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『もうねーすっごいきゅってすんの! 腰が! きゅって! なにこれコルセット!? っていう感じでね、ドレスを奇麗に着るのって、姿勢とか大事だって言われてたけど、実際着てみてわかったよー』

電話口から聞こえてくる声はため息をつく割に明るくて、また突然の電話に慌てて出た壱はほっと胸をなでおろした。

相変わらず木ノ瀬メンタルクリニックの待合室の椅子は固い。普段ならば医院内で電話に出る事はないが、今日は他に待っている患者が居なかった為、まあいいかと、少しだけ申し訳無い気持ちで通話ボタンを押した。

『どうしよう、結構良いお料理のプランにしちゃったのに、私当日お腹に入らないかも……』
「……そしたら旦那に食べてもらえよ。結構食べる人だった記憶あるんだけど」
『あの時はー、ちょっと、彼緊張してたんだって! だってほら、お父さんは何度も挨拶してるけど、お兄ちゃんとは初対面だったじゃない。私も会うの久々だったからさ、ついつい、いつものっていうか前のおにーちゃん想像するじゃない? 大丈夫―見た目も中身も朴訥としてて良い人だからって言ったのに、急にお洒落なイケメンになってるし、彼びびっちゃうし、あれはお兄ちゃんが悪いでしょ』
「なんだそれ……ていうか、別に、イケメンにはなってないだろ。髪は、まあ、プロが切ってるし、服も俺が選んだんじゃないから、アレだけど、顔変わってるわけじゃあるまいし」

褒められているのだろうが、あまり言われ慣れない言葉をぶつけられ、どうにも尻のあたりがもぞもぞとしてしまう。
仁奈はお世辞をあまり言わない、ということを知っているからこそ、非常にこそばゆい気持ちになる。

『なんでも印象が大事だって気が付きましたよ仁奈ちゃんは。お兄ちゃん悪くないのになーってよく友達から言われてたけど、ほんっと悪くなくてびっくり。これはお嫁さんGETも近いなーって感じなのに、なんで私よりイケメンゲットしてんのーもうー』
「う、うん? うん、あのー……ごめん?」
『唯川さん、本当に式の当日のヘアセットしてくれるって話で、式場に通しちゃったから、また連絡するけど、ていうか普通に遊びに来てよー唯川さんとー。今度は私がご飯作るから!』

用件はそれだけだったのか、旦那が帰ってくるまえにご飯作るからと、電話は一方的に切れる。勝手にかけてきて、ひとしきり騒いで切るのはいつものことだ。

式の前に、と、壱が挨拶がてら妹とその婚約者に会いに行ったのは先々週の事だった。

相変わらず人間は大して得意ではなかったが、どうにか密着しなければいきなり吐くということも無くなった。けれどやはり満員電車は無理で、人酔いと車酔いが混じり、唯川に守ってもらっても一駅分が限界だった。

そんな状態の壱が、妹の住む隣の県まで行けたのは、ひとえに唯川のおかげだ。

十代の頃に取ったままペーパードライバーで、まったく車に触ることもなく生きてきた、という唯川が、由梨音に車を借りて運転してくれた。
何度か駐車場で練習はしたという話だったが、五年以上触っていない機械の操作をいきなり思い出すというのは中々難しいことだろう。免許すらもっていない壱には、運転がどういう感覚なのかさっぱりわからないが、妹の指定した店についた後の唯川の憔悴っぷりを見れば大層大変なことなのだということはわかった。

あまりにも神経を使いすぎたらしい唯川は、車の中でぼんやり水でも飲んで待っていると言ったが、心配すぎてそわそわしすぎた壱の態度で唯川の存在が仁奈にばれ、結局引きずられるように同伴させられた。

友人と紹介したが、仁奈の目は鋭い。
未来の旦那が席を外した際に、そっと壱に、『で、お兄ちゃんは唯川さんのこと好きなの? 片思いなの? 付き合ってるの?』と囁いた。しらを切れなかったのは、うっかり壱が言葉に詰まってしまった為と、隣で聞こえてしまったらしい唯川が噎せてしまった上に言い訳できない程赤くなっていたせいだった。赤いと言ったら、壱の方も、あまり人の事を言える状態ではなかったかもしれない。

何事も寛容な仁奈は、そんな二人を見て『お父さんとかには秘密にしといたげるから、また遊びに来てね』と笑った。
あまりのあっけなさに驚いたが、確かに仁奈が女性と付き合っていたとしても、妹が幸せならそれでいいと思ってしまうかもしれない。大声で、自分達の関係を言いふらそうとは思わない。きっと、拒絶反応が返ってくる場合の方が多いだろう。

それでも、人混みの中に混じれなかった自分は今まで恐らく真っ当な人間以下だった。例え不快感を露わにされるような関係だったとしても、唯川に出会った壱は、やっと人間になれる道が見えたような気がしている。

