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07



 カードと身分証明書があれば海を越えられる世の中は素晴らしい。
 クレジットカードの有能さを存分に実感した私は、ふらふらと足元がおぼつかないチリに休憩を提案し、客足もまばらなカフェに腰を落ち着けた。
 と言っても私は常に上の空だった。紅茶を注文する際も、チリの荷物を一つにまとめている際も、玄関先で蹲る青年の死んだような青白い顔が頭の隅にちらつくせいだ。
「ごめんね、ほんと……もうちょっとくらい歩けると思ったんだけど。でもほしいものは全部買えたし、これ飲んだらすぐ帰ろ」
 暖かいハーブティーを息で冷ますチリに視線を戻し、急がずとも、と口にする。
 彼女の顔は、今にも倒れそうな土気色をしていた。二日酔いで寝込んでいた昨日よりも一層顔色が悪い。心配するなと言う方がおかしいだろう。現に出かける間際、チャールズすらチリの体調を心配して声をかけていた程だ。
「貴女のおかげで随分と早く購買店を回る事ができましたよ。無駄に連れ回してしまったのは私です。せめてゆっくりとお茶を楽しんでください。何より貴女もなかなかに顔色が悪い」
「貧血なんだよぅ……こんなことあんまり男の人に言うのもアレなんだけど、心配かけるとほら、申し訳ないから言うね、レディースタイムです」
「まぁ、それはなんとなく、はい。それならばなおのこと休息をとるべきです。私は貴女の身体の負担を慮ることしかできませんが、動けなくなるほど辛い方もいるのでしょう。たとえ理由が何であれ、無理は良くありませんよ」
「でも、チャックが心配でしょ?」
 それは確かにその通りだ。
 思いの外リトル・ヒューストンに近かったドラッグストアに着いた時点で、私は唯一の持ち物と言えるカードを忘れたことに気がついた。アブダビから掴んできた上着に入れっぱなしだったのだ。こんな失態普段ならば絶対にありえないのだが、久しぶりの長期の休暇に気持ちが緩んでいるのかもしれない。とにかくとんでもないミスだ。
 無一文で買い物をするわけにはいかない。
 チリに断りリトル・ヒューストンまで引き返した私は、開け放たれた玄関の前で蹲るチャールズと鉢合わせした。
 彼がなぜそのようなところで動けなくなっていたのか、私にはさっぱり見当がつかない。先程まで彼はいつも通りの軽口を放ち、いつも通り立っていたのだから。
 しばらく声をかけたが、どうやら慌てるような急病ではないらしい、と私は判断した。
 チャールズは頭が良い。判断を間違えない。そのチャールズが救急車両を呼べと言わないのであれば、安静にして様子を見るべきだろう。
 素人判断はよくない、とは思うがおそらくは貧血に違いない。ふらふらと血の気の引いた顔で歩くチリと蹲るチャールズは、同じ顔色をしていた。
 気にせずにさっさと買い物に戻れと言われたものの、チャールズの青い顔が頭から離れないのは事実だ。抱き上げた彼は、想像していた通りに軽く、驚き取り落としそうになるほど冷たかった。ひんやりとした肌の冷たさは、思わず抱きしめてしまいそうになる程だ。勝手に毛布をばさばさとかけてきたが、それでも足りないように思う。元の造詣がそれなりに整っているせいで、まるで陶器の人形のようだ。
 できることならば付き添い介抱したいが、彼は私の干渉を望まないだろう。何と言っても私はおそらく彼に歓迎されてはいない。いきなり怒鳴り込むようなアイルランド人を歓迎して暖かく迎え入れろ、というのも無理な話だと思うので、とりあえず触るなと拒否されなかっただけでも良しとする事にしたが。
「……まぁ、心配ではないと言えば嘘になりますが。貴女の事が心配だというのも事実ですよ、ミス・エドガワ。やはり今日の夕食はチリ用に無味のリゾットを作りましょう。日本の病人は水で煮た米を食べるのだと先ほど検索サイトが教えてくれました」
「いや、まー確かに味のないリゾットって言われたらそうだけどおかゆくらい自分で作るしなんならミートパイ食べたい。大丈夫だってば。食べて寝てたら元気になる、筈だし」
 本当だろうか。チリの『大丈夫』はラティーフの『平気だ』と同じ程度に信じてはいけない言葉であるように思う。
 私の胡乱げな視線から逃げるように肩を竦めた彼女は、カチャカチャと熱いお茶をかき混ぜる。
「てかさ、イーハってほんとジェントルでびっくりするよね〜荷物全部持ってくれるし。体調とか気遣ってくれるし。ノルもラティーフも、『イーハはデリカシーがない』って言うけど、わたしとオフェリアにはすごく気を使ってくれてるでしょ?」
「ええ、まぁ、女性なので……」
 さらりと一言で済ましてしまいそうになり、私は慌ててここがイギリスで、そしてチリは日本人だと言う事に思い当たり言葉を探す。この三日間、久方ぶりに他国に滞在し、環境の違いというものをささやかな驚きと共に実感した。
