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09



 携帯を耳にあてたまま、がさごそと洗面台横の紙袋を漁る。
 通話相手のヨジの方からも、ガタゴト物音が響いていた。
『てゆーか落としたんじゃないの? どっかで』
「ええ……落とさないでしょ腕時計なんてさ……そんなスルッと抜け落ちるもんじゃないし、皮が切れたわけでもあるまいし、てかおれそんな頻繁に時計外したりしないし……」
『そらあ、スガちゃんは個室に入ってアワアワする人じゃないんだしね、装飾品外すタイミングなんてそれこそ家とか外泊先じゃないの? 酔っ払って居酒屋でいきなり腕時計外す男が目の前にいたらあたしだって覚えてるでしょそれ。家じゃなくて職場じゃないならホテルとかじゃないの?』
「泊ってねーっつの。家以外で寝てねーっつの」
『じゃあ知らんっつの。ゴミに混ざって捨てちゃったんじゃない?』
「ええー……でもウチ最近そこそこ綺麗よ?」
『ああ、綾瀬弟ちゃんをお金でこき使ってるから……』
「バイトで雇ってるだけです人聞きの悪い言い方しないのーいま本人居るんだから」
『あー。クリーニングやさんって、木曜定休多いっけね。平日の真昼間からかわいい子といちゃついてるわけだ』
「違うって言ってるでしょ」
 何がどう違うのか、あえて口には出さなかったが、一応人として否定しておく。電話向こうの女はくすくすと笑うばかりで、菅生の言葉などはなから聞いていないようでもあった。
 菅生の腕時計が見当たらない事に気が付いたのは、一昨日の夜だった。
 出勤前に当たり前のように腕に巻こうとして、いつも引っかけているキーホルダー掛けにかかっていない事に気が付いた。
 整理整頓が苦手な自覚がある為、普段頻繁に使うものは特に無くさないように、固定の場所に置いておくように習慣づけていた。財布、家の鍵、腕時計はいくら部屋が汚くても床に足の踏み場が無くても、無くした事はない。
 時計を探して遅刻するわけにもいかない。火曜は腕時計をしないまま出勤し、翌水曜も携帯の時計を頼りに過ごした。月曜は休日だったため、腕時計がいつからなかったのかはっきりしない。
 先週末、菅生は成り行きで綾瀬一家を自宅に招いた。その際に適当に片づけた荷物の中に紛れ込んだのかもしれないが、主に部屋を片付けている綾瀬が『腕時計をどこかに放り込んだ記憶はないです』と主張している。となると、うっかり自分がどこかに放り投げたとしか思えない。
『つーか先週も手帳消えたとか言ってなかった? やっぱゴミ捨てるついでに捨てちゃってんじゃないの、紛れ込んだりしててさ。腕時計は盗難とかあるかもだけど、スガちゃんのろくに使ってないアナログな手帳なんてわざわざ盗む泥棒もいないっしょ』
「失礼だねと言いたいところだけど同意するなぁ……でもあれ、小説の既読チェック作ってたからなぁ、どこまで買ってどこまで読んだか、わっかんなくて不便なんだよねぇ……でも本は捨てないし手帳も捨てないと思うんだけど」
『いままでゴミ屋敷構築してきた報いだっての。家の神様だか幽霊だかが怒ってんだよ。てわけであたしこれからアワアワの方に出勤しないといけないから、スガちゃんじゃあね、時計買いにいくならあたしも新しいの欲しいから付き合うよ。ま、お邪魔だったら別にいいけど』
 別れの挨拶もなしに、通話はぷつんと切れる。静かになった携帯をしばし見つめ、察しのいい人はほんとこわいな、と苦笑した。
 週明けからの菅生は、特に何かが変わったわけでもなく、ごくいつも通りの日常を過ごした。……過ごすように、心掛けた。
 おそらく普段会話を交わす人間の中で、菅生の微妙な変化に気が付いたのはヨジだけだろう。
 ハッピー! って叫びたいのを必死に我慢してるかんじ。
 ずばりそう言われて、あまりにも的確すぎてうまく言葉が返せなかった。全く持ってその通りで、菅生は端的に、わかりやすく、単純に浮かれていた。
 菅生はたぶん綾瀬の事が好きだ。この期に及んでたぶん、と付け加える自分が情けなくもなるが、相変わらずどうでもいいような悩みや言い訳が頭の中を占領している。たぶん、という言葉付きでも『好きだ』と認められただけでもとんでもない進歩だ。
