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シガー×シュガー



ニールは必要以上に笑わない。

それはプライベートでも、そして警戒を隠さない顧客を前にしても同じ事だった。

「今すぐお支払になる必要はありませんよ。確かに、高い買い物だ。勇気がいる。それは私共も心得ているつもりです。ですが、人は日に日に衰えて行くものです。自分だけは大丈夫……そう、思ってはいませんか?」

特別怒鳴るような事もない。強い口調でせきたてることも、早口にまくしたてることもない。笑わない男は、ただ、ゆっくりと滑らかな低音で語る。

声が低めでかつぜつが悪いことはニールのコンプレックスだった。しかし長じて身長が伸び、それなりの歳になるとその声は武器となった。特別美男子ではない。
スタイルは良いが、ひどい猫背なので見栄えが悪い。青い瞳が奇麗だと言われるのは他に褒める事がないからだろう。生まれ育った海岸沿いの紫外線のせいですっかり荒れた肌と焼けた赤い髪もハンサムとは言い難い要因だ。
何度ストレートパーマをかけてもみっともなくなる癖っ毛は、諦めて後ろに括っている。スーツでなければ、ミュージシャンだと言っても通るだろう。それは個性的という意味ではなく、少々見た目がだらしないと言った意味合いを兼ねる。

それでも人はニールの言葉に耳を傾け、心を動かす。
同僚達はひときわ静かに客を口説く彼の仕事を見る度に、麻薬のような声だな、とからかった。
その言葉の中には、若いくせにという羨望と嫉妬と、そして客以外にも愛想の良くない二ールに対する苦言の様な響きも混じる。

「本来人間は、自然の中で生きてきたわけです。その中には、ファーストフードも煙草もコカコーラも存在しない。どれがどれだけ有害か、なんて議論、もう聞き飽きたんじゃないですか? そうです、世界は有害に包まれている。身体の外が有害ならば、勿論中も有害だ」

身体の中を奇麗にしなければ、美は生まれません。
そんな事をのうのうと語りながら、右足の貧乏ゆすりを堪えた。

もう一時間だ。滔々とこの女に言葉を吹き込んで一時間。早い客は五分で財布の紐をちらつかせる。今日はどうも、獲物が用心深いらしい。
そばかす以外には特徴を見出すことも難しいような女だ。

手元のカードの隅には、気がつかれないように容姿のメモを残しているが、今回の客はきっと帰って三十分もすれば忘れてしまうだろう。
ブロンド、ボブカット、ブルーの目、そばかす、ピンクのティーシャツ、胸はでかいが他が貧相。こんな情報では次の来店時に名前を思い出すことは困難だろうとため息を呑み込んだ。

早く蹴りをつけないと、ペンを持つ左手も震えてきそうだ。

もう何でもいいから買うなら買うで小物でも良い。買わないなら次回また考えますと笑ってくれたらそれでいい。客は彼女一人ではない。最近口コミで広がった高級サプリメントを求める人間は、五万と居る。

内心の苛立ちを全身でどうにか押さえつけ、全身の苛立ちは脳で押さえつける。
ペン先で机を叩くような真似をしてはならない。脚をぶらぶらと揺らしてはならない。ただひたすら目の前の客をじっと見つめ、そしてらちが明かないと思ったニールは最後の切り札を用意した。

「……申し訳ありません、お客様を、悩ませてしまいましたね。実は私は最近赴任してきたばかりで……少し、勝手がわからなくて……すいません」

そして、目を見てふと表情を崩す。
笑う、程ではない。眉の力と頬の力を抜くだけでいい。そうすると笑うよりももっと柔らかい表情が作れる事を、ニールは知っていた。

案の定、まだ若い彼女はハッと目を見開くと、心を抜かれたように一瞬だけ息を飲んだ。
ハンサムでなくとも、こういうことは可能だということを、実は最近知った。

今日はここまでにしましょう、とニールが書類を片づける前に、そばかすの目立つ彼女は意を決したようにニールの手を机の上に縫いとめた。
冷たく湿った皮膚の感触がどうにも気持ち悪いが、勿論顔をしかめたりはしない。ただ驚いたと言うように顔を見るだけで良い。予想通り、目の前の女は少し顔を赤らめて視線を外していた。

