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06



 携帯の向こうから響いたのは、聞き覚えのない女性の声だった。
『ねぇ、いま素面?』
 唐突すぎる質問に、思わず素直に「はい」と答えてしまう。
 深夜に足を踏み入れたばかりの時間だが、灰慈は飲み会を恙なく終えて帰路についたばかりだった。
 姉の事件の直後は、飲みに行くような心の余裕はなかった。それでも根気強く、時には強引に声をかけてくる七星に根負けした。というのは建前で、自宅と菅生の家の往復という日常に、どうにか別のイベントを挟みたくなったというのが本音だ。
 菅生の事が嫌いなのではない。実のところその逆で、まだ出会って一か月も経っていない年上の男に、灰慈は随分と懐いてしまっている。
 懐く、という表現が的確なのかどうかも怪しい。友人かと言われれば違うと思うし、かといって雇い主とバイトという他人行儀な雰囲気でもない。
 菅生は時折、洗濯をしている灰慈の横で簡単な夜食を作ってくれる。良かったら持って行って、と持たされる常備菜は正直大変ありがたい。タッパの中身はこっそりと夕飯に並ぶ事になる。
 掃除はできないが料理はできる。洗濯はできないが洗い物はできる。変な事は知っているのに、肝心な事を言い忘れる。
 菅生泰成はなんというか、絶妙なバランスの男だ。
 母性本能をくすぐられるってこういう感覚なのかもしれない。最近は菅生が在宅していると分かりやすく浮かれたような気分になる。懐いているというか、完全にほだされてしまっている、と思う。気が付けば目で追っている事に気が付き、慌てて不自然に視線を逸らす事が増えた。
 よろしくない。これは大変よろしくない。
 うまく言えないし明確にどうというわけでもないがしかし、『このままではだめだ』ということだけはわかる。
 七星に会おう。菅生以外の人間と触れ合おう。
 そう決意して挑んだ飲み会であったが、それなりに楽しかったなぁという漠然とした気持ちしか得られなかった。車で七星を送るために酒は飲まなかったのだが、それがいけなかったのかもしれない。
 ご機嫌な七星を送り届け、ぼんやりと一人反省会をしながらもうすぐ家が見えるという頃合いになった時、灰慈の携帯が鳴った。
 画面に表示された菅生の名前に首を捻りながら通話ボタンを押した。そして冒頭のセリフが聞こえて来たわけだ。
『素面! まじか。ブラボー。サイコー。神様イケてるこれは普段のあたしの行いがいい証拠だわ。よし綾瀬弟、今すぐ引き取ってもらいたい荷物があるからうちの店に来てちょうだい』
「え、店……え? なん、ですか一体、あの、スガさんは……?」
『そのスガちゃんが飲みすぎてゲロってダウンしちまってんの。あたしよくよく考えたらこいつの自宅知らないんだよね。そういやお家で集まって鍋つつくような間柄じゃなかったなーってびっくりしているとこ』
「……スガさんが、飲みすぎて、ダウン?」
『ねー想像できないでしょーこいつわりとカッコつけだからね、そういう駄目なとこ、全力で隠すしね。きったない部屋はさらけだすくせにね。ってことで迎えにきてちょうだい。シュレディンガーって店わかる? 地図送る?』
「あ、知ってます。この前マッチ見たんで……住所、変わってなければ」
『やだ有能。それじゃあ、悪いけど頼んだ』
 結局名前も名乗らずに電話は切れた。
 訝しむべきかもしれないが、菅生の知り合いならばなんとなく仕方ないか、と思える。不思議な人は、不思議な人を引き寄せそうだ。
 もとより今日は遅くなる、と家族には伝えてあった。明日は学校は休みだし、母親の病院も予定もないはずだ。少しくらい帰宅が遅れても問題はないだろう。灰慈の睡眠時間が削れるだけだ。
 ギアを入れ直し、一応シュレディンガーの場所を検索して確認し、すぐに車で駆けつける。
 十分程で迷うこともなく辿り着いた店は、薄汚れたシャッターばかりの寂れた商店街の奥に、ひっそりと存在していた。
