×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -




09:Repentance



 スノの願いを叶えよう、と言われた時、僕は別にそんな事はどうでもいいと割と本気で思っていたし、割と本気でそう言ったのにギンカは三日間口をきいてくれなかったから、じゃあキミと同じものを食べたいと言った。
 その日から、僕が食事をする為の計画は始まった。
 僕には胃腸がない。気が付いたときにはもうなかったから、悲しいとか辛いとか思う事もなかった。現代の医学はとにかく人を生かしておくことに関しては優秀だ。どんなに臓器が無くなっても、僕の心臓と肺と脳みそは滞りなく動いたし、必要な機能は機械が勝手に補ってくれる。
 僕の身体はほとんど毎日寝たきりで、目に見える風景と言えば天井だけだ。それでもどうにか指先は動かせたから、ギンカとの会話にも支障はなかった。
 僕達はフルアバターに目をつけた。通常のファッションアバターは僕自身が動けなれば意味がない。あれは四肢につけたアバター用の読み取り端末が、身体の動きに合わせてプログラムを被せているだけだ。
 でもフルアバターは違う。完全にプログラムだけで動く、人とは別の物。着ぐるみじゃなくて、綿の代わりにぎっしりとプログラムが書き込まれたぬいぐるみだ。
 フルアバターを入手する。これは盗難するしかない。COVER内ではフルアバターを構築してもそれを動かす為のコードが走らないようになっている。稼働可能なフルアバターは、セキュリティガードが所有するものだけだ。
 どんな管理をしているのか、アンダーグラウンドなオークションマーケットには時折、セキュリティガードのフルアバターが並んでいた。もう持ち主が誰かもわからないフルアバターもあった。
 盗難されたばかりのものは足がつきやすいと言われたけれど、僕はマエヤマさんのアバターを選んで購入した。理由は知っての通りだ。僕はマエヤマさんに一目惚れしたから。
 それからの作業はとても楽しかった。
 僕はマエヤマさんのフルアバターを自由に動かせるように同期した。彼のアバターはとても使いやすかった。たぶん余計なカスタマイズがされていなかったからだと思う。
 そして僕は僕の身体に埋め込まれたままのVR感覚チップと、COVERを繋いだ。勿論、この二つに相互性なんかない。別のメーカーが作った別のハードとソフトだ。それにVRの感覚チップの方は大本のコードの書き方なんかもわからないから、本当に無理矢理力業で同期した。
 ギンカはずっと不安がっていた。僕が余計な事をして感覚チップがまたバグを吐いて脳死に逆戻りするんじゃないかって心配していた。
 正直、ありえない話じゃなかったけど。僕は別に今死んでもどうでもいいと思っていたから、大丈夫と嘘を吐きながら作業を続けた。
 僕はいつ死んでも特に問題はなかったけど、ギンカの前でそんな事は言わない。それに僕が世界に絶望しているなんて当たり前のことすぎて、今さら早急に殺してほしいなんて思わない。
 ……マエヤマさんにも出会ったし。
 こっちが勝手に見つけて勝手にストーカーをしているだけだという自覚はあるけれど、やっぱり僕は彼の存在に浮かれていた。一生出会う事が無くても、恨まれているかもしれなくても、それでも僕は毎日楽しかった。
 味覚を感じるためのプログラムは案外さっさと構築できた。あとは味覚をスキャンして分解して数値にするプログラムを作って、ギンカのアバターにつっこむ。そうするとギンカが口にしたものを勝手にアバターが解析して味を数値にしてくれる。後はその数値のファイルをデータ上の食品に置き換えるテンプレートにぶち込むだけだ。
 こうして、僕はギンカが口にした本物の食品を、味付きの食品データとして再構築し、食べる事に成功した。
 まあ、実際の食事の味とはちょっと違うのかもしれない。なるべくギンカの脳波も参考に甘いとか辛いとかの感覚も取り入れてみたけれど、所詮は素人の遊びだ。