 ここはイスラムの国ではない。女性と男性が同じ建物の中で寝起きしても罪ではないし、同じものを同じテーブルで食べることも許されている国だ。私はつい、その事を忘れそうになる。
「私が暮らしている国は、良くも悪くも女性と男性は別のカテゴリーの生き物です。レストランでも自国民の男女は同室になることはありません。かの国のこの考え方は差別ではなく、区別です。蔑ろにしているのではなく、『女性』という区分としての身分がある、といった感覚です。我々男性からしてみると、最早別の生き物と言っても過言ではない。アラビアの血を受けついではいないとは言え、私の根本といいますか、生活と文化の拠点はイスラムのあの熱い国ですからね。気兼ねなく女性を蔑ろにはできませんよ」
「ふぉーカルチャーショック……チャックに爪の垢煎じて飲ませたーい」
「それは、見習ってほしい、というスラング?」
「日本の古いスラング。でもイーハさぁ、仕事できるし家事もできるし基本優しいし背も高くて顔面も悪く無いしめっちゃ女の子にモテそうなのに、なんでチャックがいーの?」
「ッ、ふ、……!?」
 唐突な言葉すぎて思わず私は紅茶を吹き出しそうになり、慌てて飲み込み一瞬本当に死ぬのでは無いかと思った。そしてついでのように思い出した。そうだ。彼女は私が及ばないと呆れるほどにデリカシーがない人間だったのだ。
「え。もしかしてバレてないと思ってた!? あ、ごめ……オフレコ? オフレコだったのこの件?」
「いえ……あまりにも、直球だったので、ごく単純に驚いただけです申し訳ありません。……私はそれほどわかりやすく態度に出ていますか?」
「ん。んー、てか、酔っぱらってた時に結構ガチでチャックに言い寄ってた」
「……あー…………あー」
「あれ。もしかしてお酒入ると記憶飛んじゃう感じの人?」
「……そのようですね。私はあまり自分の行動に対して後悔することはないのですが、なるほど本日まさに新しい感情を実感することができました。消えて無くなりたい」
「イーハでもそんな風に照れたりするんだねぇ……」
 カップを両手で持ったチリがにやにやと口の端を上げる。なんとも腹立たしい顔ではあったが、そんなことより私は自分に対して腹を立てることで精いっぱいで、チリに八つ当たりしようなどという気は毛頭起きない。そもそも、チリは何も関係ない。彼女はただその場にいて、ただ私の醜態を見ていただけだ。
「なんかさぁ、チャックってほらー、クールぶってるっていうか、俺なんて人間のクズじゃん? とか思ってるでしょアレ。斜に構えてるっていうか、悲観的で毒舌。だから結構イーハに対しても寄るな触んなって言ってると思うのに、ほんとチャックの何がイーハのツボにはまっちゃったのかなーって。……これ、失礼な質問? 失礼じゃない質問?」
「妙齢の女性が独身の男に投げかけるには些か問題があるかもしれませんが、個人的には失礼だとは思いません。ただノルかオフェリアが聞けばデリカシーの無さを指摘されるでしょうね」
「うはは。それほんと言われる〜でも言葉飲み込んで後悔するより言っちゃった方がいいかなって思うからあんまり気にしてない〜」
「貴女のそういうところが、良いんでしょうね。たかが三日ですが、私も少し、わかってきました」
「デリカシーの無い女が愛される理由?」
「言葉を飾らない素直な女性が愛される理由ですね」
「ほら、イーハはさ、そうやってすごくうまく気を遣う。……絶対にモテるのに。なんでチャック?」
 何故、と改めて問われると少々言葉に迷ってしまう。
 確かにあの日、あの瞬間に私は恋に落ちた、と確信した。彼の伏せた視線が、しどろもどろに呟かれる自信のない声が、見た目と裏腹の素直で子供のような性格が、とにかく全て好ましいと感じたからだ。
 けれどそれ以前から――、私がイギリスに乗り込んでくる前から、思えば普段とは違う感情を抱いていたような気もする。
 そもそも私は、他人に興味を抱く事がない。ラティーフは薄く広い博愛の精神で個人に興味を抱かない。ノルは恐らく人類には興味があるだろうが、少々の友人と恋人以外の人間は全て『人類』だと思っている。そして私は、基本的に単純に他人に興味がない。
 誰がどこで何をしていようが、私の生活に関わる事がなければどうでもいい。喧嘩を売られた時だけは全力で買ってしまう傾向がある。恐らく私は負けることが嫌いだからだ。しかしそれも、喉元を過ぎれば怒りの感情事どうでもよくなってしまう。
 私はプラスチックなのだ。冷たくも熱くもない、叩いても軽い音が鳴るだけの合成樹脂。
 それなのにチャールズとの遠隔操作でのゲームに、驚くほど熱中した。彼はとても頭がよく、腹立たしい煽り文句で私を挑発することにも長けていた。一手ずつ、頭を捻る事は単純に楽しく、そして勝負の決着がつく瞬間は、勝敗はどうあれ常に興奮した。