生きて行くのがやっとだった。
毎日、どうにか人間を避けて、平穏に家に帰ることが先決だった。
それが今は、仕事帰りに待ち合わせて買いものにも食事にも行けるようになった。唯川が隣に居ないと少々不安だが、同僚との距離も少しずつ近づいているような気がする。

飲み会に誘われたが行っても平気だろうか、と相談したのは先週で、なんともいえない顔をした唯川は『壱さんが社会に適応していくのすんごい嬉しいし喜ばしいけど我儘なおれのオトコノコの部分が壱さんはおれのなのにって反対してる』と駄々をこねていて可愛らしかった。

思い出すとぼんやりと頬が熱くなる。
熱を振り払うようにゴッホの絵を見上げたが、そういえばこの前こんな色合いの斜めにカラーが別れた服を着ていたなと思い、また唯川の顔が浮かんだ。

もう季節は夏に近いというのに、まだまだ壱は、恋人というものに慣れない。

「安藤くん、お待たせしましたーどうぞー」
「あ、はい」

できるだけ無心になる様に、色ではなくて椅子の線や建物の線を眺めていた壱は、いつものように名前を呼ばれ腰を上げた。
最近は木ノ瀬の診察の回数も減ってきている。しかしまだ、壱は社会に溶け込むという程ではないし、最終目標はせめて電車に乗れることなので、完治は先だし、その間は木ノ瀬の世話にもなるだろう。

もし壱の症状がしっかり治ってしまったら、木ノ瀬とゆっくり喋ることもないのだろうか。
木ノ瀬は医者であり、壱と会話をするのは仕事であるということは理解しているが、どうにもあの優しい四角い顔で微笑まれると安心するし、木ノ瀬の入れてくれるお茶も珈琲も好きだ。とても優しい味がする。

今日は定期往診とは別で、先日の妹夫婦との会食の報告の為に呼ばれていた。
珍しく木ノ瀬から木曜日の夕方は暇かと連絡があった。どうやら最近立てこんでいるらしく、他に時間が取れないらしい。壱として特に構わなかったので、仕事帰りに定時で上がり、閉院ぎりぎりの木ノ瀬クリニックに駆け込んだ。

無機質な待合室を後にして、診察室のドアを開ける。
そこはいつものように静かで、柔らかで、珈琲の香りが漂う空間――…では、無かった。

突然パン! と耳に響いた音に驚いて、思い切りビクッと身体を揺らしてしまう。猫のように飛び上がった壱を向かえたのは、優しい笑い声だった。

「あはは、安藤くん猫みたい! かーわいいねーびっくりしちゃった?」
「こら、うちの患者さんをからかうんじゃないよ、まったく君はいつもこういうドッキリが大好きなんだから……ごめんごめん、安藤くん、びっくりしたね、ああそんなに警戒しないで……ほら、唯川くん、フォロー、フォロー」
「え。ああ! すいません壱さんが可愛くってボケっとしてた!」
「ぼけてんのはアンタの頭よまったく何日経っても色ボケなんだからー」
「チーフうっさいっす。いいでしょらぶらぶなんだから。ほっといてーくださーいよー」

どうやらさっきの音は、クラッカーの音だったらしい。と気がついたのは、唯川が持っている三角錐の紙くずを見ての事で、そう認識すると確かにひらひらと派手な色の紙くずが舞っている。
笑いながら近づいてきた唯川は、今日も楽しそうな、けれどお店とは違う優しい笑顔でお帰りなさいと言った。

「壱さんごめんね? びっくりしたでしょー」
「え。……え? ええと、なんで唯川さん、え?」
「ごめんごめん、とりあえずおちつこ? ああもう涙目にならなくていいから、いじめとかじゃないから、はい深呼吸ー深呼吸ーね、落ち着いたかな? というわけでお誕生日おめでとうございます!」
「…………ええと。誕生日、来週ですけど……?」
「勿論知ってるしおれはその日有給いれてますし全力で個別で祝う準備してるけど、木ノ瀬せんせいとチーフがお祝いしようって張り切っちゃったから、ついでにおれも巻き込まれてみました」

えへへと笑う顔が愛おしくて、一度張りつめた緊張感がほどけてくにゃりと身体から力が抜ける。
しなだれかかる壱を受け止めた唯川に、びっくりしたと囁くと、ぎゅっと抱きしめ返してくれた。最初はやはり、おずおずと触れていたけれど、ここ最近は力いっぱい抱きしめられることにも、抱きしめることにも慣れてきた。

さわれるというのは素晴らしいことだ。
体温が、鼓動が、分かち合えるというのは素晴らしいことだ。
唯川に抱きしめられる度に、壱はそう思う。

「はいはいラブップル、安藤くんはかーわいーけど、ゆげちゃんはそのにやけまくった顔苛っとするからちょっとイケメンを保つ努力なさい、はーいこっちね。安藤くん、お酒別に嫌いじゃないわね?」
「はい、あの、嫌いじゃない、ですけど。……すごいですね」

