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08



「安藤さん、最近顔色いいですよねー」

いつも通り滂沱と流れる雨の様に押し寄せる仕事に翻弄されつつ、少し休憩でも挟もうか、と、一息ついたタイミングで女性社員に声を掛けられた。

基本的に人間関係の構築が苦手な壱でも、仕事はきちんとこなすタイプなので、部署内の人間とは普通に会話をする。勤務後の付き合いは一切ないが、最近はそんな若者も多いという話で、壱が特別批判されることもなかった。
それに加え、毎日の仕事量がとんでもない。とてもおしゃべりに花を咲かせている時間がない。忙しい職場で良かったと今は思う。忙しければ、ある程度付き合いが悪くても皆気にする余裕などない。

事務という役職にされているが、実際は経理作業から雑用までなんでもありの『机仕事全般』部署となっていた。人事も齧り、経理も齧り、もう何が本業かわからない。開発や営業がメインの会社だからこそ、その他諸々が全て事務員に振りかかる。
その上新人が二人も配属になり、人手が増えることは結構だが研修も何もない状態でいきなり回された為に、パソコンの基本的な操作から面倒をみてやるというとんでもない作業が追加されていた。

新人女子はまだいい。エクセルの基本操作も完璧だ。ただ男子の方が如何せんどうにもならない。パソコンは使えるが、そもそもMacしか触ったことが無い、と言われてどうして採用した、と常務を恨んだ。
今日は新人二人、その常務に借りだされ、外回りの仕事に同行している。まあ、自分の会社が何を作っているのか、どういう原理で仕事というものが回っているのかを知るのは悪いことではないが、そういうことは研修という名目で最初にやってほしい、というのが出社直後の部長の吐露であり、思わず部内全員が頷いた。

とにかく忙しい。
毎日とても忙しい。
その上壱は土曜日の美容院通いも続けているし、相変わらず慣れることなく吐いている。むしろ吐く事に慣れそうな勢いで、日曜はあさからぐったりして結局だらだら過ごすことばかりなのだが。

そんな自分のどこが健康的に見えたのだろう。
冷えた珈琲を口にしながら、話かけてきた女性社員を見上げると、新しい珈琲を手渡された。

最近出産休暇から復帰した三富は、地味に気が効く。仕事はあまり早くはないが、ミスが少ないので重宝されていた。もう少し体重を減らしたらそれこそマドンナになっていたかもしれないが、壱は彼女のふくよかな笑顔が嫌いではないので、別に体重などは気にしない。

そもそも女性に対して恋愛をしよう、とすら思っていないので、スタイルや顔などほとんどどうでもよかった。

「……健康、的、に見えますかね。あんまり、心当たりないんですけど」
「いやーほんと顔色はいいですよ。春先なんかほら、もうだめ死んじゃうっていうげっそり感と悲壮感で、壱さん倒れたら誰があの仕事分担すんのって、平川さんとかずっと心配してましたもん。もしかして彼女でも出来たのかなーとか、思っちゃうくらい、健康的」

唐突な話題に、思わず壱は苦笑する。
あまり顔に変化がないせいで、その表情が三富に伝わったかはわからないが、彼女は気にした風もない。

「まさか。居ませんよそんな人。彼女できると健康的になるんですか?」
「うん、ほら、食生活とか、見てくれる人だったらそうなるんじゃないかなって。うちも旦那ね、結婚するまでコンビニ弁当で生きてた人だったから。ちゃんと料理食べる様になって五キロも太ったんですよー」

それは三富自身の生活習慣に合わせたら多少はふくよかになるのではないか。と思ったが、軽口を言い合う程の仲ではないので、無難に『三富さんの料理は栄養があるってことですよね。うらやましいです』と返しておいた。実際、弁当はいつも色鮮やかだった気がする。ランチパックで生きている自分とは大違いだと思った記憶がある。

しかし、壱はそんなに目に見えて健康そうだろうか。
自分ではまったく心当たりがない。相変わらず仕事は忙しいの一言に尽きるし、人間に触れられそうになると反射的に気持ち悪いと思ってしまう。何の体質改善もされていない。
この数週間に何かあったとしたら、終電を逃した唯川を自宅に泊め、担当医の木ノ瀬以外には口にしたこともない事情を暴露したことくらいだった。

夜のテンションというものは恐ろしい。
あんな話をするつもりは無かったが、しかし、唯川の適度な無関心さならば、軽く流してくれるような気がした。その予想通り、唯川は適当な相槌を入れながら、特に食いついてくることも無く、最後には壱さんの人生壮絶すぎて本にできるよと笑った。親身になって急に同情されても困ると思っていたので、その反応は壱を安心させた。

