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09



唯川聖はその日、絶望的な気分でゴッホの絵を眺めていた。

田舎街の開業医じみた質素な待合室のソファーは固く、冷たい。置いてある本に手をつける余裕はなく、ただひたすら明暗の別れたカフェの絵を眺めていた。
あまり絵画は知らないが、この絵の色合いが好きだと思う。オレンジに近い黄色の暖色と、住み切った青い黒の対比が奇麗だ。多分、唯川は反対色の組み合わせが好きなのだろう。

ゴッホの静かな絵を見ていると、多少は精神が落ちつく。

ただ、診察室から顔を出した木ノ瀬に軽い挨拶の後、『その絵、安藤くんもよくそうやって見上げているよ』と言われてしまい、一度は落ちついた気分がまたぞわぞわと騒ぎ出した。
珍しく泣きそうな顔をしている唯川に驚いたのは木ノ瀬の方で、慌てて診察室の柔らかいソファーの上に招き入れ、暖かい珈琲を出した。

珍しく珈琲に砂糖を入れてミルクを垂らし、一気にそれを飲み干した後に、唯川はやっと息を吐いた。呼吸をするのも忘れていたように。
そして木ノ瀬がそこに居る事に気がつき、言葉を思い出した。そうだ自分はこの人に言葉を伝えてそして、どうしたらいいのか、それを訊きにきたんだと思いだした。甘くてミルクの匂いがする珈琲は、とりあえずの鎮静効果があったらしい。

「どうしたの、唯川くん。まるで唯川くんっていうのを忘れてるみたいな顔だけど。ええと、御身内に不幸とか、そういうんじゃないよね? 家内からはいいから話をきいてあげてとしか聞いていないんだけれど」
「由梨音チーフまじ適当っすねホント、もうちょっと親身になってくれてもいいんじゃないかと思いますよもう……。しんだとかしにそうとかそういうことじゃないんですけど正直個人的に自分がしにそうです」
「まあ、とりあえず全部きくから落ちつこう。珈琲もう一杯いる? 紅茶にする?」
「……紅茶頂いていいですか。もう胃がね、びしびし痛くて、しんどいんで。こう、リラックスってなんだっけーって感じなんで」

重症だねと苦笑して、木ノ瀬はゆっくりと紅茶を入れてくれた。ティーパックではなく、ポットできちんと入れてくれる。そのゆったりした時間と、ふわりと香る匂いが、どうにか唯川を落ちつかせた。

新しいカップを差し出され、一口だけ口を付ける。
花のような香りが舞い上がって、呼吸が楽になるような気がした。

「……おれ、珈琲派なんですけど、ちょっと紅茶に乗り変えようかなってくらいこれ安心しますね」
「セーデルブレンドだよ。もし欲しかったら、ちょっと分けて後で家内に預けるよ。唯川くんは果物好きな人だし、良いかなと思ってね。華やかな香りでしょう」
「木ノ瀬さんって、ほんっとこう、森林みたいな人ですよねー……なんだろうこの安心感。もうずっとしんどくて泣きそうなんですけど、逆に安心して泣きそうになります。そら壱さんも心開きますわって思った……」
「え。唯川くんの精神不安定の原因、安藤くんなの?」

思いも寄らなかったことだったのだろう。珍しく木ノ瀬が驚いたような声をあげ、そして唯川は乾いた笑顔を作るのも面倒で紅茶を啜って真顔で頷いた。

「先生あのね、笑わないできいてくださいね。おれね、結構真剣に悩んだんです。悩んだ末にあーやばいこれどうしようもないやつだって気がついたんです。個人的に相当な大問題なんです」
「うん。それはもう、雰囲気から伝わってくるよ。どうしたの? 髪の毛が好きすぎて、ついに一線を超えそう、とか?」
「そっちの方がマシでしたよほんともー……。どうしよう。おれ、壱さん本体に恋しちゃった」
「……………うん? うん、ええと。そうか。そうきたか」