落ちついて初めて気がついたが、部屋の中はすっかりパーティムードだった。
いつもは落ちついた色のテーブルクロスが敷いてあるローテーブルは華やかに飾り付けされ、花も添えてある。上に並ぶのは手作りらしい料理の数々だった。
まさか由梨音がと訊くと、残念ながら旦那の手作りだと笑われる。思わず木ノ瀬を見ると、料理は僕の方が得意だからと朗らかな四角い顔が笑った。

「壱さん、おれ、おれも手伝ったよーこのね、なに? さやえんどうのすじ? 取るのと、海老の背ワタ取るのとー」
「全部下処理ですね……唯川さん、手先器用だから、そういうの確かに得意そう」
「得意得意。細かい作業延々としてられるタイプだね。どんちゃん騒ぎってわけにはいかないしさ、明日も壱さん仕事だし遅くまでは引っ張らないけど、折角集まったんだから沢山食べて喋って帰ろうよ、ね?」

どこに落ちついたらいいのかわからず、そわそわとしていた壱の手を取って、唯川は笑う。
その笑顔が好きで、その気遣いが好きで、優しい唯川が好きで、まだ酒に手を付けてもいないのに感極まって少し泣きそうになってしまった。

そうだ、自分は感動しているのだ、ということに、やっと気がつく。
こんな風に、誰かに誕生日を祝ってもらったのは、子供の頃以来だ。

「……壱さん、嬉しくなっちゃった?」

唯川の胸に顔を埋めて涙を隠す壱の肩を、優しい手がぽんぽんと叩く。

「はい……。俺、大人になってからこうやって祝ってもらったの、初めてで。……父子家庭だったから、あんまり手作りの料理とかケーキとか、そういうのも縁がなくて」
「あ、そうだったの? そういえば壱さんから母親の話聞かないなーとは思ってたけど」
「あんまり覚えてないんですけど、とんでもない人だったみたいで、別れてよかったと父はよく言ってます。俺の名前と、仁奈の名前付けたのは母親らしくて」
「……もしかして、一番目、二番目、って意味で壱と仁奈?」
「多分。だから俺、あんまり自分の名前好きじゃなかったんですけど。最近は、唯川さんがこの名前好きだって言ってくれたから、好きになりました。……唯川さんと、みなさんが、大好きです。ありがとうございます。俺、あの……あー……もう、だめだ、唯川さん涙止めて……」
「え。ハードル高いお願いきたねこれ。ええーと、せんせい、木ノ瀬センセイ本職でしょ! ほら壱さんの感動をどうにか止める素敵なメンタルテクニックみせてくださいよ!」
「なんだいその無茶振りは」

苦笑いする優しい木ノ瀬の声がする。

ぽんぽんと叩いていた手は、摩る様にゆっくりと背中をあやしてくれる。その暖かさにまた涙が滲んで、唯川の服を濡らした。

「いいんだよ、泣いたら。涙はね、我慢すると良いこと無いよ。そりゃあ、ところ構わず泣いちゃったら社会人としてどうかなって思うけど、そうだね、好きな人の前くらい構わないと思わない? ねえ、由梨音さん」
「あらら、たまには素敵な事言うじゃない。そうねー、安藤くん、たぶん今までずっと涙堪えてきたんじゃないかな。だから、今までの分ちょっとくらい溢れちゃってもしゃーないわよ。ゆげちゃんの服なんかいくらでも代えがあるんだから、どんどん濡らしちゃいなさい。そして飲んで食べてまた泣きなさいな」
「ちょっとちょっと、別に壱さんがおれの服を濡らすのは一向に構わないんですけど、なんか由梨音チーフ最近おれに冷たくないっすか!?」
「お黙りなさい幸せ者。かわいい恋人捕まえといて女上司に妬まれないと思うてか」
「チーフ旦那さんがすぐ横に居るじゃん!?」

理不尽! という叫びが聞こえ、思わず壱は泣きながら笑ってしまった。

まだ、何があるかわからないけれど。
まだ、始まったばかりだけれど。

この人達が大好きだと思える幸福に感謝して、そっとばれないように、唯川の頬に小さくキスをした。
驚き目を見張り、その後に赤い目の壱を見て、愛しさと感動がない交ぜになったような表情で笑ってくれる唯川が好きで、仕方がない。

「壱さん、今日おれ飲んだ後多分寂しいって煩くなるから、そしたら泊ってってもいい?」

そんな可愛い事を言う唯川も好きだから、甘い自覚のある壱は、甘さを隠すこともなく勿論と笑った。


触れる病も、吐く病も、多分、治ってはいないけれど。
恋をしたらそれどころではなくなった。

たぶんきっと、そういうことだった。



End