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08




 癖のある香りが、鼻の奥に突き抜ける。
 タブレット片手に昼食を取る光景は、あまり褒められたものではないだろう。いくら社内に人気がないとはいえ、少しばかり気を抜きすぎかもしれない。
 故に相棒であるケントがなんとも言い難い表情でこちらを眺めていることに気がついた時、たしかに行儀の悪い作法だった、と反省したのだが。
「……小胡おまえ、パクチー好きだったっけ?」
 どうやら、食事の作法ではなく、内容に異論があるらしかった。
「嫌いじゃないよ。慣れたら癖になる」
「パクチー好きな奴はみんなそう言うじゃないか信じないぞ。つか、タコスなんか食ってるの初めて見たんだが」
「勤務中はどうしてもサンドイッチの割合が増えるからね」
 パクチーがこれでもかとトッピングされたタコスをかじり、しれっと視線を落とす。
 ケントは納得していない様子だ。同僚の些細な変化に敏感で嬉しいような困るような、複雑な気持ちになるがもちろん、顔には出さない。
 とある不埒な事情でここのところパクチーを貪るように食しているものの、理由を告白するつもりはない。
 まさか、己を口説いてくる男とのキスを思い出して悦に浸れるから、などと言えるはずもないだろう。シンプルに心配されそうだ。
 誘うような、挑発するような、意地の悪いキスをした。
 あの時の私はどうかしていたと言い訳出来たら楽だが、残念ながら完全に素面だったし、正常な思考状態だった。
 酒に浮かされた訳でもなく、アクシデントに慌てたわけでもなく、私は己の意思で彼の唇を塞いだ。
 怒られてもいいようなキスだった。馬鹿にしているのか、おちょくっているのかと、責められても仕方のない行動だ。それなのに甘すぎるサイラスは、ただ素直に照れて慌ててとんでもなく可愛い顔を晒した。
 そう、可愛い。彼は可愛いのだ。
 いや可愛い人だなとは思っていたが、なんというか……一日連れ回されたあの日から、特にサイラスの可愛さが目に留まるようになった。
 控えめに笑う顔はハンサムなのに、びっくりして目を丸くする様は可愛いとしか言いようがない。言葉遣いは柔らかい。物腰も、思考も柔らかく、とても真摯だ。特に照れた顔がたまらなく可愛い。
 サイラス・シモンズは可愛い、と気がついてしまった私はもう、沼に落ちたも同然だった。
 一度生活水準を上げたら下げられない、と主張するサイラスは、きみとのキスを知らない世界には戻れないんだと言い、何度か私の唇を塞いだ。その度に、嫌悪感ではなく確かな愛情と、性的な興奮が沸き上がった。
 まぁ、うん。好きなのだろう。私は、彼に、明らかに惹かれている。
 最後の一歩はまだ踏み出せないが、とりあえず、そのくらいのことは自覚していた。
 少なくとも私は、パクチーまみれのタコスをかじり、キスの味を思い出して内心にやつくくらいにはおかしくなっている。
 私がパクチーを齧っていると、サイラスもあのキスを思い出してしまうらしい。あからさまにぎこちなく凝視して、盛大に照れた顔を晒してくれる。まったくとんでもなく可愛くて困る。
「あとアレだな。最近髪の毛縛るようになったな、小胡」
 ……いやまったく、きみはそんなに目ざとい男だったか? 私の髪型を逐一褒めるサイラスに負けず劣らない観察眼だ。
「夏だからね、シンプルに暑い。できることなら切りたいが、ボスが嫌がる。キミの顔は短髪だと強すぎるとかなんとか……」
「休憩中はだいたい二階に行く」
「読書は楽しい、ということを知った」
「……俺には恋愛相談とかしてくれないのか?」
 ごまかしながら話題を逸らし続けていたが、結局ケントはストレートな言葉を選んだ。
 思わず笑う。ケントもサイラスも、私の周りの年上の男はどうしてか、拗ねた顔が愛おしい。
 タブレットから視線を上げて降参する。べつに、どうしても隠したい訳でもない。
「相談するような面倒なことがないだけだよ、ケント。単純に彼に口説かれて、私が惚れただけだ」
「……マジかよ相棒、っあー……いや、シモンズさんがお前にお熱なのはどっからどう見ても丸わかりだけど、まさか小胡が落とされちまうとは……」
「私が同性と付き合うのはおかしい?」
