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11



 掠れた鐘の音の後に、軽いノック音が響いた。
 この家は昔からチャイムがない。随分と昔に壊れてしまってから、母親は死ぬまで錆びた鐘を玄関先に置いていた。中まで錆びてしまった鐘はほとんど音なんかしないし、耳が悪くて八割の来客に気が付けなかったのに。
 ふとした瞬間、些細な日常の一瞬から、嫌でも思い出は立ち上る。危うくまた悲しい気持ちに浸りそうになり、慌てておれはタブレットを置いてソファーから腰を上げた。
 飛行機のチケットを勝手に買って贈るなんて、ちょっと横暴だったよなぁと反省はしていた。ケントにシフト確認したとはいえ、彼にだって予定はあるだろうし、もしかしたら三週間の間にもう愛想を尽かしていたかもしれない。
 おれはなんというか……夢中になるといろんなものが目に入らなくなる。なんなら生きることすらギリギリ放棄しちゃいそうになる。睡眠とか食事とか。そういうものすら身体が限界になると初めて思い出すし、必死に働いている間は基本的に仕事の方向しか見えていないんだ。
 勿論、シャオフーのことが嫌いになったとかわざと放っておいたとか彼のことを考えもしなかった、というわけじゃないんだけど……今となっては『必死に仕事の後始末をしていたら気がついたら引っ越しの日だった』という言い訳しかできない。普通にナシだと思う。ナシだ。うん。人としてどうかと思う、サイラス・シモンズ、本当にそういうところだ。
 やっぱり先に電話して謝ったほうがいいかな。でもできれば顔見て話したいしな。
 メモよりもチャットで、チャットよりも通話で、通話よりも対面で話した方が誤解や行き違いは少なく円満なコミュニケーションができる。人生三十三年の教訓だ。いやおれにコミュニケーションとか語られたくはないだろうけれど。
 迷っていてはどんどん時間が過ぎていくばかりだ。
 もういいやシンディに賭けよう、だなんて他力本願すぎる行いをした。反省している。自分でオリエンタルSGに掛け合って、自力で彼に会うことだってきっとできたのに……なんてうだうだしているうちに、自分が指定した航空チケットの期日になってしまったわけだ。
 心臓が口から出そう。
 でも、これ以上彼を待たせるわけにも、振り回すわけにもいかない。おれだってもう待ちたくない。
「……えーと、いらっしゃい、シャオフー」
 最初になんて言おうか、なんて考えていたセリフは全部どっかにぶっとんだ。頭なんか昨日から真っ白だ。ぼんやり見ていたドラマのシーズン丸々、記憶に残っていないくらい。
「こんにちは、サイラス。お久しぶりです、あのー……ええと、まず謝らせてください。私はあなたに――」
「え、ちょっと、落ち着いて、ね? いやおれも山ほど謝ることあるからすごく懺悔したいんだけど、真夏の玄関先でやる話じゃないと思うからね、とりあえず入って、ほら、荷物持つよ」
 記憶と寸分変わらない想い人は、想像していたような真剣な顔つきで予想外の言葉を吐いた。
 ……ひどい人だとか、どうして連絡してくれなかったんだとか、もうあなたには付き合っていられないと言いに来ただとか、そういうセリフ言われちゃったらどうやって懇願しようって思ってたんだけど……。
 なんだか妙に必死な形相のシャオフーに玄関閉めた瞬間手を握られて、自分の心配が斜め上すぎたことを知った。ていうか急に触ってくるとびっくりするからよくない、おもいっきり飛び跳ねちゃったもの。
「シャ、オフー、え、ちょっと、あの、ごめんね怒ってるよね落ち着いてまずは話を――」
「怒ってなどいません。あなたが招待してくださったことに感謝しています。謝らせてください、サイラス。私はあなたの好意にあぐらをかいていて、自分から努力することを怠りました。もっと早く、あなたの部屋をノックしてれば、あなたの助けになることもできただろうに」
「え。いやそれはいいんだよ、べつに、だっておれの仕事だし、おれがやらかしたことだし、ミレーヌもちょこちょこ手伝ってくれたしさ。シャオフーは謝ることなんかないでしょ? どっちかって言ったら、おれがちゃんときみに連絡とらなかったことの方がダメだよ。忙しかったなんて言い訳でしかない」
 ごめんね、と本音を連ねる。
 どうしてか泣きそうに顔をゆがめたシャオフーは、息を吸って吐いて、おれの手をぎゅっと握ってから怒っていませんと言った。本当かな。本当だと、嬉しいと思う。