流石は街の有名精神科医だ。
唯川の唐突な告白に動揺したのは一瞬で、すぐに平静をとりもどし、それはしんどいねと苦笑をみせてくれる。

その笑顔にひとまず安堵して、唯川は堰を切った様に口を開いた。

「あのね、先々週? だったかその前だったか、壱さんうちの店で倒れちゃったじゃないですか。その時終電逃しちゃったから、お泊りさせていただいたんですね? まあ、別に何もないですよ。ちょっと壱さんのガチな話聞きだしちゃったり、おれも別に言わなくて良いような話しちゃったりもあったけど、そのくらいで何もなかったんです。あ、うそ、壱さん初めて笑った。もう、すっごい可愛いの。眉毛下がって、へにゃって、困ったな、どうしようみたいに笑いやがってもー……! あ、いやそれは今どうでもいいんですけど、」
「うん」
「そんでですね。まあ普通に寝て、普通に起きて、朝はあんまり食べないとかアホな事言うからコンビニに走ってサンドイッチ買ってきて口に詰め込んでシリアルプレゼント……ああ、それもどうでもいいや。えーと。そうだ、その次の週かな。おれね、至極普通に接客というかお客様の髪の毛をこう、切ったり洗ったり笑ったり喋ったりしてたわけです。若いお嬢さんでね、また可愛らしい子……だった気がするんですけど、その子がどうやら彼氏できたばっかりらしくて、カラー剤塗ってる時にスタッフのミヨちゃんとそういう話で盛り上がっていましてね。普段なら、女の子ってそんなこと考えてるんだね〜でもそんな風に思ってもらえるなんて絶対に相手も嬉しいよ! とかなんとか適当な事をぺろっと言うところなんですけど」

その日、唯川は思わず笑顔を忘れてしまいそうになった。

客である女性と、まだ二十歳のミヨの会話は非常におとめちっくで、由梨音に聞かせれば若い子はいいわねと笑われてしまうような内容だった。普段の唯川ならば、女子という生き物は本当にいろんなことを考えて生きているなぁという感想と共に、相手が喜びそうなレスポンスをうまく選べた筈だった。

恋愛中の彼女の話は可愛く、とても具体的で、微笑ましいものだった。ただ、あまりにも唯川に思いあたる節がありすぎて動揺してしまった、というのがまずかった。

ふとした瞬間に顔が思い浮かぶ。
昨日会った筈なのに、もう次の待ち合わせが遠いと思う。
何かを食べている時でも、これは好きそう、これは嫌いそう、だなどと少し変質的な妄想をしてしまう。
その人の何処が好きなのと訊いたミヨに対しては、最初は笑顔が好きだなと思ったけれど、今はもうそこにいるだけで目で追ってしまうし、どこがどうとかわからない。と、はにかんで答えていた。

なんだろうこの話はとてもデジャブ感がある。そう思いながら聴いていた唯川だが、ふと壱の顔が浮かぶと動揺して刷毛を落としてしまった程だった。

それからの記憶は曖昧で、とりあえずどうにか笑顔を保っていたことくらいしか覚えていない。
最終的には由梨音に酷く心配され、具合が悪いなら早退しなさいと諭され、その場でどうしようおれ壱さんが好きなのかも恋なのかも、と暴露していた。木ノ瀬を目の前にしている今も冷静とは言い難いが、完全にパニックになっていた。

結局動揺しすぎている唯川は早退させられ、一晩寝て落ちつけ、と言われた。
確かに、ゆっくりとした時間は思考をまとめるには有効だったが、結局やっぱり恋だと認識する結果になってしまった。

何に惚れたのかなんてわからない。
とにかくふわりと笑った顔が好きで、思い出すと体温が上がる気がする。ああもう、かわいい、と、枕に顔を埋めてしまう。笑顔ひとつで落とされた、ということは無いと信じたいが、結果そう思われても仕方ない有様だった。

どうにか心を落ち着けて、土曜の夜の約束に臨んだが、それはもう唯川的には散々だった。

いつも通りの笑顔と口調を心がけた。数年培ってきたキャラと言うものは中々しぶとく、おそらく壱は何の疑問も持たず、普段と変わらずぐったりした様子でサロンを後にした筈だ。
そもそも壱は他人の事に気を使っている余裕などないだろう。その日は唯川が躊躇したせいで一回しか吐かなかったが、最近仕事が忙しいとのことでいつもより疲れている様子だった。

初めてきちんと観察し、鼻のラインが奇麗な事に気がついた。
手も骨ばっていて、その凹凸が格好良い。喉のラインも好きで、喉仏がセクシーだ。どうも首を傾げる癖があるらしく、その度にさらりと揺れる髪の下で、不思議そうに見上げてくる二重の瞳とから目が離せなくなった。

今までは、さらりと揺れる髪の毛にしか興味が無かったのに。

「すんごいですね……人間本体に興味持っちゃうと、すんごい大変なんですね……だって、壱さん喋るし、その言葉とか一々気になるし、鷹揚とかもいいなーとか思っちゃう上にやっぱり内容も気になるし、動けば動いたで一挙一動見ちゃうし。もーすんごい疲れて、でもなんか、一緒に居るとちょっと笑ってくれるようになってて、やめて死ぬからだめって思いながら嬉しいんです。きちんと男なの、わかってるのに、ぎゅって抱きしめて好きだよって言いたい」
「……なるほど。それは、しんどいね。唯川くんが髪の毛以外に興味を持ったのは、担当医としては大変結構なことだけど、相手が安藤くんっていうのは、なかなかね……あー、その様子じゃ、もう、吐かれたね?」
「盛大に。知ってたし。今までもそうだったし。でもね、自覚してからって相当しんどいですねあれ。だっておれ、壱さんのこと好きなのに、壱さんね、おれが触ると吐くんです」