「ああ、いやそういうことじゃない。別に性別は気にしてないし、シモンズさんがあんなふらふらしていても良いやつだってのはわかってるけど……わかってるけど、あんだけセレブ有名人芸能人美男美女に口説かれまくってもびくともしなかったお前がまさか、ワーカホリックの雑誌ライターに惚れちまうなんて……」
「セレブ有名人芸能人美男美女が好みじゃなかっただけかもしれないな。ただしサイラスはそれなりのハンサムだとはおもうよ」
「うーん俺は外人の顔の良し悪しはわかんないけどまぁ、うん、確かにシュッとしてはいる。眠そうだけど。ところでさっきから何見てんだ? 次の仕事の資料?」
「いいや。先日サイラス・シモンズを襲撃した人物の調書」
「…………胡麗孝さん、そちら、一般公開されているものではないのでは?」
 勿論、違法だ。
 伝手で手に入れた極秘資料……というほどの機密情報ではないが、まぁ、簡単に世に出回るものではない。
「あの小胡が仕事以外の調べ物をするなんて。恋ってやつはとんでもない威力だな」
「いや、今後彼に危害を加えられないように最大限注意するという意図もあるが、そもそも、なんというか……」
「なんだよ。思うことがあるのか」
「……この仕事自体に、若干の疑問がある」
 基本的に私は己の仕事に対して真面目だ、という認識だ。真面目、というのは、言われた事を完璧にこなす、ということであり、依頼人を取り巻くトラブルを解決するということではない。
 OSGはトラブルシューターではない。依頼人をただ愚直に『護る』ことが我々の仕事だ。
 決められた期間、決められた人物をトラブルから護る。我々は探偵ではないのだからそれでいい。もめ事の解決は、OSGの仕事ではない。故に疑問があっても気にすることなくただ仕事をする。それが本来の私だ。
 ただ今回は、事情が変わる。
 単に私がサイラスに個人的に近づいてしまったせいではあるのだが、……彼の今後の安全を考えるとどうしても、我々への依頼と向き合わざるを得ない。
 依頼人はウィズメディア社のオーナーである男性だ。現在病院で療養中のマイケル・アンダーソン氏は、我々OSGに二週間の警護を依頼した。警護対象は、ウィズメディア本社とアンダーソン氏本人だ。
 ウィズメディア社は連続して社員が襲われており、その原因や犯人に関しては、社員全員全く心当たりがないという現状だった。
 アンダーソン氏以外の個別警護は必要ない。彼は入院中で病室から動かないし、私とケントが派遣されたウィズメディア社では社員の警護はしなくて良いと言われている。つまり、部屋の警護をしている状態だ。
「まず、二週間という警護期間が不思議だ。この期間の根拠はなんだと思う?」
 私の疑問に、真面目なケントは腕を組む。
「そうだな……それ以上雇う金がない、または二週間で片がつくと知っている、のどっちかかな」
「たしかにこの会社は裕福には見えないが……」
「アンダーソン氏はポケットマネーから警護費を出すみたいな事を言っていなかったか? 彼個人は金持ちなのかね」
 個人の資産に関しては、正直わからない。この会社の経営状態について、サイラスは詳しく把握していないらしい。どんぶり勘定でなんとなく採算は合っているという感覚はある、とのことだ。
 実際に雑誌を作って発行する過程のほぼ全てを仕切っているのはサイラスだけれど、経理はアンダーソン氏が担当しているようだった。むしろ経理だけしかやっていない、と言っても過言ではないような印象を受ける。
「依頼の期間は明日までだ。明日の主だった予定は……」
「NESSAの発売日じゃないか? やっぱり。そうすると、NESSAの最新号の中に鍵があるんじゃ?」
「許可を得て目を通させてもらったけど、私が見てもピンとくる記事は無かった。単に私の知識不足かもしれない、後で時間があればケントも読んでほしい。……この男も特に不審なところはないんだ。ただ、サイラスを襲った動機は不明。本人の供述もサイラスに関してはあやふやだ」
「あー……プロかもしくはやばい奴らに唆されたか依頼されたか脅されたか」
「一番嫌なパターンだな。個人の私怨ならばまだマシだが、組織が関わるとハードルが跳ね上がる」
 さて、私たちは、一体何を、誰から守っているのか。
 本来考えなくてもよい事に足を突っ込んでしまうのは、完全にプライベートな感情のせいだ。よくない、とは思う。その思いを私のため息から感じ取ったのか、ケントは控えめに苦笑した。