「あの……もうちょっと、お話を聞きたいんですけど……ええと、ローンも組めるって、どこかに書いてありましたよね……?」

それは先ほど三回もご説明しましたとは言わずに、ただ勿論ですと言って座りなおした。
あまりこの手の小細工は使いたくない。恋愛沙汰に巻き込まれるのは勘弁してほしかったし、財布の中身と相談しながら商品の説明を聞いているような女は、この先絞り取れそうにない。

しかしどうにか話に蹴りをつけたかった。
もう、身体が限界だ。

「ローンのご説明は担当がおりますので、そちらに代わりますよ。とても丁寧な女性なので、僕よりきっと楽に話を聞ける筈だ」
「いえ、そんな、ちょっと、緊張を……」
「いいんですよ。デリケートな問題です。私のような男が出てきて、きっとびっくりされたんですね。それでは係の者と少し代わります。私はまた契約の際に同席させていただきますので」

彼女はまだ何かを言いたそうだったが、徹底的に気がつかないふりをした。
実際、あまり聞いていなかった。イヤホンマイクで他の担当の名前を呼び、速やかに交代の書類を渡してからはできるだけ早足で歩いた。血相を変えて風のように歩くニールを見ても、同僚達は驚いたりはしない。ああ、またかとため息の混じりそうな顔でその後ろ姿を眺めるだけだ。

くそったれ。迷惑を掛けた覚えもない連中に煙たがられる理由はない。身体に悪いから、という理由で人を害のように扱う奴の何人がその被害者になっているのか。アンタ等の食ってるカロリーまみれのチュロスの方がよっぽど害悪だ。

嵐のように廊下を通り過ぎ、オフィスの端の部屋になだれ込むと扉を閉めながらスーツの内ポケットを漁った。
箱ごと入れると不格好になるから、ジッパー付きのプラ袋に数本取り分けていた。
本来ならこんな数本、一時間と持たない。それでも仕事を優先させる上で、上着が煙草で膨れているというのは避けたかった。

仕事をするために生きているわけじゃない。だが、煙草を吸う為には仕事が必要だ。金がなければこの嗜好品は愛せない。

先ほどの客に言った事は大半がでたらめだが、本当の事もある。
ニールがNY本社に配属されたのはつい二週間前の事だった。
喫煙スペースがない、と最初に言われたがじゃあ行きませんと言うと、ニールの為だけに喫煙部屋があてがわれた。そのくらいの稼ぎ頭であることを理解している。だから他人ともうまくやれない。大概の人間は仕事ができるわりに無愛想でニコチン中毒なニールを、怪物のような目で見た。

紫煙を吐き、ゆっくりと煙草が循環する様を思い描くと、自然と苛立ちが鎮まった。
さっきのお穣ちゃんも、まあ、別に悪くない顔をしていたかもしれない。ちょっと優柔不断なくらいが女は可愛い。それを引っ張って強引に腕を掴む楽しみがある。ベッドの上で恥じらう様は悪くないかもしれないが、前の職場を恋愛沙汰の拗れで後にしたニールは、もう暫く女はこりごりだった。
二十歳を超えて、五年がたつ。
四捨五入をしたら三十歳だと笑いあえる友人も少ない。何のために生きてるの、と訊かれる度に煙草を吸うためだと答えるニールに、それは害だからと忠告してくる人間もついに居なくなった。
ドラッグも酒もやらない。このくらいは大目に見てほしい。自我を失って暴れることも吐くこともない。最高の趣味ではないか。ただ、自分の寿命を引き換えにしているだけだ。

勝手に吸わせて勝手に死なせろと思う。
ずるずるとスーツのまま壁に凭れかかり腰を落とし、携帯の栄養ブロックを齧り、最後にヒットミントを放り込んだ。煙草の匂いは案外消えないが、ミントの匂いで多少は誤魔化せてれくれると信じている。

チョコレート味のミントタブレットを奥歯で噛んで、そういや最近固形物食ってないな、と思い出す。
最後にまともな食事をしたのは姉に呼び出された日だ。相変わらず成金然とした彼女は、レストランにニールを座らせるとにこにこと勝手に魚料理を注文した。
何故か姉は、ニールが肉料理よりも魚料理の方が好きだと信じて疑わない。ヒラメのムニエルは大層な味だったし、別に構わないのだけれど。

たまにはシリアルとサプリメント以外のモノも食べたいとは思う。
思うが面倒な気持ちがどうにも先に立ち、かといって油たっぷりなファーストフードを口に入れる気も起きない。