 それでも久方ぶりに口にしたキャンディは甘かったし、ギンカおススメの激辛ホットドックは本当に馬鹿みたいに辛くてうっかり吐き出してしまった。
 楽しかった。とても楽しかった。僕は親友と一緒に賑やかな街を歩き、好きな人の顔でそこら中の鏡を覗いた。拡張現実用の鏡は正しく僕とギンカを映し出す。カラフルで背の高いやせぎすの少女と、線の細いキャスケットの男性を描く。本当はそこに映るべきなのは暗い表情をした青年一人きりだとしても、明るい虚像は僕達を幸福にした。
 C25の虚構の美しさは僕達を確かに幸福にしたのだ。
 ひとしきり街を楽しんだ最初の日、ギンカは他にないのかと僕に詰め寄った。他に、やりたいことはないのか。せっかくフルアバターが手に入ったのだから、もっともっとスノのやりたいことをしよう。
 そう言ったギンカに僕は、ギンカがやりたくて、でも今までできなかった事をしようと提案した。一人だったらギンカは出来ない。一人で出来る事なのに、ギンカは隣で僕が手を握っていてあげないと立てなくなるからだ。
 でも、二人ならきっとできる。そう思った僕は、ギンカの両親を殺す事を提案した。
 ギンカはずっと、両親を殺したがっていた。
 目を覚まさない肉塊。唯一の肉親で、けれど自分をデザインして世界に産み落とした人たち。大好きで大嫌いな彼女の肉親。
 ギンカは自分が女になりたいと思った時に、素直に両親に打ち明けた、らしい。そしてそれから彼女を待っていたのはカウンセリングという名の拷問の日々だった。拷問から解放された時、ギンカは両親をVR被害で失った。彼女には大量の慰謝料と保険金が舞い込んだ。保護者名義に名前を貸してくれた人は放任主義だったけれど、それでもギンカは義務教育をどうにかこなした。まあ、高校の後半は僕が無理やり行かせたようなものだけれど。
 デザイナーズチルドレンは人よりも目に見えて優秀だ。だから、どう頑張っても浮くし、大体はいじめられる。十二歳までしか普通の生活をしてこなかった僕だって、人生十二年で十分な程いじめの対象になった。
 僕は昔から感情のふり幅が少なかったからあんまりいじめは長引かなかったけれど、ギンカはよく泣くからずっといじめられ続けた。
 すべての責任が彼女の両親にあるわけではない。それは僕も、ギンカもわかっている。何度も憎しみから殺そうと思ったというギンカは、早く目覚めて絶望すればいいのにと言っていた。僕達があまり仲の良くなかった頃の話だ。
 早く絶望すればいいのに。自分の臓器がもう存在してなくて、それは誰かを生かす為に勝手に使われていて、そして毎日ただ生きる事しかできない。空っぽの身体を見ながら絶望すればいいのに。
 そう笑う彼女はやっぱり精神的におかしくなっていたんだろうと思うし、僕と彼女が親友になってからはそんな事は口にしなくなった。僕に悪いと思っての事だろうけど、でもどうやら彼女の内心にも少し変化があったらしい。
 静かな冬の日に、ギンカは可哀そうだな、と零した。
 ただ寝てるの、かわいそう。誰か、息を止めてあげたら、きっと楽なのに。
 ……僕もそう思う。僕もそう思うから、ギンカが楽になるために、彼女の両親をトランクに詰めてお墓に埋めようと提案した。
 ギンカは笑った。馬鹿じゃないのと笑った。そしてその次に、ありがとうと叫んで泣いた。
 フルアバターはリアルのモノに干渉できない。だからトランクを買うのも、トランクに詰め込むのも、トランクを運ぶのも全部ギンカの仕事になる。それでも僕はギンカと一緒に、手を合わせてさようならを言える。穴を掘るギンカの隣で一緒に泣く事ができる。
 そう思ったから、二人でやろうと決めた。
 幸いな事にドナー被害者は死んだことになっている。今更呼吸を止めようが、死んでいる人間に殺人罪は適用されない。せいぜい器物破損じゃないかと思う。……ドナー被害者を殺したって話は聞かないからわからないけど。そもそもドナー被害者関連のニュースは厳重に規制されているみたいだから。
 ギンカが罪に問われないなら、問題ない。後は決行するだけだ。