「……信じていませんね。本当に怒ってはいない。怒る要素がありません。そもそも、腹を立てていたらわざわざ飛行機に乗りませんよ。私がどんな気持ちで今日の朝を迎えたか、わかりますか」
「ええと、……ごめん、どんな気持ち?」
「今日やっとあなたにキスができる、という気持ちです」
 ……いやそれはずるい。ずるいと思うよ、本当に。
 胸が苦しくなるくらいグッとしたし、息も止まっちゃったし、本来ならここで流れる動作でキスしなきゃいけないところなのに、泣きそうになって変な声出そうになった。ぎこちないおれの感動を、シャオフーは真剣な顔で流してくれる。
 やっと彼の唇をふさいだ時なんか、もう泣く寸前だった。
 シャオフーがいる。いま目の前にいる。その事実だけでも嬉しいのに、彼は変わらずおれに愛想を尽かしてはいない、と言う。
 嬉しくてどうにかなってしまいそうだ。今朝までの意気地のない不安が、一気に溶けて感情を押し上げる。……気分がジェットコースターすぎて気持ち悪くなりそうだ。
 しかもおれの腰に手をまわしたシャオフーは、キスを切り上げようとするおれを引き留めてもっとと甘い声で囁く。
「…………きみ、そんなキャラだった……?」
「己でも驚いているところですよ。恋人に対して誠実である自信はありましたが、誰かを甘やかして甘えたいと思ったのは、あなた相手が初めてです。……キスが、足りないと、思ったのも」
 少しだけ目を伏せる、耳の赤さが目に入っておれの心臓が跳ね上がる。かわいくて吐きそう。でも吐くわけにはいかないから、とりあえずもう一回深くキスをしてから、彼の腰を引いてリビングへ促した。
 田舎の一軒家は、広さだけが取り柄だ。だだっ広いリビング、少し暗いキッチン、使い勝手の悪いバスルーム。二階への階段は古すぎてぎしぎしと鳴るし、手すりは一部壊れている。調度品も立派とは言い難く、家具の古さを誤魔化すように、手縫いのパッチワークがそこかしこに並んでいた。
 この家で、誰かを迎えるとは思わなかった。もう帰ってくるつもりもなかった。売ってしまわなかったのは単に、少しでもかかわるのが嫌だったというだけだ。
 幸い家を管理してくれている叔父は、親類の中でもダントツに話が通じる人だった。次の家が決まるまで数日借りたい、という身勝手な申し出に『なんならそのまま住めばいい』と言ってくれたことに感謝している。住む予定はとりあえずないけど、山ほどある荷物を管理するには、広いだけの家は好都合だ。
 とはいえ、随分と放置されていた家だ。人の住まなくなった家はすぐに荒れる。
 幽霊なんかが飛んできそうな廃墟間際の家を、二日間どうにか掃除して『ちょっと古い家』くらいに整えた。
 ソファーに深く腰掛けて興味深そうにあたりを見回すシャオフーの様子に、ちょっとだけ不安になる。
「あの、シャオフー、どうかした? もしかして蜘蛛の巣とかある? できる限りがんばって掃除したんだけど、ほらおれあんまりきれい好きってわけでもないし、なんかあったら容赦なく言ってほしいんだけど」
「いえ、十分清潔だと思います。ただ、なんとなく……あなたには似合わない家だな、と思ってしまって。すいません、失礼な言い方ですね」
「いやぁ失礼なことなんかないよ、おれもそう思うもの。ていうかおれ、この家にいい思い出なんかひとつもないよ。ずっと、嫌な思いばかり……いややめよ、そういう暗い話はよくないよ、めでたく行き違いもなくきちんと再会できたんだからもっとハッピーな話がしたいよおれは」
「私は、あなたの過去を知りたいとは思いますが、あなたのお気持ちを尊重します。といっても、ハッピーな話題に心当たりもありませんが……」
「きみがここでおれにキスしてくれてる現実が一番ハッピーだよ」
「……もっとキスをしてもいい、ということ?」
「そりゃ好きにどんどんしてもらったらそれだけハッピーだけど、え、シャオフーそんなにキス好きな人だったの?」
「というか、あなたのキスが好きです。とろけるようで、ひどく甘い。ため息のような吐息がセクシーで好きです」
「…………今日ほんとどうしたの……?」
「素直になることにしたんです。恥と虚勢で取り繕っても、プライド程度しか守れません。私がほしいのはあなたの好意です」
「えー……いつからそんなにおれのこと好きになっちゃったの、シャオフー、本当に予想外の甘さなんだけど」
「覚えていませんよそんなこと。気がついたら、あなたのかわいさに落ちて這い上がれなくなっていた」
