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08:Savior



 足が痛い。腰が重い。腕が疲れた。こんな荷物なんか持っているからだ。でも私は、これをいまここで放り投げて逃げることはできない。まださようならと手を合わせていない。
 私を孤独から救ってくれた親友は、私の願い事をたくさん叶えてくれた。だから今度は私が彼の願い事を叶える番だ。そう言った時にスノは珍しく笑ったような気がしたし、泣いたような気がした。結局彼が口にした『お願い事』を聞いて、私も笑ったし泣いてしまった。
 私の親友は、いつだって世界に絶望していて、それなのに優しくて嫌になる。
 足が痛い。本当ならば計画は明日の朝実行される筈だった。それなのに邪魔が入ったから、前倒しになった。こんな風に走る事になるのなら、トランクにキャスターを付けておくべきだった。重い。痛い。けれど、私は走らなければならない。
 スノの為に、走って、そして助けを呼ばなければならない。私達はまだ、やるべき事を終えられていない。
 私の後ろからは何か固いものが道路の上を駆ける音が聞こえる。硬くて、軽い、その軽快で恐ろしい音は小動物――たぶんネズミの足音だ。
 なんでネズミが? とか、これCOVERの拡張現実じゃないよね? とか、そんなことを考えている時間も余裕もない。
 ただ私は走りながら、重さと痛みに耐えながら、必死でPALの検索結果を待った。
 お願い早くしてお願い早くしてなんであの時私は読み取りもせずにゴミ箱に入れてしまったんだろう。でもあんなの信じろと言う方が難しい。いきなり現れて、信じろだなんて。いきなり現れて、キミたちの助けになりたいだなんて。今まで急に手を差し伸べてきて結局放り出した大人達と同じ言葉だったんだから。
 助けて、なんて叫んでも、誰も助けてくれなかった。だから助けてと叫ぶ事を止めた。私とスノなら、大人の助けなんかなくてもうまくやれる。そう思った。そう思っていた。私は馬鹿だ。そしてスノもたぶん世界から見たら世間知らずの馬鹿なんだ。私は馬鹿な十九歳だし、スノは眠っていた時間を除けば十七年くらいしか生きていない。充分子供だ。馬鹿な子供だ。
 PALが無言で私に通知音を鳴らす。最速の設定にしているから無駄な言葉を挟んできたりはしない。目の前に、私が血眼で探していたあの男の連絡先が羅列された。
「繋いで!」
 喋ると舌を噛みそうだし息が乱れて苦しい。でも私はスノみたいにキーボードの打ち込みは速くない。声に出してPALに命令するしかない。
 キイ、と後ろから声がする。生きているネズミが何故か追いかけてくる。一匹ならどうにかなるだろうに、それは嫌になるほどの大群に見える。わからない。もしかしたら半分くらいは拡張現実なのかもしれない。さっきより格段に数が多くなっているし、私はいつの間にか赤いブーツで走っている。
『止まってくださいバンドウギンカ。私達は、貴方とスノハラランの協力を求めています』
 耳に直接叩き込まれてくる声は無視をする。私が求めている声ではないからだ。意図的に設定された柔らかい声のプログラムだ。私はこの声が嫌いだ。カウンセリングのプログラムの声と似ているから。
 夜の工業地帯を抜けて、大通りに出た。まだ営業中のファーストフードやディスカウントショップのCOVERが安定した拡張現実を提供してくる。やっぱりネズミは増えている。その上他の人間が見えない。――リアルタイムで密室の壁が出来ている。やばい。目の前に、すとんと壁が降ってくる。アバターの機能を切ってしまえばそんな壁なんて存在しないのに、私はつい驚いて足を止めてしまった。まずい。まずい。追いつかれる。
 息を止めてトランクを担ぎ直してアバター機能を切る、寸前の事だった。
「走って!」
 声が届いた。私の耳に。電子音ではなく、音声メッセでもなく、リアルな音が。
 その瞬間私の横を通り抜ける人がいた。
 風みたいに、電車みたいに高速で通り抜けたその人は『ネズミたち』の前で急に立ち止まり両手で抱えていた棒のようなものを振り回し目の前のプログラムを一掃する。
 モップだ。彼女は、モップを振りかざして敵を薙ぎ払っている。
 そう認識した時にその後ろ姿に酷く見覚えがある事に気が付いた。彼女は叫ぶ、聞き覚えのある電子の少女の声で。
「先輩やっぱリアル混ざってる! こぼれだま始末ヨロ!」
 鮫だ。アバターネーム・SHARK。通称『鮫』と呼ばれる、格闘ゲームBBのバケモノプレイヤー。
 なんで鮫がこんなところに、とは思わない。私は一瞬で理解する。鮫は、あの男の仲間なのだ。次いで私の隣を走り抜ける人は、私がよく知る姿をしていた。
 キャスケットを目深にかぶった、少しダボ付いたシャツの、男性。
 ――来てくれた。
 来てくれた。
 マエヤマさんが、来てくれたよ、スノ。
「こぼれだまって量じゃないんだけど、これ何、生体ドローンかよ嘘でしょほんと! ギンカちゃん走って! あと百メートルでいい!」