 恋だなんて久しぶりだ。誰かを好きになりかけても、大概は何もする前に諦めて『どうせ一人で生きていくんだし』と勝手に納得して、恋だと認めることもしなかった。昔から、諦めることは得意だ。手を伸ばして心が折れるくらいなら、最初から諦めていた方が楽だと思っていた。
 転がり落ちるような運命的な恋ではない。
 それでも、綾瀬灰慈という青年のすべてがかわいいし、好ましいし、隣にいてくれたらいいよなぁ、と思う。大切にしたい。大切にされたい。そう思うから恐らくこれは、恋なのだろう。……たぶん。
 意気地のない自分は、綾瀬にきちんと告白する事もできなかった。
 酔っ払って思いのたけをだらだらと吐露したらしい、と知った時は本当に穴があったら入りたいとはこういう気持ちかと天井を仰いだ。覚悟もなく、勇気もなく、酒の勢いだけで本心を垂れ流すだなんて信じられない。
 しかし綾瀬は、気持ち悪いとも、嫌だとも言わなかった。
 単に友人として好いてくれているからかもしれない。宿主でありバイトの雇い主であり金を借りている男を、うまく拒否できなかったのかもしれない。
 常に保身に走る傾向があり、なんでもかんでもまずは言い訳をしてしまうのは菅生の悪い癖だ。
 日曜深夜のソファーの上で、菅生は酔っ払った己がやらかした事を知った。自分の心が折れないようにとあれこれ可能性を絞り出すことに必死で、ほとんどまともな会話ができていなかったように思う。
 それなのに綾瀬は寒いからと明らかな言い訳を口にして、菅生をソファーから引きずり下ろした。
 別に、キスをしたわけでも、愛を囁きあったわけでもない。
 ただ抱きしめるように眠っただけだ。……菅生は結局ほとんど眠れず、翌日綾瀬と子供たちを送り出してから倒れるように眠ったのだが。とにかく、ここ数年であんなに幸せだと思ったことはない、と思う。
 綾瀬は自分の事をどう思っているのか、そんな事はどうでもよかった。とりあえずは嫌われてはいないし、綾瀬が好意を弄ぶような人物ではない事も知っている。
 キスをしたわけでもない。愛を囁きあったわけでもない。
 それでもあの日から菅生と綾瀬の関係は、何とも言い難い、痒いような甘いような柔らかいようなものに変わった。
「……やっぱシュレディンガーにもなかったです?」
 電話が切れたタイミングを見計らって、リビングから綾瀬が顔を覗かせる。タイミングを見計らうという行為は、できない人間にはできない、ということを嫌という程知っているから、やっぱりアヤちゃんは気が利く子だなぁと些細なことでまた好感度を上げる。このところ、綾瀬の良いところしか目につかない。完全に恋は盲目の状態に突入している自覚はうっすらとある。
「見た感じないってさ」
「うーん車の中にもなかったし、つかスガさんが腕時計してたかどうかもちょっと覚えてないんですよね……あの黒いベルトのちょっと高そうなやつでしょ?」
「お値段はそれほどでもないよ。見た目それっぽいだけで高級ブランドのなんとかって名前ついた時計でもないし。安かなかったけど。ヨジさんにはもう買えばいいじゃんって言われちゃった」
「あー……あのシュレディンガーの人ですよね、それ。言いそう。めっちゃ言いそう」
「まーねー……誰かの形見とか遺品とかでもないし、ふらっと適当に入った店で気に入って買っただけだから……」
「え、じゃあ余計に勿体ないじゃないですか。偶然見つけて気に入ったものって、なんかそれだけで大事じゃないです? もうそうやって見つけることってできないかもしれないし。なんとなくビビッときて買っちゃったやつって、代用きかないじゃないですか」
「……あー……そう、ね。うん。確かに、そうだな……あ。アヤちゃん髪、ほこりついてる」
「え、うそ、取ってくださいどこ」
 何気ない動作で綾瀬の頭についた綿ほこりを払ったつもりが、なんとなく二人であわあわと赤面してしまう。とにかく週明けから万事この調子で、疲れるような楽しいような、何とも言い難い気持ちを持て余していた。
 菅生の手の動きを目で追っていた綾瀬が、慌てたように視線を逸らす。少し赤らんだ耳は菅生の幻覚だろうか。確かめたい気持ちはあるのに、胸がいっぱいで言葉がうまく出てこない。
 そのうちに綾瀬が話題と空気を変えるように、慌てて言葉を紡ぐ。
「てかさっきちょっとスガさんの声聞こえちゃってましたけど、手帳もないんですか?」
「んー……うん。てか、そういや最近、あれもこれもどこ行ったんだろうなみたいな、物がなくなることが多いような気がするんだよな」
