない。
きっとイケメンだと世間が騒ぐような顔だと思う。ただ、基本的に表情が乏しいので、少し怖い。今みたいに笑っていれば、少年のようなのに。
そんなどうでもいいことばかり考えてしまうのは、言葉からの逃げかもしれない。
相変わらず耳にはワルツが聞こえている筈なのに、ちっとも頭に入って来ない。
今は、静かに喋る青年の言葉ばかりが淡々と響く。
「ワルツのレッスンの次はタンゴかもしれませんよ。そしたら、もう少し煩くなるかもしれないです。煩いのは、お嫌いですか?」
「え。いや、そんなことは……ライブとか、基本的に、爆音だし、きっと僕は血液に響くくらいの音が、好きだと思う」
「じゃあ、またお待ちしてます。……ネコも、割といつもあの辺に溜まってますよ。猫の曲が出来たら、ちょっと聴きたいです。あ、CDとか、出してますか? もし失礼じゃなければ、アーティスト名を教えてほしいんですけど」
「え」
「……なんか、言葉がすごく面白いし、リズムの取り方も面白いし。あと、声がすごく好きだから、興味があって」
社交辞令だろうと分かっていても体温はやはり上がってしまい、震える声で『deltaθ』と呟くことで精いっぱいだった。
「でるたしーた?」
「はい、ええと、deltaθのミナモリシロウです……すごくピコピコしているから、そのつもりで探してください……あと、猫さん情報ありがとうございます。今度は、録音できるものを、持ち歩いてがんばります」
「頑張ってください。俺もワルツに殺されないように、頑張ります」
ごゆっくり、と挨拶をされ、そうだここは喫茶店で自分は客で彼は店員だったんだと言うことに気がついた。
ワルツは相変わらず鳴っている筈なのに、耳に残るのは彼の爽やかな低さの声だ。
(……いいこだー……)
そんな、月並みな感想の割に身体は暑いままで、カツカツと響くレザーソールの皮靴の音ばかり拾っていた。
ちょっと、今日はうまく曲が作れそうな気がする。ワルツに負けない音が、降りてきそうな気がする。
落ち着かせるように深呼吸をして、しゅわしゅわとはじけるあわの音を聴く。甘酸っぱいレモンスカッシュは喉に爽やかで、淀んでいた思考回路がさっぱりと洗い流される様な気がした。
しゅわしゅわ、泡に埋もれる世界のイメージが溢れる。
そこに響くのはカツカツと硬い、彼の靴の音だった。
end
全然ホモにならなくて驚愕しているアレですホモになるように練り直してがんばりたいでも書いたものは一応晒しておきます…。