壱が人間に対してきもちわるいと思う様になったのは中学の頃で、その思春期真っ只中の自分は確かに、妹を愛していた。
それがプラトニックな兄妹愛だったのか、単純に近場に居る異性に対する性欲だったのか、もう覚えてはいない。ただ、非常に自分のことが気持ち悪いと思った。仁奈が好きだからこそ、自分が気持ち悪いと思った。
それがどうして他人に転換したのかはわからない。精神病の書籍を何冊か読んだけれど、結局はヒトの心の病など、誰にもわからない。

今も妹ちゃんが好き? と唯川に訊かれたけれど、勿論そんなことはない。
妹は好きだ。けれどそれは肉親に対する愛情であって、異性に対するものではない。今はただ、幸せになってほしい。そう思うからこそ毎週サロンに通い、懲りもせずに吐いている。
そう言った時も、唯川は笑ったようだった。暗くてあまり、良く見えなかったけれど。

唯川の適度な距離感が非常に丁度いい。
それに気がついたのはその夜だったし、更にずっと心に溜めていた感情を言葉にするのは、多少の浄化作用があったのかもしれない。

結局体質は改善されていないので、意味があったのかなかったのかわからないと思っていたが、言葉を吐きだした事によって少しは体調も変わったのかもしれない。そう思って思い返し、ああそういえばと、思いあたった。

「最近、朝もどうにか食事を詰め込むようにしてます。健康っぽい原因、それかな」
「あらえらい! それはなんの影響?」
「ええと、……知り合いに怒られて。朝はなんでもいいからとりあえず食えって言われて、最近シリアルを大量に貰いました。あとクラッカー」
「ふんふん。中々友達思いの子ですねーシリアルとか、チョイスも良いし。いい栄養士さんが付いたわけですね。これで安藤さんが忙しさに負けて倒れる心配もなくなったわけですね! その調子でどんどん健康になってばりばり仕事を〜って言いたいところですけど、これ以上仕事ふっかけたら安藤さん潰れちゃいますね……たまには休憩して、手を抜いてくださいね?」
「あ、はい、大丈夫まだ定時になんとか上がれているんで。……ちょっと、明日からはわからないけど」

新人教育に時間を裂かれて、いい加減通常業務も滞って来た。
彼らが居ない今日中にやっておきたいことが山ほどあるのに、一向に片付かない。もう焦っても仕方がないと半分諦め、三富から受け取った熱い珈琲を飲んだ。

「あ。そういえば週末の話聞いてます?」

唐突に三富に言われ、暫く考えたが何のことかわからず首を傾げる。

「……週末? に、なにかあるんですか」
「そう。新人歓迎会。居酒屋で。多分まだ幹事がバタバタしててうまいこと連絡行ってないみたいなんですけど」
「え、この時期に? 今?」
「そう思いますよね現場はね〜でも、そろそろ人も覚えてきただろうからって、常務が言ったらしいですよ。これ、新人いる部署は多分強制参加になっちゃうと思うんで。安藤さんも顔だけでも出してってお願いされると思います」
「あー……はい。了解しました。そのつもりでいます」

週末というのは、金曜の夜だろうか。土曜の夜だろうか。
それによって、唯川にも連絡を入れなければならないかもしれない。先日サロンを訪れた際には大量のシリアルを貰ってしまった。
きっと健康状態が良くないのも、吐く原因になっている筈だと豪語する唯川に、流石に申し訳ないからなにかお返しをと申し出ると、考えておくと笑われた。髪の毛関連以外でと付けたすと苦笑されたけれど。

友人がほとんどいない壱は、何かを貰うということもあまりない。
例えそれがシリアルでも、嬉しいものは嬉しいし、なにより申し訳無い。ただ、唯川が何を貰ったら喜ぶかなど、勿論知る由もない。友人でも無ければ、知人と言っていいのかも怪しい人間だ。

(……今度、木ノ瀬先生に訊いてみようかな……)

木ノ瀬は唯川の事を随分良く知っている様だった。
ふわりとした落ちついた笑顔で、きっと、助言をくれるはずだ。自分で悩んだ方がいいのか、それとも欲しいものを訊きだした方がいいのかすら、壱にはわからない。
そこまでしてお返しをすることが普通なのかもわからない。壱としては貰った物の分、気持ちを返せればと思うが、もしかしたらそれはうざいと思われてしまうかもしれない。

そんな事を考えていると時間はすぐに経ってしまい、慌てて休憩を終了させた。

ぐだぐだと、悩むのは自分の良くない癖だ。
不安な想像ばかりしてしまって、うまく行動に移せない。

ただ、こんな風に自分と家族以外の誰かのことで悩むということは、実はほぼ初めてだということに、壱自身は気が付いていなかった。


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