 耳に痒い言葉ばかり真剣な顔で連発されて、変な声が出っぱなしだ。これだけかわいいかわいいと言われちゃうと、自分のことをかわいいと自覚しちゃう三十三歳になっちゃいそうだ。おれてきにはシャオフーのほうが格好いいしかわいいと思うけど、恋に目がくらんじゃってるシャオフーには、おれがかわいく見えちゃっているらしいし、このまま永遠に目を覚まさないでほしい。
 手を握ったまま、思う存分キスをする。
 じゃれ合うように意地悪をしあって、お互いに息が苦しくなって笑いながら唇を離した。
 しばらくそのまま、ぼんやりと過ごした。
 おれはそもそも、急ぐ用事もない。やらなきゃいけないことは大抵終わらせてきたし、時々食材を買いに出かけるくらいしか用事もないし、要するに暇だ。
 シャオフーも数日間はゆっくりできるらしい。それならぜひ好きなだけ泊って行ってと懇願すると、彼も本心から喜んでくれた。
 特別珍しいものもない、ただの広い家だ。おれはタブレットで延々とドラマと映画を観たり本を読んだりして過ごしていたけど、シャオフーは暇で手持無沙汰にならないかな、と不安になる。
 ひとしきりまったりしたあと、思い出したようにシャオフーは荷物の中から手土産を取り出した。
「うわ、気にしなくていいのに、アジアの人は律義だよね……あ、ドライフルーツだ。サンザシ?」
「あまり甘いモノが得意ではないと伺ったのですが、お茶やコーヒーはよく召し上がっていたので、付け合わせにどうかと思いまして。私はサンザシの香りが好きなので、どうぞ試してみてください。あとこれはケントからです」
「ケントから? なんで? おれなんかケントにプレゼント貰うようなことしたっけ?」
「サイラスが娘に絵本をプレゼントしてくれたから、そのお返しだと言っていましたが」
「っあー! あーそういやあったね、そんなこと。おれあんまり他人に求めてないっていうか、あげちゃって満足しちゃうっていうか、見返りとか百パーセント求めてないからうっかり忘れちゃう……」
「あなたらしいですが、ケントは非常に感謝していましたし、感心していましたよ。なんでも、自作の絵本だったとか。レイチェルがいたく気に入ってしまって手放してくれなくて、私は拝見できなかったのが残念です」
「え、データならあるよ。読む?」
「……いいんですか?」
 そういえば、暇すぎてそんなものを描いた、記憶が蘇って来た。
 正直絵が上手いわけでもない。ただ、長年の編集業のお陰様で下手という程でもない。本来はデザイナーに任せるような仕事も、なんとウィズメディア社では人手が足りな過ぎて自前でどうにかしたりする。
 軽いイラストからデザインまで、本業の人には勿論及ばないけれど、素人にしちゃどうにか見れるんじゃないの? 程度にはこなせるようになっていた。
 家の掃除を終えた後、すっかり暇になったおれはふとケントの子供のことを思い出した。オズの魔法使いがお気に入りの将来有望な少女。彼女のお眼鏡にかなうかわからないけれど、小さな物語を書いてみようかな、と思ったのだ。
「素人の描いた落書きみたいなもんだよ。絵もそこまで得意じゃないし、文字だってフィクションは管轄外だしね。いまはタブレットひとつあれば絵だって小説だって書けちゃうからすごいよ。ええと、これが最初のページ。画像で保存してあるからスライドしていけば読めるはず」
「……ホーカス・カダブラ・バビディ・ブー?」
「うん、これが題名。そんでこれはね、おれの魔法の言葉だよ。呪文っていうのかな。あっちこっちから拝借した、ごちゃ混ぜで無茶苦茶で、都合よく便利な呪文」
 本当はオリジナルを考えるのがちょっと面倒だっただけだけど、まあ出版するわけじゃないしいいかなぁと思った。
 ホーカス・ポーカスでも、アブラカダブラでも、ビビディ・バビディ・ブーでも構わない。どんなものでもいいから、魔法の呪文がほしかった。
 絵本の内容は短い。まあおれ本職の作家でもないし、これでも頑張った方だ。
 主人公は女の子。彼女はちょっとだけ意気地がなくて、いつも言いたいことが言えない。心の中ではいろんなことを考えているのに、口が動いてくれないのだ。
 そんな彼女に、うっかり空から落ちて来た魔法使いは、助けてもらったお礼に魔法の言葉を教えてあげる。
 ホーカス・カダブラ・バビディ・ブー。ごちゃ混ぜで無茶苦茶で都合よく便利な呪文。これを唱えると、世界のどこかで、誰かが素直になる。
「……自分が、素直になれる、とかではなくて?」
 絵本の画像をゆっくりと読んでいたシャオフーは、ささやかな疑問を口にした。当然予想できる読者の反応だ。