 トランクを抱きしめたまま腰を抜かしかけていた私は、彼の叱咤で息を思い出す。吸う。トランクを抱え直す。アバターを切って走り出す。目の前の電子の壁は消える。
「ちょ、マキセ、何か居る上にも何か居る、あれARじゃなくないかリアルだよな、なんだあれ!」
「生体ドローンじゃないっすかねやっぱり。わお初めて見たーすげーあれってどの法律違反っすか? 軍事違反とかになるんでないの? マジで? そんなに? そんなに欲しいのスノハララン!」
 鮫が叫びながらモップを振り回す、音がする。キイキイと耳に煩い鳴き声の狭間に何かが潰れるような音が混ざる。マエヤマさんがどうやってあのネズミと戦っているのか、正直見たくない。
 私は走りながら、鮫の言葉を考えた。
 そんなに欲しいの、スノハララン。やっぱり、あいつらはスノを狙っている。絶対に渡さない。スノは私が助ける。だから私はマエヤマさんを呼んだ。マエヤマさんに、助けて、と叫んだ。
 私は馬鹿で子供だから、スノを守るには大人の力が必要なのだ。
 頭上で嫌な鳴き声がする。私のPALが、蝙蝠の鳴き声だと解析した。最悪だ。絶滅危惧種に追いかけられるなんて、冗談にしても笑えなさすぎる。
 あと十メートル。
 マエヤマさんは、百メートル走れと言った。その先に何があるのか知らない。深夜の街中に助けてくれるスーパーマンが待ち構えているのかどうか、私は知らない。それでも走る。全力で走る。
「ストップ!」
 声と共に、バシッと何かを叩くような音が響く。二回、三回。そして私は言われた通り百メートルを走り切って身体から力を抜く。
 全力疾走していた私は急には止まれない。勢いづけて数メートル走りかけた私は、背の高い何かにぶつかって抱き留められた。
 知らない男性だ。切りそろえられたおかっぱ頭と、鮫と同じギザギザの歯が特徴的な、知らない人。彼は手にした電気拳銃を頭上に向けて、バシバシ放つ。その度に、黒くて小さい獣が舗装された道路に痙攣しながら落ちた。
「…………絶滅危惧種……」
「どうせ人工増殖のまがい物っしょ。つか人命救助優先、ノープロノープロ。っはー良かった間に合ったァ! いやー久しぶりにリアルで走ったわ。コードぶち込みながらフルアバター動かして走るとかやるもんじゃねえな脳みそ死ぬかと思ったつか今吐きそ。おえっ」
「吐くなら終わってからにしてマキセ。あとギンカちゃん離してからにしてかわいそうだから」
「えー流石にギンカたんのかわいいお顔には吐きませんよ。先輩ネズ公全部始末したんすか。ほんとっすか。っあーわりとマジでぐらんぐらんするーでも間に合って、良かった、マジで」
「ああ、うん。本当に。ええとそういうわけでギンカちゃん」
 助けに来たよ、と大人は言った。
 助けて、なんて叫んでも誰も助けてくれなかった。でも、マエヤマさんは助けに来てくれた。
 マキセと呼ばれた鮫歯の男の人は――おそらくこの人が鮫の中の人なんだろうけど――トランクを抱きしめて泣く私の背中を思いもよらず優しい手つきで軽く叩いてくれた。
 それからハッとしたように声色を変える。
「……つかギンカたん、つかぬことをお伺いするけどそのトランクの中は……ええと、まさか、人が、入っていたりとか、しないよね?」
 私は顔をあげる。鮫歯の人が、ちょっとだけ後ろに引いたのがわかった。……私があまりにも、無表情だったからだろう。だって感情の決着なんて、とうの昔についている。
「人は入っていない。だって戸籍なんかもうとっくの昔にない。だから、この中に入っているのは肉塊だ。――そんなことより、スノ……スノを、助けなきゃ……っ」
「え。待て待て少女、今なんて? スノっちって、え?」
「スノがまだ、病院に居る!」
「……え?」
 私の言葉に、二人が固まる。この人たちが何をどこまで把握しているのか、私が何をどこまで理解しているのかわからない。だから知っている事を全て話すつもりで、私はまずスノを助けてと縋った。
 外で助けを呼んで来いと言ったスノはまだ、一人、あのセキュリティだけは頑丈な病室に残っている。病院内のCOVERが何故か電波妨害にあったかのようにクローズ状態になっていたからだ。
 病院には、遺族しか入れない。セキュリティは腹が立つほど万全だ。
 でも病院のセキュリティが弾くのは、不審な『人間』だけだ。もし、配管からネズミが侵入してきたら。スノは、自力で動けない。自力で逃げられない。ネズミ一匹でも、スノの呼吸を止めてしまえる。
「スノくんは……えっと、そのトランクの中、じゃ、ないんだね?」
 恐る恐る確かめるようにマエヤマさんが私のトランクを指さす。私は馬鹿馬鹿しくなって笑って、本当に悲しくなって泣いた。そんな事するわけないだろう馬鹿じゃないのか。スノを、私の何だと思っているんだ。
「親友を、トランクに詰め込んで、全力疾走するわけないだろ馬鹿かよ死んじゃうじゃん!」
 私は叫んだ。至極真っ当な事を泣き叫んだ。
 けれど大人二人は何故か、すごくほっとしたように泣きそうな顔で笑った。