自然と涙がほろりと零れた。
自分でもまさか、泣くようなことだとは思っていなくて、慌てて服の袖で目を隠す。じわりと広がる暖かい染みが、辛い。

初めて人間に恋をした。
それなのに、その人は恋なんかしている場合ではなかった。
自分も大概頭がおかしいと思っていたが、壱の場合は人生がかかっている。誰かに触ると気持ち悪いと思ってしまう。それは、唯川には想像もつかない程のストレスだろうと思う。それでもどうにか社会人として生活し、その上それを治そうと格闘している。そんな壱に、恋愛の話など出来る筈もない。

自分にできるのはせめて壱の症状克服のために、手を貸すことくらいしかできない。
それなのに真っ青な顔をして自分の手から反射で逃げる壱の姿は、正直想像以上に精神的ダメージを伴うものだった。

「もうだめだ……おれにできるのは壱さんの毎朝の健康のためにシリアルを送り続けることくらいしかないんだ……」
「うん? うん、まあ、それはそれで安藤くんも嬉しいとは思うけど。そうだねぇ、そうなっちゃうと、流石に唯川くんがしんどいよね。担当、変えてもらうっていう提案はどう思う?」
「壱さんに会えなくなる。嫌です。でも吐かれるのしんどいです。多分自分でも今パニックになってるだけだっての、わかってるんで、もうちょいしたら、なんかこう……どうにか、どっちかの感情が、ぎゅーっておさまってくれないもんかな、って。思ってるんですけどどうっすかね先生……」
「まあそうだね。時間っていうのは非常に強いものではあるよね。どんな感情も、やっぱり、時間をかければどうしても薄れてしまうからね。でも、人間一気にタイムワープはできない生き物だよ。いずれは全て少しずつ薄まる感情もあるけれど、それを耐えてる間に本人が潰れてしまったら意味が無い」
「仰る通りっすわ……。あー……壱さんのアレって、結局、好意持った人間の性欲が気持ち悪い、みたいなのが根本ですよね?」

これは宿を借りた日に話を聞き、そして立てた唯川の推測だったが、やはり概ね当たっていたらしい。
まあそれが根本かな、と柔らかく言う木ノ瀬に、唯川の絶望感がもう一段階増した。

「真面目な子だからね。自分が身内に持った欲が、本当に気持ち悪かったんだろうね。気の迷いだと笑って流せる子だったら、後々こんなに大変な思いをしなくて良かったんだろうけど、でも、真面目なところが安藤くんの良いところだから、困っちゃうよねぇ」
「本当ですよ……壱さん毎回掃除終わるまで待ってくれるんですよ。邪魔なら帰りますけど居てもいいならって断って。なにあれちょう良い人じゃないっすか。ほれる。いや惚れてるんですけど。でも、じゃあ、絶対に言えないわけですよねー……」

ただでさえ、触るだけでも嫌悪されるのに。この上貴方に性欲を感じていますなどと告白できるわけがない。唯川もきちんとしっかり悩み、友愛や勘違いではないことをしっかりと自覚している。抱きしめたい。キスをしたい。その上の行為も、同性同士の行為はあまり詳しくは無いができるものなら致したい。

そんな事を言ってこれ以上嫌われるのはとんでもないと思った。
最近は好かれているかは分からないが、慣れてきてはくれているようだった。あれだけ容赦なく髪の毛以外は興味無いと言い連ね、それが目的とはいえいじめのように触っていたのに、その容赦ない態度が嫌いではない、と言われている。
多分壱は、とても良い人なのだろう。ただ、他人に近づけないせいで、それが露出することはない。

誤解されているのは可哀想だと思うが、変な虫が付く機会がなくて良い、と思ってしまう自分の心の狭さと汚さが辛い。
壱は潔癖症ではないが、その精神は汚れのないまっすぐなものに思えて、言い訳ばかりで自己擁護ばかりしている自分が酷く矮小に思えてしまった。

こういう風に考えてしまうのも悪いことなんだろうな、という自覚はある。
自覚はあれど、改善ができない。それももどかしく、辛い。

辛い気持を一気にため息にして吐くと、木ノ瀬の柔らかい声が聞こえた。

「ため息もいいけど、僕はそうだね、深呼吸をおススメするよ」
「……深呼吸」

そうだ、そういえば壱はよく息を吸い、ゆっくりと吐く。そんなもので精神が安定するものかと思っていたが、木ノ瀬が言うのだから本当に効果があるのだろう。
そう思い静かに息を吸い、ゆっくりと、満たしてから吐く。
それを二回くり返し、自分の呼吸の音を聞いていると少しだけ、楽に力を抜く事ができた。

壱もここで、深呼吸をしているのだろう。
同じ空気を、ゆっくりと吸い、吐く。
そう思うと、冷えた頭でも少しだけ泣くかもしれないと思った。


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