「……ま、別に規約違反ではないだろ。その調書は見なかったことにしておくが、仕事を放り出して探偵ごっこに興じているわけじゃないし、何より今は休憩中だしな」
「私の休憩は午後八時からだけれど」
「飯食ってる時は休憩中でいいんだよ。いやーしかしあの生真面目男がそこまで惚れるなんて、とんでもないなシモンズさんは」
「私じゃなくても口説かれたら惚れるよ。あの人がいままでフリーだったことがおかしいと思う」
「……恋は盲目って言葉が日本にはあるんだぜ」
「存じてるよ相棒。残念ながら自覚はある」
 受け入れてしまえば、恋情は活力でしかない。
 私は家族をつくるつもりはない。故に恋人もつくるつもりはなかった。誰かと結婚し、家庭を持つ、という夢がない。そもそも惚れっぽいたちでもなく、そのせいか自分がただ単純に他人に惚れる、ということを想定していなかった。
 落ちてしまえば簡単な話だ。孤高の仙人を気取っていたつもりが、ただの人間だったというだけなのだから。
「ところでそのシモンズさんはどこ行ったんだ? 朝ちらっと珈琲飲んでるところを見たっきりだが」
「二階に居たよ。あとは印刷所に行っているミレーヌ待ちだとかで、シンディも上でパンケーキを食べていたな」
「なんだそりゃ微笑ましいな。シモンズさんもフローレスさんも働きすぎだが、シンディはいくらなんでも若いのに無理しすぎだ。もっと寝て食うべきだよ」
 同感だ、と言おうとした矢先、バタバタと二階から階段を駆け下りる音がした。
 尋常ではない音だ。ただ急いでいる、というような慌てぶりではない。
 明らかにおかしい。なにかトラブルがあったに違いない。
 反射的に立ち上がり、二階へと上がる通路への扉を開く。
 案の定携帯電話を耳に当てたサイラスは、靴を半分ひっかけた状態で駆け下りてきた。
 顔面蒼白とは、今の彼に使うべき言葉だ。
「待っ……ちょ、そこで待ってて、ってば! いや、無茶すんな! いまから行、もう、なんでそうやって無茶、っあー!」
 声をかける前に、一直線にエントランスに向かって走る。慌てて後を追う。
 玄関扉を開けた彼はそのまま走り出しそうな勢いだったが、ありがたいことに扉を開けただけでそこから飛び出すことはなかった。
 ただ、そこに立つ人物は、全く歓迎されない状況だ。
 一瞬見ただけで私は顔をしかめ、サイラスは『あー』と気の抜けた声をあげた。
 そこにいたのはミレーヌ・フローレスだった。ただし、五体満足ではない。
「……くそが、信じられない、本気で死ぬとこだった、死にかけた、まさか死ぬとは思わないじゃないの死んでないけど!」
 明らかに片足を引きずる彼女の頬は擦り切れ、手に握りしめた眼鏡のフレームは歪んでいる。左半身を地面に擦ったのか、ひどい汚れと擦り傷が目立った。
「ああ、もう、まず病院行けって言ったじゃんミレーヌばか! なんで帰ってきちゃうの足、それ、うっそ、血出てんじゃん!」
「折れてないわよ死ぬような怪我でもねーわ動脈切れてたらさすがに救急を呼ぶ」
「てーか警察は!?」
「無理。道端で押されました車に轢かれそうになりました以上、それ以外のなにものでもないから無理。意味ない。マッチョな通行人が慌てて私の手を掴んでぶん投げてくれたからこんなもんで済んでんの、そうじゃなきゃ死んでた。シンディは?」
「う、上で寝てる、けど」
「この建物から出さない方がいいわ、たぶん。麗孝、ケント、悪いけどどっちでもいいからテーピングしてもらっていい? あとサイラスは息をしろ」
 言われた通り私は彼女の左半身を支える。
 折れていない、と本人は気丈に振る舞っているが、少し歩いただけで痛む様子が身体の緊張から伝わった。
「……失礼、抱き上げて運びます。ケント、シンディとサイラスをお願いします」
 手際の良い相棒は、颯爽と二階に駆け上がる。私に抱えられたミレーヌは、隣を通り過ぎる時にサイラスの肩を軽く叩いた。
 茫然とする彼はとりあえず置いておく。まず確認すべきは怪我の具合だ。
 ミレーヌの机の上に彼女を下ろし、足を椅子の上に置く。熱を持って腫れているが、確かに骨には異常はなさそうだ。
「捻挫ですね。筋肉にどの程度の損傷があるのかは、私ではわかりませんが、医者には?」