 車の音を聞きつけたのだろう。灰慈が車を寄せると同時に、重そうなドアが開き、背の高い女性が菅生を引きずって歩いてくる。
 にこりとも笑わない美人は、やはり自己紹介などする気はないらしい。それでも菅生を助手席に突っ込んだ後『悪いね、ありがとう、あとは頼んだよ』と何度も菅生の背中を叩いていたので、やはりいい人なのだろう。
 名前などよりも大切な事を彼女は全部言ってくれたので、灰慈は嫌な気持ちを抱くことはなかった。
 そういえば家でありがとう、と言われる事はない。感謝されていないわけではないのだろうけれど、いちいち言葉にしないのだろう。
 ここ最近その言葉を言ってくれるのは、いつも菅生だ。
 寝ているのか具合が悪いのか、いまいちわからないがとりあえずは生きているらしい。まずは一度安堵して、なるべくゆっくりと車を走らせ、菅生の住むアパートまで丁寧に運んだ。
 車を降りてどうにか菅生を助手席から引っ張り出し、半ば担ぐように階段を上がる。
 菅生のアパートの鍵を開けた時、灰慈もろとももつれるように転がり込んでしまった。
 菅生の方が、灰慈よりも幾分か背が高い。それでも彼は太っているわけではないしむしろ細い部類だし、酔いつぶれた七星を背負う時と同じようなものだと思っていた。
 実際の菅生は妙に重く、もしかしてこの人暇な時間とかに筋トレするタイプなのかな、などとどうでもいい事を考えてしまった。
「スガさーん……生きてます? つか、それ、どんだけ飲んだんですかー。チャンポンしたの? ワイン? 日本酒?」
 気合を入れ直し菅生を抱え直し、せめてベッドまで、と引き摺り始める。菅生はもう立つ気力もないらしく、時折唸るような声を上げる合間に小さく、灰慈のどうでもいい問いかけに律義に答えた。
「……ミモザ……」
「は? なに? ミモザ? ……なにそれ、カクテルです?」
「オレンジジュースとシャンパンのカクテル……………」
「……それ、もしかしてすごく弱くない? え、もしかしてスガさんてお酒駄目なの?」
 肩口からかすかに頷く声がする。
 意外すぎて菅生を落としそうになって、慌てて担ぎ直す。
 そういえば酒は飲まない、と言っていたような気がしないでもない。菅生はよく喋るし、無駄な話をたらたら垂れ流す。すべて真剣に聞いていては掃除が捗らないため、半分くらいは話を流していたようだ。
「お酒駄目なのになんでそんなに飲んじゃったんですか」
 酔っ払いにぶつける質問ではないかもしれない。それでも口から出てしまったのは、なんとなく酔いつぶれた菅生がイメージと違ったからだ。
 ちょっとだけ駄目な人だ、と思っていた。それでも誰かに迷惑をかけるような酔い方をする人だとは思っていなくて、不快だとか迷惑だとかよりも不思議だと思った。
 ベッドに仰向けに転がった菅生は、弱弱しく両手で顔を覆う。
 照れているのか恥じているのかと思った。しかしベッドの端に腰を下ろした灰慈は、そのどちらでもない事に気が付いた。
「…………スガさん、あの……泣いてる…………?」
「あー…………うん……だめなのよ、おれ、酒入ると……感情がねー……垂れ流しになんのー。あーーーーー……ごめんね、ほんと、きょうはね、ぴんくのぞうじゃどうにもならない日でね、だめなんだよ毎年、きょうだけはだめだ……」
 命日なの、と菅生は言った。誰の、と聞いてもいいものか灰慈が迷っていると、涙声で『兄のね、』と続く。
「自殺しやがった兄のねー……命日……」
 自殺。
 その重い言葉にどう返していいかわからず、灰慈はただ菅生が垂れ流す感情を聞くことしかできない。
「五年前に、手首切って死んだんだけど、第一発見者っていうか死んだ直後に見つけたのがおれで、赤い風呂から引きずり出したのもおれで、そんでそのあとちょっと記憶飛んでるけど葬式出して、あいつが経営してたソープ引き継いでさー……まあ、べつに、その辺はなんていうか、どうでもいいんだけど……あれが自殺したから、おれはね、普通の企業辞められたわけだし……」
「スガさん、サラリーマンだったんですか? 普通の?」