何が身体の中から美を追求しましょうだ。
ニコチンとサプリまみれの販売員が笑わせる。

そう自嘲し、三本目の煙草に火をつけたが、実際には笑えなかった。

煙草を摂取した後のニールは強い。
大概どんな客にも対応できるし、同僚のやっかみも訊かなかったふりが出来る。その効果は持って一時間なのだが、あまりにも彼の売り上げが良いため、煙草を吸う時間は黙認されていた。

その日も時々煙草を吸う為だけに時間を費やし、定時に仕事は終わった。
仕事帰りの社会人に対応するために、閉店時間は若干遅い。外に出た時にはすっかり日も落ちていて、冬のNYの寒さを体感した。

海岸育ちのニールには少し辛い。
肩を竦めながら雪のちらつく道を歩き、人気の無くなった地下鉄に乗り、そしてアパートの前に辿りつく頃にはすっかり身体も凍え、もう料理をしようなどという気力は微塵も残っていなかった。

生野菜を買える店は閉まっている。
仕方なくニールはアパート向かいのドラッグストアに脚を向けた。

アパートを決める際に重要だったのは、喫煙できる事と近くに深夜営業で煙草が買える店があることだ。
どうやら最近オープンしたらしい小奇麗な店は、日系の店舗らしい。働いているのはアメリカ人だったが、レジの中に一人、日本人らしき男が居た。

一日に三箱は消費するニールは、定期的に煙草を補充しなければならない。
一箱14ドルをうわまろうが、その習慣はかわることはなかった。
何のために給料の良い職場で知らない女相手に美を説いていると思っているのだ。煙草を買う為だ。

健全な人間が訊いたら眩暈を起こしそうな発言だが、ニールは至って本気でそう思っていた。

ドラッグストアの良い点は、簡単な食料も売っているというところだ。
適当なドリンクと携帯食料とシリアルと、ついでに珍しくヨーグルトを手に取ったのは個人的に褒められてしかるべきだと思う。そして少々のサプリメントを物色し、あとはレジの巨乳の店員にキャメルをカートンで頼むだけだ。

と、思った時に、不意に肘を引かれた。
思いもよらずびくっとしてしまい、足が止まる。
細い骨ばった手の先を辿れば、先ほどレジの中で見た日本人らしき男性が横に立っていた。

日本人は黄色人種だと聞いたが、妙に白い。というか、肌のきめが細かい。
売る商品に自信はなくても、売る相手を観察することには慣れているニールは、一定以上に人間が近づくとつい、まず顔の造作と身だしなみをチェックしてしまうようになった。
煙草中毒者と陰口を叩かれてはいるが、売上が良いことには変わりがない。それには職業病じみた観察や頭の回転が必要だ。

男の顔には興味は無い。だが、ハンサムな方なのではないかと思う。
適当にまとめたニールの髪とは違い、頬にさらりと流れる髪が目を引く。モデルのようなカールしたまつ毛ではない。けれど、男にしては長く、それは影を作る。

「……何?」

その男がどんなに見目麗しかったとしても、ニールは知らない人間に肘を引かれたことに変わりは無い。
特別睨んだわけでもないが、いつも通り笑顔もない。ぶっきらぼうに見下ろすと、男が軽薄な笑顔を作った。
人形みたいに笑う奴だ。良い意味でも、悪い意味でも。

「失礼。先日お見かけした時から気になっていたのですが……向かいのアパートの方ですか?」
「そう。だから?」
「……まさか、そちらが今日の夕飯、だなんて仰らないでしょうね」

些か声が低めになったその問いかけに、ニールは答える代わりに無言を返した。
奇麗な発音だが、それでも異国情緒漂う発音だ。日本語は少し聞いたことがあるが、どうもカタカタしていてニガテだった。
歯が鳴る音が混じる気がする。その余韻が英語にも混じっているような気がして、どうも、落ち着かない。帰りがけに吸って来た煙草が切れているのかもれしない。

「まさか」
「そうですよね、まさか」
「今日の夕飯と明日の朝食と昼食も兼ねてる」
「……本気で言ってます?」
「なんで知らない男に冗談飛ばさなきゃなんないんだ。俺はそこまで暇でも愛想のいい男でもないし、話がそれだけなら離してくれる?」

煙草買いたいんだけど、と付け足すと、今度は何故か腕を引っ張られてヨーグルトを落としそうになった。手に持ったものをかばったせいで、足元がふらつき、そのまま連行されてしまう。
気が付けば店内ではなく、バックルームのようなところに押し込まれていた。