 そうだ、私は非常に楽しかったのだ。だから手を抜かれている、彼がゲームを放り出していると感じた時、勝手に腹を立てた。思い返せば本当に自分勝手な憤りだったが、私が楽しいと感じているゲームを、同じように彼にも楽しいと感じてほしかったのだろう。
 あれは恋だった、とは言わない。流石に恋ではないとは思う。あれは勝負だった。そしてゲームだった。けれどきっと、私にとっては久方ぶりに他人に興味を持つきっかけだったと思う。
 私はチャールズ・ヘンストリッジの何に惹かれたのだろう。しばらく紅茶の表面を眺めた後に、思い浮かんだ言葉をすっかり慣れた英語に変換する。
「……世界の淵に、立っているような人が好きなのかもしれません」
「世界の淵?」
「ええ。私は常々、ラティーフは世界の淵に立っているつもりでいるのだろうと思っていました。自らも含めて世界は存在しているのに、あの方はいつも、足元で騒がしく回る地球を眺めて静かに息を吐いている。できることなら私は彼の足を掴み、そこから引きずり降ろしたかったと思っています。まあ、私では力不足だった故に、その役目は火星の信者にお譲りしましたが」
「ノルねー強いもんね、ノル。ノルはどっちかっていったら、世界捨てて宇宙に行きたいんだろうけど、ほんと地球人代表ってくらいにずっとうるさくて賑やかでいいよね。あーでも……わかった。わかった、うん、確かにさぁ、チャックってあれだよね……世界の真ん中で、耳塞いで蹲っちゃってる男の子、ってかんじだなぁ」
 ああ、と私の口から感嘆の息が零れた。
 確かに、彼女の言う通りだ。ラティーフは世界の淵に立っている。けれど、チャックは世界の真ん中で座り込んでいる。耳を塞いで。此処は世界から隔離された殻の中だと信じ込んで。
 そのイメージはあまりにもしっくりと私の中に入り込み、尚一層チャールズの足首を掴まなくては、と私に思わせた。
 世界と向き合えとは言わない。けれど私は世界の中に存在しているので、せめて私の存在くらいは許容してほしいと思う。なんと我儘なのだろう、と呆れるものの、この考え方は非常にしっくりと来た。
 特に隠すつもりもないので私の我儘で傲慢な意見を述べると、チリは声を上げて笑った。彼女の笑い声は相変わらず頭に響く。あまり綺麗な笑い方ではない。けれど、少々下品なその声が、私は嫌いではない。
「ノルも強いけど、イーハもわりと強かったー! もうそのままチャックを引きずりこんでモノにしちゃえばいいんだよほんと。たぶんチャックはうだうだ文句言って抵抗するけどさ、思うにアイツは押しに弱いと思うんだよね! こう! ぐいぐい行こう! ガンガン行こうぜ! って感じで行こう!」
「ガンガン行くのはよろしいですが私がガンガン彼を口説いたところで貴女には何の利益にもならないのでは?」
「ん〜? いやそんなことないでしょ。だってイーハ、ノルとラティーフの事応援してたでしょ?」
「それは、私が長年ラティーフの事を案じていたからで……」
「じゃあ一緒じゃん」
「……一緒ですか」
「うん。一緒。わたしもずっと、わたしたちはずっと、チャックにさ、俺なんていつ死んでもいいじゃんなんて言ってほしくないって思ってるよ」
 友達だからね、とチリは笑い、カップの残りを一気に飲み干してから帰ろうかと立ち上がる。
 私はうっかり彼女の友愛に充てられ、少々目頭を押さえていた為に、いつかのラティーフと同じような呆れた言葉をいただく羽目になった。
「……イーハ、そんなに感動屋だった?」
「誰かと同じ事を言いますね。私だって顔見知りの人間の愛情を見せつけられればそれなりに感動いたします」
「顔見知りって他人行儀であれだから友人って言ってー」
 うはは、と笑うチリの声が頭に響く。
 友人と名乗る権利を得た私は、ありがたくその権利を行使し、七歳下の異性の友人に気兼ねなく手を差し出した。私の生活圏では女性と男性は気軽に触れ合う事はない。けれどここはイギリスで、彼女は友人だから、まあ、恐らくは問題ない。
「早く帰ってあげよっかー。チャック、きっと一人ぼっちで寂しがってるよ。なんだかんだ言ってあの場所はさ、みんなが居て煩いのが通常営業だから。わたしも最初は人がいっぱいいるところは嫌いだったけど。人の目が気になるから。でも今は五人いないと寂しいなぁ」
 早くみんな帰ってくればいいのにね、という言葉に私は曖昧に頷く。ノルが帰国しラティーフが帰路につけば、私は主人と共にアブダビに帰る事になる。たった数日の恋が冷めぬうちに、どうにか彼にせめて『嫌いではない』くらいに思っていただきたいものだが。
 とりあえずはミートパイを作る事から始めようと思った。


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