「うん。……似合わないでしょ。似合ってなかったと思うよー……浮いてたし、嫌だったし、でも親が勝手にその会社って決めちゃってて縁故採用されちゃったから、いやーまあ今思えばさっさと縁切ってね、勝手に生きたらよかったんだよねって思うけどねー……あんときは実家暮らしだったしなぁー…………」
「ご両親とは、不仲な感じなんですか」
「うん。嫌いだね。でも、兄はもっと嫌いだった。最低って言葉はあの男のためにあるようなもんだって、ずっと思ってたし、いまだって、そう思ってるよー……ごめんアヤちゃんティッシュどこだっけ……」
 一昨日発掘したサイドテーブルの上からティッシュボックスを取って渡すと、ありがとうと鼻声で応じた男はずびずびと鼻をかむ。
「っあー……あー…………あったまいってぇしぐわんぐわんするー……アヤちゃんまだいる? これもしかしておれの想像上のアヤちゃん? アヤちゃんインマイドリーム?」
「アリスインワンダーランドみたいに言うのやめてください。現実のオレですよちゃんと」
「そっかー現実のアヤちゃんかぁ……じゃあアヤちゃんお願いがあるんだけどおれの手握って、だめだほんと、いま一人だって思ったらノータイムでしんじゃいそう」
「怖い事言うのやめてほんと……」
 仕方ない、と自分に言い訳をして、灰慈はあおむけに天井を見つめる菅生の左手を握った。他人の手を握ったのはいつぶりだろう。地震におびえる寧音をとっさに抱きしめたときか、幽霊が怖くて寝れないと佑光に起こされたときか。
 年上の男の手を握ったのは、おそらくたぶん、初めてだ。
「なんか、その……オレ、ほんと普通の事しか言えないんですけど。大変でしたね、スガさん」
「んー……うん……大変、だったね、たぶん……なんか記憶ぼんやりっていうか、のっぺりしてるんだけどね……いろんな人に、可哀そうだねって同情されたけど、兄に詰られるより数百倍くらいはマシだったなぁー……。ねーアヤちゃん、おれねー……かわいそうってことば、優しいなって思うんだよね……。なんか、同情って嫌いだとか、上からだとか、そういうこと思う人、多いのかな、わっかんないけど、でもさ……死ねばいいのにって言われるより、ずっと優しい」
「スガさん、死ねばいいのにとか言われてたの?」
「どうだったかな。…………忘れたいことは、忘れるように心掛けてるからなぁ、ここ数年は……」
 菅生の話は断片的で、あまり頭がいいとは言えない灰慈にはうまくつなげる事ができない。わかった事と言えば親と不仲なことと、五年前の今日自殺した兄とも不仲だった事くらいだ。
 灰慈も実姉と仲がいい、とは言い難い。物心ついた頃には姉はすでに家にいなかった為、強烈に嫌うようなエピソードも思い浮かばないが、ただ迷惑な人だしかかわりあいたくないと思っていた。
 近所の人からは『せっかくいい高校に入ったのにクリーニング屋なんか継いでかわいそう』と言われている事を知っている。あまり気持ちのいい同情ではない。けれど確かに、その言葉には優しさも含まれているのだろう。
 かわいそうだな、と思った。兄の命日に飲めない酒を飲んで泣く菅生が、かわいそうだと思った。
 だから灰慈はぎゅっと手を握った。
 菅生の手は暖かい。酔っているせいかもしれないが、それでも生きているから温かいのだと思うと、灰慈まで泣きたくなってしまった。
「……あの、オレ、ほんっと頭よくなくて、その、こういう時なんて言ったらいいかとかわっかんないし、だからすんごい失礼な事言っちゃうかもしれないんですけど、でもなんていうか、……スガさんが生きてくれていて、良かったなって思ってます」
「……うふふ。へへ。……いいこだねぇ、アヤちゃんはぁー……きみのこと、お金ちらつかせて拘束してる駄目な大人なのにー……」
「いやお金貸してくれたいい大人じゃないっすか」
「でも、ほんとうは、姉の借金なんて知りませんってつっぱねても、よかったんだよ、きみは。……アヤちゃんはいいこだよね。おれなんかの家で家政婦するよりかわいい女の子と楽しく遊んだほうが有意義――あ、合コン? アヤちゃんもしかして今日合コン? え、もしかして彼女もちのアヤちゃんになってたりする?」