……なんだ。万引きや犯罪をした記憶はない。一週間に一度、くそ高い煙草をカートンで買う上客になんの因縁をつけようというのか。
そう思いつつも、ここでもめ事を起こしたら煙草を買う店が無くなるとぐるぐるとしていると、ずい、と男が迫る。うっかり後ろの壁に頭をぶつけてしまって、後頭部も背中も冷たい。

「あんた、何……」
「どうもはじめまして、このご時世にとんでもない量の煙草を買っていく男性の噂はかねがね伺っておりました、私このストアのマネージャーを任されております雨宮と申します。そちらお名前をお伺いしても?」
「は? ああ、ええと、ニール・ノーマン……」
「ノーマンさん、あのですね、今更煙草は害悪だなどと言うつもりは無いんです。こちらも売り物ですし、買っていただかないと困る。でもね、私にも個人的嗜好や意思がある」
「だから、何だよ」
「もっと食えアホか。ハンサムが台無しだ。肉とパンと野菜を食え出来ることなら煙草やめろ」
「…………」

いきなりそんな事を至近距離で言われ、何が何だかわからない。
とりあえずわかったことは『何故だか知らないが向かいのドラッグストアの店員に食生活の心配をされている』ということだった。

普段なら一発殴っていたかもしれない。
けれどこの日は寒さで身体が動かず、また、目の前のアマミヤという男が妙に奇麗な肌をしていたことも災いした。仕事中にここまで奇麗な人間に出会うことはない。うっかり見惚れてしまい、怒りの矛先が定まらない。

「…………初めて聞く理論なんだけど。アンタ、ゲイなの?」
「え。いや。そういうわけではないんですけれど。いや流石に、そのお買い上げラインナップに煙草ときて、更にその血行悪そうな顔と目を見てたらもう、なんというか、職業病というか、とにかく止めなくてはと思ってしまいまして……ちなみに煙草は一日何本?」
「三箱」
『まじかよ……! このご時世にどこで吸ってんだ……!』

返された言葉は日本語らしく、ニールにはわからなかったが、なんとなくニュアンスは伝わった。
どうやらこいつも、数居るおせっかいのうちの一人らしい。どうして他人は他人の寿命の心配をするのだろう。と常々思っていたが、しかし今日は少し様子が違う。

ハンサムなんだから飯を食え煙草をやめろと言われたのは初めてだ。

「アンタ、なんか、変な人だな。誰にでもそうなの?」
「そんなとんでもない量の煙草とサプリメントを買っていく人は今のところ貴方以外に居ません」
「へえ。まあ、バターフライとか食ってる奴が居る国だ、いつか俺みたいな不健康お化けまたいなやつもくるんじゃないの?」
「頭痛がする」
「そら大変だ。早く帰って寝て一刻も早く国に帰った方が良い。じゃあ俺も帰って寝て明日また仕事だ、いい加減離して貰ってもいいか?」
「……せめてカートン数を減らしませんか」
「しつこい。俺は煙草を吸う為に生きている。そんなに言うならアンタが俺の煙草の代わりになんなよ」
「…………貴方はゲイ?」
「違う。でも、まあ、別にキスなんて誰とでも出来る」

そう言うと、驚いた事に白衣の男は少しだけ微笑んで、無言で唇を押し付けてきた。
その冷たさと思いもよらない甘さに一瞬だけ頭を引いてしまい、また後頭部を打ちつけることとなった。

これが、アマミヤという変な日本人と、煙草を愛する俺とのかなり唐突な出会いだった。


* * *


『なんか、ちょっと元気になったみたいですね〜いやーよかったーよかったーいつか雨宮先生死ぬんじゃないかな胃痛でーって思ってたぁー』
『……別に胃の痛みは変わらないですよ。相変わらず不眠ですし一刻も早く日本の味噌汁が飲みたい気持ちは変わりません』
『え、でもそっち豆腐とか流行ってるんでしょ? 売って無いんですか? うちの商品リストにありますよね?』

そういうことを言っているんではない、と一々訂正するのが面倒で、溜息と共に言葉を飲んだ。
普段ならのみ込まずに何度か連発してしまい、それが自分のせいだと気がつかない電話向こうの柴草が海外生活ストレス大変ですね〜とあっけらかんと笑う。

確かに雨宮のストレスの大半は意思の疎通が怪しい店員達とこちらの生活の不便さだが、柴草の能天気な声もその中に少々含まれていることは、多分一生気がつかないんだろうと思った。