 今まで菅生の部屋は物置と大差ない荒れ果てた場所だった。いらないものもいるものも、すべからく積み重ねられ、とりあえず段ボール箱や紙袋につっこんだりしたものの、それ自体をつっこむ場所もなくただひたすら物があふれていく。
 菅生さん袋とか箱に上からもの突っ込むのやめてください、どうせ下の方になに入ってるか忘れてそのままになっちゃうんだから。綾瀬にそう言われて『あ、ほんとだ、確かにそうだ』と納得して呆れられたのは最近の話だ。
 とにかく物が多い。そんな場所だったから、例えばその中で本が一冊消えても、書類のファイルが一冊消えても、おそらく自分は気が付かなかっただろう。
 まだクローゼットと押し入れの整理ができていないから、と綾瀬は相変わらずバイトを続行してくれているが、『部屋を掃除する』という目標はとうに達成されていた。
 今までもうっかり物を無くしていたのかもしれない。ただ、今現在菅生の部屋は見違えるように整理整頓され、無駄なものが床に転がっている事はない。必要なものがあるべき場所にきちんと収まっている部屋では、紛失物にすぐに気が付くことができる。
「……年かなぁ。なんか、そういや最近『あれなんだっけさっきまで覚えてたのに』みたいなこと、多いんだよね……」
 腕時計探しに疲れ、カバーを敷き直したソファーにもたれる。いままで洗濯ものの山を支えるだけだったソファーも、最近はきちんと本来の役目をこなせていた。
「そんなんオレもありますよ。年っていうか、人間そんなもんですってば。寧音だって『さっきまで覚えてたのに何言おうとしたのか忘れた』とか言いますよ」
「えーほんと? ネネちゃんが言うなら世界人類みんなに起こりうる現象かなって思えて来た。そういやネネちゃんに貸すねって約束した本もなんか見当たらないなー」
「……あの、それ、もしかしてうちのガキどもがどっかに、勝手に持ち出してたりとか、そういう可能性は、」
「いや、ないない。おれの家からモノを持ってく必要がないし、そもそもそういう『アヤちゃんに怒られそうな悪事』は絶対やらないでしょ綾瀬家の子供たちは。なんかすごくびっくりするくらいちゃんとしてるし。アヤちゃんも含めてね。……きみたちは、そんなことしない」
「…………そんな、頭ごなしに信じちゃっていいんですか」
「うん。てかアヤちゃんはネネちゃんとかユウくんがおれの私物盗んだって思ってるの?」
「あー……寧音は、絶対にないです。ユウは、ちょっとなぁ、やんちゃがすぎるとこ、なくはないけど……でも、馬鹿して皿割ったりはするけど、そういうの隠してどうにかしようとか、誤魔化そうとかするタイプじゃないし。……やってない、と思います」
「おれもやってないと思うよ。それにおれ、アヤちゃんを信じてるもの。だからアヤちゃんが信じるものを信じるよ。そら人間見えてるものがすべてじゃないし、いろいろ事情もあったりなんだりするし、おれだって世界人類全員信じてますって程キラキラはしてないけどね。身近な人の言動くらいは、きちんと把握しているつもりですからね」
 さて本当になぜこんなにも物がなくなるのだろう。と、相変わらず首を傾げる菅生の隣に腰を下ろした綾瀬は、妙に感極まった視線を寄越していたが、指先が痒くなりそうだったので気が付かないふりをする。
 すこし気障だったかなぁという自覚はあった。それでも本心だったので、言いすぎたとかフォローしなおそうとかは思わない。
 菅生は綾瀬という人間を好ましいと思う以前に、人として信頼している。
「……空き巣が入ってる感じ、でもないんですよね?」
「んー。うーん……うん……。別にピッキングされた感じもないし、台所の小窓は相変わらず鍵かかんないけど、外から梯子かけて入ってこようとする奴がいたら、流石に気が付くでしょ。台所側は一応通りに面してるし、交通量はゼロじゃないし。他の窓破られた感じもしないし……」
「じゃあ、合い鍵とか? ……前に付き合ってた人、とか」
「あー。あー……!」
 急に大声を出してしまった菅生を、綾瀬は驚いたように見つめる。盲点だった。確かに、五年前まで付き合っていた男は、このアパートを知っている筈だった。
「あるかもしんない、それ、いやおれの私物盗むかどうかは置いといて、そういや鍵回収はしたけど鍵自体は変えてないし、合い鍵作ってたらうちの扉は開いちゃうわ。いやーすっかり忘れてた。そういやそんなやつもいた……アヤちゃん、どしたの?」