 決行日は明日に決めた。本当はもう少し先にするつもりだったが、マエヤマさんに見つかってしまったので仕方ない。僕はギンカの両親を土の下に埋めて、ギンカと一緒に死ねと叫ばなくてはならない。死ね、安らかに、もう呼吸を止めて楽になれ。頼むから、人間のまま死んでくれ。
 そう、叫ぶつもりだったのに。
「…………計画って、なんでうまく、いかないんだろう……」
 今僕の視界には、小型動物が映っていた。天井を見上げて横たわるだけの僕の顔の横に、意思を持って座るのはハツカネズミだ。
 そして僕は、僕の横から僕をのぞき込むネズミを、マエヤマさんのフルアバターの中から見ていた。
 最悪な事に、ネズミはアバターではない。よく訓練された小動物だとは思えない。恐らくは生体ドローンだろう。軍事利用が懸念され開発自体禁止されている筈だが、今さら法律がどうとかは関係ないのかもしれない。そもそも、この病棟への侵入自体が犯罪だ。
 この病棟内には、どんな人間も侵入できない。ドナー被害者の遺族以外は、整備の人間と医者以外は立ち入る事ができない。ただ、それは人間に対しての警備だ。勿論、配管や窓から侵入する小動物なんてものにまで警戒はされない。
 小動物が意思を持って侵入してきたとしたら、人間の害獣対策なんて無意味だ。
『スノハララン様ですね』
 白い害獣から直接声が響く。僕はCOVERの通信網をギンカ以外にはオープンにしていないから、誰かが僕にメッセージを送りたいと思えば、直接話しかけるしかない。これはハツカネズミが首に巻いているCOVER端末のスピーカーから直接響いている、リアルな音だ。
『お話したいことがあります。COVERの通信をオープン、または固定アドレスに対してセミオープンにしてください』
「……いやだ。僕はそれを拒否する」
『ではこのままスピーカー音声にて失礼します。こちらは問題ありませんが、スノハラ様はリアルでは発音しにくいかと思いますので、そちらのフルアバターを通して発声していただいたものをスノハラ様のお言葉と認識させていただきます』
 余計な気を遣うネズミだ煩い黙れと思ったが、余計な言葉を打ち込む気力がなかった。相変わらず外部との通信は途絶えたままだ。ギンカはどうなっただろうか。きちんと助けを呼べただろうか。彼女が無事なら、とりあえずはそれでいい。
『申し遅れました、わたくし株式会社アヤコボシ製造の開発部門担当、ツジナと申します。このような獣の姿での訪問になった事、まずはお詫びいたします』
 アヤコボシ製造。どこかで聞いた名前だと思い指先を叩いて辞書ツールで検索をかける。通信障害が起きているから、通常の情報網検索はできない。僕の目の前にPALが辞書のページを引用する。
 馴染みがない名前のわりに聞き覚えがあったわけはすぐわかった。アヤコボシ製造は主にカロリー食品を製造する食品メーカーで、時折ギンカがとにかく安いけど不味いと不満を零しながら齧っている低コストカロリーバーの製造元だった。
 僕は基本食品に縁がないから、馴染みがなくても仕方ない。
 ざっくりと会社概要を流し読みしても、おかしなところは特に見当たらない老舗だ。元々は製菓が本業だったらしいが、食糧難と世界恐慌を期にカロリー生産開発に方向転換した、らしい。
 そんな老舗が、寝たきりのドナー被害者に何の用だと訝しむ。
『実はスノハラ様には、弊社の特別顧問となっていただきたくお願いにあがりました。何度かCOVER通信でのコンタクトを試みたのですが生憎とお話することも叶わず、この特別病棟は関係者以外は面会も門前払いでした。突然の訪問をお許しください』
 許すかどうかなどどうでもいいのだが、このネズミの言っている事が僕はよく理解できない。どうして僕がカロリー食品メーカーの顧問にならなければならいのか。思い当たるのは僕が作った味覚プログラムくらいのものだが、アレは僕にしか作用しないものだ。何故ならばArts Stageの感覚チップを今も身体に埋め込んでいる人間は、事実上僕以外に存在していない。