悪い子ではないというのはわかっているが、どうも、発言に思いやりがない。思った事を言えば良いというものでもないんだよと何度か注意はしたが、でも私はこう思うので悪くありませんの一点張りで、疲れるだけだと気が付いてからは言葉を飲み込む事が多かった。

元来、ストレスをため込みやすいタイプだ。
その発散方法は少々手荒で、あまり褒められた事ではないとわかっていたが、仕事を続けて行くには雨宮には必要なことだった。

雨宮は、ストレスが限界に達すると男に抱かれる。
自分を求める男の言葉に酔いながら快感をむさぼる行為は、些細な胃の痛みを払拭した。

だがそれも日本に居た時の話だ。
二カ月前からアメリカの新店舗に出張となった雨宮も、流石に異国の人間をほいほいとベッドに誘い込む勇気はない。治安が落ち着いたと言っても、そこはまだ、犯罪がまかり通る街である。命の危険を冒してまでセックスしたいとは思わない。

店舗スタッフを誘うわけにもいかない。こじれた場合がやっかいだ。
友人を作ろうにも、酒が飲めない雨宮はバーにもクラブにも無縁だった。

若干疲れ果てていたとは思う。それに、もしかしたら飢えていたのかもしれない。

その長身の男が目にとまった瞬間、息が止まったような気がした。

外人に恋をしたことは無い。それでも、最高にタイプだと直感した。
背が高い。腕も足も長い。顔は小さくて真っ白な肌に結んだ赤毛が印象的だ。きちんとすればハンサムなのに、どうも表情が暗く、ひどく猫背だった。スーツでなければニートかと思ってしまうところだ。
近所の住人だろうか。と、若干そわそわとしていた雨宮だが、彼が手に持つ商品に気がついた瞬間、うっかり手を出していた。

信じられない。
こんなに好みの男が、シリアルとサプリメントで生きているなんて信じられない。その上煙草がないと生きていけないと言う。眩暈がしそうだ。

特別正義ぶって煙草の害を訴えるわけではない。
個人的に吸うのは、それこそ個人の勝手だと思う。
しかしこんな甘い獲物がふらふらとおぼつかない足取りでサプリメントを大人買いしている場面を、どう見逃せというのだろう。

結果どう考えても不審な絡み方をしてしまった。
電話前で数時間前のやりとりを思い出し、通話を切った後ににやけそうになって口元に手を当てて隠した。

殴られなくて良かった。
それだけでも幸運だと思う。実際自分はとんでもない絡み方をした。商品を選んでいる最中に店員にケチをつけられるなど、全く何事だと思うだろう。

けれど彼はゲーム好きな性質なのかもしれない。
もしくはただ単に、暇だったか。雨宮の容姿を許容範囲としたのか。その、どれかはわからなかったけれど。

バックルームで蕩けるようなキスをした彼は、煙草を二箱だけ買い、雨宮のシフトを聞いた。
その声は低く甘く、聞いているだけで腰が砕けそうだ。勿論、そんな心中は出さない。

「私の勤務は基本九時までですが、引き継ぎや残業があるので…」
「勤勉だな。さすが日本人。じゃあ十時には引き揚げてくるから、そこの入り口で待ってる」
「え。え?」
「俺は仕事中も吸うけど、家に帰るともっと吸う。特に飯食ってる時間にばかすか吸う。その時間あんたが付き合ってくれて煙草止めたらいいんじゃない?」

何か不満? と言われてしまって、自分の口が開いている事に気がついた。
慌てて笑顔を作って、なるべく甘いひそやかな声で「おまちしています」と笑う。
彼が安全な人物かどうかなどわからないが、この際そんなことはどうでもいい。ゲイではないと言っていたのは本当だろう。雨宮は咄嗟に否定したが、彼の否定は信じても良いと思う。

無体な事をされる可能性よりも、暫く合わせていた甘いキスの事を考えてしまう。
キスのうまい男は久しぶりだ。体温が低すぎて冷たかったし、煙草の匂いとミントの匂いで嗅覚がおかしくなりそうだったが、そんなことなど一瞬で忘れるようなキスだった。

甘いキスをする男は、煙草の代わりにその唇を差し出せと言う。

『……ゆめか?』

そうでなければ妄想だ。
そんな風に自重して、またひとり、薄い唇を撫でた。



End



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