「――……え。え、いや。……その人、いつ頃付き合ってたんですか?」
「ん? んーと、七年前から五年前、くらい? たぶん兄貴が死んだときにおれがなんかこう精神的にアレすぎて別れたような記憶がうすらぼんやりとあるけど、そもそもおれそんなに精神安定してたやつじゃなかったから兄とか店とかあんま関係ないかも。風俗やるっていったら喧嘩したんだったか、どうだったか」
「おとこのひと、ですよね? ……どんな人?」
「え、アヤちゃん気になるの?」
 なんで? と馬鹿正直に疑問に思ってから、みるみる赤くなる綾瀬の顔を直視してしまい、一瞬で後悔した。
 しまった。間違えた。返答を完全に間違えた。
 なんでもクソもない。勇気が出ないとか言っている場合ではない。今が、完全に綾瀬の手を握るタイミングだったことに気が付くのが遅れた。
 気まずそうに視線を逸らす綾瀬の手を、完全に勢いだけで握る。捕まえる、と言ったほうが正しいかもしれない。
「――アヤちゃん、今日……は、駄目だ今晩おれ仕事だえーと明日。明日の夜、暇? 出てこれる?」
「え、はい、夜は、あいてます、けど……てか、明日の夕方から、うちの一家オレ以外隣の市の叔母んとこに泊まりに行くから、えーと……いつにもまして、堂々と暇、です」
「え、アヤちゃん一人になんの? あのビンタ女はもう大丈夫なの?」
「そのビンタ女の件、うちのオカンがめっちゃ心配してて、子供たちは絶対守るみたいな気合入ってるみたいで、そんで避難って感じなんですよ。オレは成人男子だし仕事あるし最悪友達んとこ泊ればいっかなーって感じなんで留守番っていうか……」
「じゃあご飯食べに行こう」
「……ごはん」
「うん、ごはん。食べに。お店にいこう」
 テンパりすぎて、まったくスマートではない誘い文句だった。
 何が食べたい? だとか、どの辺の店によく行く? だとか、そういう気の利いた言葉は全く思い浮かばなかった。
 ただ手を握って『ご飯に行こう』を三回くらい繰り返してしまった。全く持って、恥ずかしい大人だ。格好よくもないし、手慣れてもいない。
 それでも綾瀬は壊れた人形のようにこくこくと首を縦に振ってくれた。
 その後の会話はなんとなくお互い上の空で、夕飯を作るからという綾瀬を見送り五分ほどソファーの上で呆然としてから、じわじわと熱があがりはじめて最終的には両手で顔を覆ってしまった。
「……やっちゃったー……うーわー…………」
 デートに誘ってしまった。誰がどう見てもデートだ。普通の男同士なら暇なら飯にでも行こう、という軽い誘いでしかない。しかし菅生と綾瀬の間で、最早その軽さは通用しないだろう。
 言ってしまった言葉は取り返せない。やってしまったのだから仕方がない。テンションだけで握った手の熱さを思い出すとまたうわーとしてしまいそうになるがしかし、いつまでも一人でパニックしているわけにはいかない。腕時計も手帳もないが出勤しなくてはいけないし、明日着ていく服を考えなくてはいけない。
 いつものシャツでいいとは思うが、どうせなら少し気を使った服装の方がいいんじゃないだろうか。
 パリッと決めすぎてもダサいかもしれない。いっそカジュアルなニットでもいいが、いつものようにどこに仕舞ったのかわからない。デートに着ていく服を、まさかデート相手に選ばせるわけにもいかないし、あの服どこに仕舞ったっけ? などと訊くのもどうかと思う。
 普段は開けないクローゼットの中に、普段は着ないカジュアルな服が詰め込んであった、ような気がする。菅生はほとんどスラックスかチノパンとシャツで過ごしているので、外出用の服をわざわざ選ぶことが少ない。ほとんど同じシャツのローテーションで生きているせいで、クローゼットはほぼ開けることがなかった。
 綾瀬もまだ手を付けていない魔窟だ。防虫剤は山ほど突っ込んであるので、虫がわらわらと出てくる、というようなことはない……と信じたい。
 若干祈るような気持ちを込めて、そして相当浮かれた感情を隠せないまま、菅生はクローゼットを開けた。
 そして、クローゼットの中のソレと――目が合った。



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