 いつ自分を殺すかわからない機械を埋めておくわけがないし、国としても流石にまずいと言う事で総力を挙げてこの感覚チップの撲滅に励んだ、らしい。
 そして回収されたチップはArts Stageの配信会社である中国企業に全て奪われた。回収という名の元、事実上の証拠隠滅を金の力だけでいともたやすくやってのけたというわけだ。
 この疑問を僕は素直に羅列した。僕にしか適応されない、僕の為だけの味覚プログラムが、カロリー企業の役に立つとは思えない。
 しかしネズミは無表情に音声を届ける。
『仰る通り、過去事故を起こしたArts Stage感覚チップは全て回収され国外に持ち出されました。感覚チップの現物がなく、埋め込まれている脳死被害者はドナー提供者として厳重に病院に管理されています。つまり現状、感覚チップの研究は一から行うしかない。日本の企業は、過去のVR感覚チップを所有していないのです。
 ですがスノハラ様は感覚チップをお持ちです。そして過去の遺産であるVR感覚チップを現状流通しているCOVERのコードと連動させ実用化されている。これは大変、素晴らしい事です』
 なるほど、と納得する。要するに僕は開発者兼実験体として回収されかかっている、という事なのだろう。
 もう一度人々が感覚チップを身体に埋め込むのか、という問題はさて置き、僕はプログラム上で味覚を再現するという試みに対してとんでもなく優秀な実験素材だ、ということだ。
 悪い大人の役に立ちそうな機能はつけていない、と僕は思っていた。
 僕の感覚では悪い大人というのは、わかりやすくアンダーグラウンドな人たちの事だった。
 例えば目を見ただけで意識障害を起こせるとか、触れただけで情報が抜き取れるとか、そういう犯罪映画に出てきそうなベーシックな犯罪手段ばかりが『悪の組織』に狙われるものだと思っていた。
 味覚と触覚をCOVERに流用しただけで、まさか誘拐されそうになるなんて思ってもみなかったのだ。
 己の馬鹿さに呆れる僕を置き去りに、饒舌なネズミは解説を続ける。
『食糧難が問題視され、一般に試験管食材と呼ばれる合成食品の安全性が確立されてからは、食品メーカーは飛躍的に勢力を拡大してきました。摂取カロリーと生産カロリーの問題は、世界の課題の一つですから。
 しかし弊社の低コストカロリーバーには決定的な弱点があります。不味い。とにかく不味いのです。味を付けることも勿論可能ですが、フレーバーの分だけコストがかさみます。それに『それっぽい味』のカロリーバーを高額で買うくらいなら、本物の料理を食べたほうがいい、と考える方がほとんどです。食糧難とはいえ日本にはまだ食品は多く溢れています』
 続いてネズミは以下の現状を語る。
 低コストなサプリメントを、低コストなままおいしく摂取できるようにする為に、COVERの拡張現実での実験も続いている。
 見た目を変えたり、食欲を増進させる色を付け加えたり。しかしほとんど視覚にしか干渉できないCOVERでは、錯覚を利用してなんとなく脳みそを誤魔化すことくらいしかできない。
 味覚そのものに干渉できれば、と、誰もが思っている筈だ。COVERで味覚を再現する。その研究が成功すれば、食品の味など関係なくなる。味覚のコードを打ち込むだけで、どんなものも美味しく感じる事ができる。莫大な金が動く。日本の食生活が変わる事になる。
 僕に埋め込まれている感覚チップと、僕の味覚プログラムコードは、どう考えたって金になる。実用できるかどうかは置いておいても、絶対に金になるデータと実験体なのだ。
 それは確かに、何がなんでも回収したいことだろう。
『勿論スノハラ様には弊社にご協力いただくにあたり、特別手当として妥当な金額の賞与をご用意しております。スノハラ様がご了承してくださるのならば、弊社の方でお住まいと必要な備品、設備、医療も提供いたします』
「は……、拉致監禁、とは違うと言いたいのか。……似たようなものだろ」
『とんでもない。ご希望でしたら外出も問題なくできますし、お連れのバンドウ様も弊社で雇用する準備もございます。自社ながら破格の対応だと自負しております』