「なってませんって。そんな易々彼女できたら苦労しません」
「えー……易々できるでしょうに。好みがうるさいの? だってアヤちゃんはいいこで優しくて格好よくて掃除も洗濯も料理もクリーニングもできて車の運転もできてイケメンでオシャレでー……え、アヤちゃんの好みがうるさいの?」
「人聞きの悪い事言わないでくださいよ、好みはたぶんええと……ふつう……」
「ふつう」
「……いや、いざ聞かれると、ちょっと、きゅうには、出てこないっていうか……」
 嘘だ。灰慈は先ほども飲み会で好みを聞かれた。その時思案しながら答えた言葉を、しっかりと思い出せる。
 年上で、言葉が柔らかくて、人を不快にさせない配慮ができる人。掃除も洗濯もできなくていいけれど、できれば料理が好きな人。一緒にいて安心するような人。
 たどたどしく言い連ねる灰慈に、周りの友人や女の子たちは『縁側夫婦が理想なのか』『趣味がおじいちゃんみたい』と散々言いたい放題だった。
 しかし灰慈は明確に頭に浮かんだ人の顔を打ち消す事に精いっぱいで、揶揄われた言葉の数々を覚えていない。
 どう考えても菅生の事だった。いや男じゃん、と言い訳してみても、当の菅生自身が性別などどうにでもなると言い出しそうな人だ。女性的ではないのに、不思議と男性的でもない。夜の商売の人、というイメージもいけない。偏見だが、風俗関係の人は性別の壁が薄そうだ。
 居酒屋で酔っ払い相手に暴露できても、まさか本人を目の前に言えるわけもない。
 どうにか誤魔化そうとして、灰慈は菅生の手をぎゅっぎゅと握る。
「そういうスガさんはどうなんですか三十歳。いままでレンアイだってしてきたんでしょ三十歳。オレと違って、ほら、なんかこう経験豊富なんでしょ三十歳」
「やーめてー……サブリミナルみてーに三十越えを意識させてくるのやーめてー……」
「若造のオレはいいんですよ。スガさんの好みはどんな人なんですか。てかお嫁さんもらって掃除してもらったらいいんじゃないですかってこういう事言うと女性は掃除機じゃないとか言われそうだけど、できない部分を補ってもらうのはありでしょ?」
「んー……およめさんは無理かなぁー……」
「じゃあ恋人でいいですよ。どんな人が好きなんですか」
「あー…………えっと、うーん……年下でー……」
 意外だと思った。菅生は自立した女性が好きそう、と勝手に思っていた。なんとなく母性本能をくすぐるような菅生の性質のせいかもしれない。
 毎日夜の仕事をしていれば、若い女の子と一緒にいる事も多いだろう。感性が若いのかもなぁ、などと考えていた灰慈は、しかし続く言葉を聞くうちに後悔しはじめた。
「かわいくてーかっこうよくてー……掃除ができてー洗濯もできてー車の運転もできてーそんでクリーニングができちゃってー……しんどくて飲んだくれて愚痴とか吐いちゃうおれの手をねーぎゅって握ってくれる優しい子がねー好きだなー……」
「………………あの、それ、えーと」
「おれねー好きな子とね、美術館行ってねぇ、そんでねー美術館近くのカフェでね、珈琲飲みながらチーズケーキ食ってるのを眺めたいんだよねぇ……だからアヤちゃんおれと美術館行こう」
「え、あ、え?」
「だめ?」
「……だめ、じゃ、ない、けど、ちょっと、しばらくは、忙しい、かな、とか」
「そっかー忙しいなら、仕方ないよねー一日は、二十四時間って、決まっちゃってるもんねー……じゃあ、今度ね、また誘う」
「あ、はい、あの……そうしてください」
 訊かなきゃよかった、と後悔した。
 けれど一度耳に入ってしまった言葉は、なかったことにはできない。
 頭が良くない自覚がある灰慈にも、今の言葉の文脈は流石にわかる。つまりはそういうこと? と確認する勇気などは勿論なく、ただつないだ手を離すタイミングをすっかり逃してしまった事に焦った。
 別に、嫌だとは思わない。
 それよりもいやに心臓が煩い事の方がまずい、という自覚はあった。




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