「うん、だって、そんなのずるいでしょ。ちゃんと自分の力で言葉は口にしなきゃ。でもこの呪文を唱えるとね、どこかで誰かがちょっとだけ素直になっちゃうんだ。意地の悪い魔法だよ」
 少女が魔法の言葉を叫ぶと、どこかで誰かの恋が叶う。愛が実る。素直な言葉でハッピーが起こる。でも、いつまでたっても自分にはかからない。結局世界の最後のひとりになるまで魔法にかからなくて、悔しくなった彼女は魔法の言葉じゃなくって自力で親友にこう告げる。いつもありがとう、大好き! っていう話だ。
「なんというか……あなたらしい話です。子供にはちょっと難しいかもしれないけれど、可愛くてちょっと皮肉的で、愛おしい」
「そう? そうかな、もうちょっとうまくやれたのになーみたいな気持ちもあるから、個人的には満足してないんだけど……読者のことを考えるなら、もっと子供っぽいかわいい話にした方がよかったのかな、とか反省したし。オズの魔法使い好きなら喜んでくれそうだけどね。あ、でもこのシーンの絵は力作。象がかわいいでしょ?」
「ああ、そういえばケントもレイチェルが象を気に入って、と言っていました」
「ほらやった! だって力作だもの! うわー嬉しいなぁ、ちゃんとがんばったところを見てもらえると、やっぱりガッツポーズ決めたくなっちゃうよね。やっぱりおれは、文字が好きだなって思ったな」
「……NYに、帰ってくるんですよね?」
「え、うん。そのつもりだけど」
「良かった。……ミズーリは素晴らしい場所だとは思いますが、通うには少し遠いですから」
 ほっとしたように息を吐くシャオフーをしばらく見つめたおれは、ああ、今だよ今言わなきゃ、と思う。素直になるのは今だ。
 魔法の言葉に頼らなくたって、おれは言葉を紡げるはずだ。コミュニケーション能力は底辺だし、よく喋るわりにあんまり言葉がうまく伝わらないおれだけど、でもおれは絵本の中の少女じゃない。ちょっとだけ勇気を出せば、ちゃんと素直になれるはずだから。
 彼の手からタブレットを取り上げて、両手を握る。
 急に向き合ったおれに対して、シャオフーは首を傾げた。かわいい……じゃなくて、うん。
「シャオフーあのね、好きだよ。きみのことが大好きだ。来てくれてありがとう。……できることなら、これからもずっと、おれの手を握っていてほしいんだ」
 言葉を扱う仕事をしてきたのに、大事な時には全然うまい言葉が出てこない。格好いい気の利いたセリフなんか縁がないから仕方ない。
 どストレートすぎてちょっとダサかったかな、いやでも本心だしな……と心配し始めたあたりで、シャオフーが突然おれの肩あたりに額をおしつけてきてびっくりした。
「え、シャオ……えっ!? 泣いてるの!?」
「……あなたが、そんな……感極まるようなことを、言うから……」
「だって本心だものっていうかきみ、ちょっと、おれのことチョロいとか言ってたけどきみも大概じゃない……」
「仕方ないじゃないですか。好きなんです。恋なんか落ちてしまえばどんな些細なことでも渦のど真ん中気分ですよ。感情が追いつきません。その、背中を優しく叩くのやめてくださいどんどん好きになって息ができなくなりそうです……」
「えええ……じゃあどうしたらいいの……? おれは、できればきみには、笑っていてほしいんだけど」
「……じゃあキスしてください。恋の渦なんかどうでもよくなるくらい、私を、落としてください」
 恋は渦だ、と彼は言う。まあ、わからなくもない。些細なことで不安になるし、しょうもないことで悲しくなるし、どうでもいいことで急に踊りだしたくなる。
 シャオフーは『救い上げて』とは言わなかった。このままどんどん落としてと言った。落としていいのかな、本当は救い上げて、他の人と一緒になった方が彼は幸せなんじゃないかな、とか、そんな風に弱気になる自分に活を入れて、手をもう一度ぎゅっと握る。
 好きだよと言えば、自分もそうだと言葉が返ってくる。
 甘いキスの合間に、ちょっとだけ涙の味が混じる。思っていたより本気で泣いてたみたいでびっくりしたし、おれまで泣きそうになる。
 ……ちゃんと言葉にしてよかったなーと思う。わざわざ好きとか付き合ってとか言うの、幼稚じゃん? とか言われちゃうんだろうけどさ。でも、素直になるのは大事なことだと思うから。
 ずっと、この家のことが嫌いだった。今も別に好きじゃない。どこもかしも、嫌な思い出で溢れている。
 その中でシャオフーと交わしたキスは、初めてこの場所で作った麗しい記憶になった。




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