「……断ったら、僕は殺されたりするのかな」
『僭越ながらスノハラ様、お言葉に間違いがあります。スノハラ様の命を断っても、殺すことにはなりません。現在スノハラ様の戸籍は抹消されております。貴方の命はすでに、人間の命ではない。故に、「殺す」という表現は誤りです。……貴方はすでに、「物」なのです』
 ネズミは僕を殺すかどうかという問いかけに、決して否とは答えなかった。
 まあそうかな、とは思う。日本の未来の為に拡張現実での味覚技術を研究したい、というような人間は深夜に生体ドローンを使って病棟に忍び込んだりはしない。正々堂々、病棟の正面から世界のカロリー危機を訴える筈だ。
 他の企業に知識が渡り、他の企業が財を成すくらいなら、いっそ資源を丸ごと消滅させたらいい。そのくらいは思っているに違いない。
 ギンカはよく、『あたしは馬鹿だ』と言う。否定はしない。そして僕もやっぱり自分の事を馬鹿だと思った。
 迷惑ばかりをかける子供だ。でも僕はまだ、死にたくないと思うから。
 だから、その人の足音が僕の横たわる八階の病室に辿りつくまで、時間を稼いだ。うまく足音を殺す走り方をしているけど、普段の静かな病棟を把握している僕にとって、どんな人間の侵入も異質なものだ。
『スノハラ様、貴方の技術は本物です。ぜひ、弊社にご協力ください。日本の、世界の食が変わります。貴方のような天才を、失いたくはない』
「その天才を物理的に消そうとしている人間が、よくもそんな戯言を言えたものだな。この際はっきりと言っておくが、僕は僕の作ったプログラムを、僕の個人的な趣向以外で使う気はない。実験に協力することも、プログラムの内容を公開することも、ない。これは僕が、ただ親友と幸福を共有するために作ったものだ。それに、僕のプラグラムはVR感覚チップの再配布を招きかねない」
 所詮僕の技術は、過去のVRチップの技術に依存している。僕の身体にこの感覚チップが埋め込まれていなければ、当然実現していない。
 何かの手違いで、再度VRチップが流行ったとしたら、僕はこれ以上ないくらいに後悔するだろう。再度事故が起こる可能性が低かったとしても、それはやはり、僕とギンカの両親を肉塊にした元凶なのだ。
 ネズミは暫く無言になる。COVER通信の向こうで、何かしら議論しているのかもしれない。
 その間に僕の待ち人は、ついに病室にたどり着いた。
 ネズミがその人に気が付いた時、すでに彼は僕のフルアバターの横に並んでいた。同じ背格好、同じ服、同じキャスケット。全く同じ顔が二つ並ぶ。
 マエヤマさんは迷わなかった。迷わず走り、迷わずネズミの小さな身体を持ち上げる。
 リアルな人間であるマエヤマさんは、勿論、リアルな生体ドローンであるネズミを掴むことができる。そして、排除することができる。
『お前――セキュリティ――』
 ぼき、と嫌な音がした。感情もなくその死骸を捨てた彼は、一斉に飛び掛かる小さな影を見事に叩き落して行った。いつのまにか僕は小動物に囲まれていたらしい。ネズミ一匹でも僕を壊せるのに、用心深い人たちだ。でも、その用心のための小さな命はことごとく、彼に薙ぎ払われていく。
 最後に回し蹴りをして、猫のようなものを地面に叩きつける。
 すべての異物が動きを止めた事を確認してから、僕はマエヤマさんのフルアバターを操作して拍手をした。
 マエヤマさんは着地した姿勢のまま、息を吸う。そして吐く。
「……スノ」
 その後に聞こえてきたのは、僕の好きな男性の声ではない。
 勿論僕は知っていたので、マエヤマさんの顔をしたギンカに向けて首を傾げた。
 この病棟は、遺族しか入れない。勿論例外もあるだろうが、今は夜だ。ほとんどドナー被害者の墓場みたいになっている別棟に、夜間勤務の看護師も医師もいない。
「助けに、来てくれたんだ。あの人。……そんで、いま、アヤコボシの本社に、乗り込んでる。こっちはキミに任せたって……」
 この場所に入り込める人間は、ギンカくらいしか思い浮かばない。