「行く気はない。ぶっちゃけるとそんな金はない。……わかるでしょ、麗孝、私は本当に生活を優先するならこんな仕事はしていない。まじでギリギリ、特にトラブルがなけりゃ路頭には迷わない、くらいの給料よ」
「頭は打ちましたか?」
「打ってない。断言できる。だから足と擦り傷だけだから、たぶん死なないって判断できた」
 確かに、死にはしないだろうが……とにかく彼女の足の応急処置を進める。
 何度か痛いと言って殴られたが、とりあえず命に別状はない。テーピングを施し、濡れたタオルを渡すと、私の肩を使って机から降りたミレーヌは、いつものようにどっかりと椅子に腰を落ち着けてから天井を仰いだ。
「あー……ありがと、麗孝。こんなこと言ったらクソ失礼だけど、私いま初めてあんたたちがいてくれて良かったと思ってる」
「本来は、居なくても良いのが理想ですからね。それでいいと思います。犯人に心当たりは?」
「ない。後ろは人混みだった。見覚えがある奴は居なかったし、あからさまに怪しい奴も居なかった。……ほんとに、まじで、本気で、私でよかった」
 声に混じる震えに気づき、私は思わず彼女を凝視してしまう。その後に少々慌てて、己の態度を恥じつつハンカチを差し出した。
「……あんがとう。泣いてる中年女にハンカチ出してくれる紳士なんか存在すんのね、NYに」
 滲む涙をハンカチに吸わせたミレーヌは、低い声でうめく。
「あー……良かった。私でよかった。よかないけどさ、でも、シンディじゃなくて、よかった」
「………………」
「……なに」
「いえ……サイラスではなくてよかった、という意味かと思っていたので。すこし、意外でした」
「あんたね、私はたしかにアレの熱狂的なファンだって自覚はあるけど優先順位くらいは把握してる大人よ。もちろんアレが五体満足なのは素晴らしいことだけど、シンディは……まだ子供じゃないの。二十一歳なんてガキよ、ガキ。ガキが頑張ってさ、私たちの仕事を手伝ってくれてんの。誇り持って、しんどいけど楽しいって笑ってくれてんの。嫌じゃない、仕事のトラブルで怪我してトラウマになって、もうこんな仕事やりたくないって泣いちゃったら。そんなの、私、嫌だ」
 クソみたいな仕事だけど笑っていてほしい。そう言って涙を堪える姿に、不覚にも感涙を零しそうになり、見事目の前の人にバレて睨まれた。
「ちょっと、やめなさいその感動物語を目にしてしまったみたいな顔、はらたつから。あんたそんなアジアの山奥で修行してそうな顔しときながら、ホントは情熱野郎なの知ってんだからね」
「私は、あなたが情熱的な人だということを今知りました」
「あーやめ! やめて! 柄じゃないの! ほら、さっさとサイラスの背中叩きにもどんなさい、あいつ泣いちゃうと面倒くさいから! キスでもして息吹き込んで生き返らせてやって! どうせ自分のせいじゃないのにへこんでんのよ、馬鹿だから。サイラス・シモンズなんかただの馬鹿よ、いい加減わかってるでしょ?」
 苛立ったように背中を叩かれ、その痛みに苦笑する。
 サイラス・シモンズはただの馬鹿だ。ミレーヌはよくその言葉を口にする。その声の中の愛情を感じ取り、私は息を吐いてから立った。
 私は彼のことを馬鹿だとは思わないが、わかりやすくて愛おしい人だとは思う。
 ミレーヌの怪我の具合を確かめ、彼女の精神状態も問題ないと判断した。廊下の先に顔を出せば、奥の階段に座り込んでいるシンディと、彼女の背中をさすっているケントが見える。
 壁にもたれて腕を組んでいたサイラスは、私が思っていた程弱っている様子ではなかったが――。
「……サイラス、大丈夫ですか?」
 私の声に、彼はびくっと反応してから顔を上げる。泣いてはいない。動揺している様子もない。ただ、少し表情が硬い。
「ああ、うん、大丈夫、ミレーヌ本当に駄目な時は、ちゃんと駄目っていうの、知ってるから……あのー、シャオフーとケントさ、ちょっとお願いがあるんだけどさ。キミたちの依頼人はおれじゃなくって、うちのボスだってのは百も承知なんだけど。――ちょっとだけ、協力してほしいことが、あるんだ」
 私はケントを見る。ケントも、神妙な顔で頷いた。
 私にできる範囲ならばなんでも。そう答えると、サイラスは少し決意したかのように、息を吐いた。



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