「大変な役割押し付けられたんだな、ギンカ。僕の命を救う役目なんて。その顔、どうしたの?」
「……弄られた。鮫の人に。もしなんかあった時に、言い訳がきくようにって。なんかあっても、責任は全部俺が取るからって、マエヤマさんが……」
 そして公道で堂々とアバターの顔を弄れるような権限と技術を持っている人間は、セキュリティガードしかいない。
 だから僕は知っていたしすぐに分かった。マエヤマさんの顔をしたギンカが助けに来てくれた。つまりそれは、マエヤマさんに、僕達のヘルプメッセージが届いたということだ。
 ギンカはまだ震えている。小動物を殺した事よりも、僕が本当に死にそうになっていた事に対してのショックが強いらしい。本当に舌を噛んで死ぬ筋力がなくて良かったと思う。僕は、僕の命をこんなにも大事にしてくれる親友に恵まれている。
 マエヤマさんの背中を、フルアバターの手でたたく。実際はギンカの背中を僕が叩いているわけだけど、なんでかこの場所に投影されているのはどっちもマエヤマさんの顔だ。
「あの人たちに、何言われた? 助けて来いって放り出された?」
「…………腰を、落として蹴れって。いつも三センチくらい高いって。そしたらどんな奴も蹴り落とせるって。お前ならできるって。友達を助けろって。絶対に俺たちが助けるって。……俺達が、ついてるって」
 だから行け、頼む。そう言われて背中を押されたギンカは、マエヤマさんとマキセさんの期待通りに僕の命を見事救った。確かにギンカが一番適役だ。企業への捜査なんて一般人が手伝えるものじゃないし、マエヤマさん一人で乗り込めるわけもない。人がいない中で最善の人選だったとは思うが、それでも一般の未成年を巻き込んだ事についてきっとマエヤマさんは素直に報告書を提出して厳重注意されてしまうのだろう。
 あの人は、とても素直で正しい人だから。
 僕がギンカの背中を叩いているうちに、いつのまにか通信障害は解消していた。侵入してきた動物を一掃したせいか、それとも企業側に乗り込んでいるらしい大人達のおかげか。理由は後者であると、僕はすぐに知ることになる。
 途端に僕のサイレンスにしてあるPALが、煩いくらいに通知を鳴らした。
「…………ギンカ以外にはオープンに、してない筈なんですけど」
 可愛くない僕の第一声に、マエヤマさんは笑った。
 これだからセキュリティガードは嫌だ。一般人のルールを、権限をたてに勝手に破ったりする。密室に強制的に引きずり込んだり、拒否している通信を勝手にオープンにしたり。COVER通信に詳しい警察のお兄さん、というよりCOVER通信を好き勝手弄り回す横暴な人たちだ。
『ごめんえーと、非常事態だから許してね。後で着信拒否してくれてもかまわないから。こっちは一応主犯取り押さえたからその連絡なんだけど、なんか大ごとになっちゃっててそっちに帰れないかもしれないんだ。すぐに警察が行くと思うから、そっちの指示に従ってほしい』
 ……生体ドローンなんてものが出てくれば、確かにC25セキュリティガードだけでは処理できないだろう。もしかしたらカロリー食品の研究中に使用していた実験用マウスが関わっているのかもしれないが、それに関しては僕には関係のない話だ。
『それとギンカちゃんだけど、大丈夫だったみたいだね、良かった。なんで行かせたんだってマキセが今めちゃくちゃ後悔して――、あーうん、わーったよごめんて痛い。痛いマキセ。ええと違うマキセはどうでもよくて、あの、とりあえず』
 きみが死ななくて良かった。
 なんて、とても当たり前で、とても嬉しい言葉をもらってしまった僕は、わんわん泣き続けるギンカの隣で本当に久しぶりにちょっと笑って泣いてしまった。
 死ななくて良かった。
 本当にそう思えることがなんでかとても嬉しくて、僕はギンカと二人で泣いた。
 大人はいつも、僕達の事を無視した。見ないふりをした。
 でも、マエヤマさんは助けてくれた。僕の命を守ってくれた。ギンカに大丈夫と言ってくれた。
 俺達がついている。その言葉はきっとこの先も僕達を支えるものになる。