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03




 久方ぶりに対峙した赤髪の青年は、記憶にあるよりも多少顔色が良く、記憶にあるよりも多少痩せこけ、想像していたよりも目を見開き大いに驚愕していた。
 最大限の驚きを示すその顔面からは、チャットの文字列から滲み出る生意気な余裕は微塵も感じられない。
 生身のチャールズ・ヘンストリッジは、拍子抜けするほどありふれた二十三歳の青年に見える。
 少し背の高い、猫背で不健康そうな白人青年。髪の毛はおそらく染めている為不自然な赤褐色で、存分に『今風』だ。
 あまり外見を弄らないアブダビ市民に囲まれている私ではあるが、ドバイを訪れる外国人観光客は中々にエキセントリックな外見を晒している方も多くいる。チャールズの外見は特別目立っているとも、変だとも思わない。もう少し肌の色が明るくなって笑えば女性が放っておかないだろうに、と再確認した程度だ。
 特に難しい事は考えずに衝動だけで飛行機に乗り込み国と海を跨ぎ、衝動だけでタクシーに行き先を告げた私は、勢いそのままにくたびれたフラットの玄関ドアをノックした。
 チャールズと同じように目を丸くしていたノルに、今現在リトル・ヒューストンにはチャールズとオフェリアの二人しかいない、と聞いていた。オフェリアが出てきたらごく普通に挨拶をしよう、と思える程度の心の余裕はあったはずだが、生憎とドアを開けたのは赤髪の青年の方だった。
 顔を見たら何故か苛立ちが増した。
 なんであんたがと顔に書いてあったからかもしれない。私が腹を立ててイギリスに乗り込んだ理由など、チャールズは想像も出来ない事なのだろう。
 ただひたすらに驚愕している状態のチャールズに詰め寄り、私は後ろ手に玄関ドアを閉めた。
 リトル・ヒューストンのエントランスはリビングに直結している。区切られた部屋に五人が同居しているとはいえ、中々に手狭なフラットだ。
 すぐ近くのソファーに座るオフェリアが、半分くらい腰を浮かせて困惑している事に気づいていたが、生憎と私には余裕がない。心の余裕がない私は、今やチャールズにツカツカと詰め寄る事しかできない。
「さぁ、説明していただきたい。貴方が、ここ数日私たちの勝負について明確に手加減していた理由を」
 私が近寄るぶんだけチャールズは後ずさる。ついには壁に背をつけた青年には逃げ場などなく、私の顔を見上げるように首をすくめて顔を青くしていた。
「な、……に言って……手加減……?」
 若干声が震えているが私は特に気にしない。これがノルならばかわいそうに思い身体を引くし、他の人間に対しても同じように対応しただろう。
 だがチャールズ・ヘンストリッジに対しての私は、特別配慮しようという気持ちが見事、一切、抜け落ちていた。何と言っても彼は大変腹立たしい男だ。頭がよく、どんな難問も数分から数時間で対処してしまう天才。
それなのに、と私は意図的に顔を顰める。
 何も意識せずとも『睨むな』『顔がこわい』『もう少しリラックスしろ』と言われる私の無機質な表情が、今どれほど歪んでいるのか己ではわからないが、チャールズを震えさせる程度には不機嫌を垂れ流しているのだろう。
 チャールズ・ヘンストリッジは天才だ。とても私の頭では彼の思考を打ち負かすことなどできない。そんなことはこの二カ月で分かりきっている。
 なにも私は、彼に連敗している事に不満を貯めている訳ではない。
「手加減なさっていたでしょう」
 彼は天才なのだ。私に勝って当たり前なのだ。
 それなのに、この数日間は明らかに、攻撃の手を緩め怠惰に勝敗を引き延ばす選択をしていた。
「まずは六日前です。最後のゲームで貴方は、赤の陣地を手に取らずにアヒルの駒を進めた。手持ちのドル札がかなり多かったにもかかわらず、です。普段の貴方ならば確実にまず陣地を確保した筈だ。私は当初これを新たな戦略の伏線かと思いました。しかしそれから何度手持ちの駒を進めても陣地を取っても、貴方の駒はごく平凡な動きしか見せなかった。ついには翌日、私は貴方に久しぶりの勝利を収めました。まぁ、これに関しては負けるデータが欲しかったのかと思う事にいたしました。私はテスターであるという事を時折忘れますが、貴方はSEだ。しかし四日前も、二日前も、貴方は勝負を無駄に、特に理由もなく引き伸ばした」
「……え。日付とか覚えてんの……?」
「気持ち悪い、みたいな目をするのをやめなさいとは言いません確かに己でも中々に病的に拘っていると思わなくもない。私は貴方に何かを与えているわけでも、何かをいただいているわけではありません。まぁ要するにただの暇つぶしの相手でしょう。私なんぞが貴方の頭脳戦の正式なテスターになるとは思えない。それはお互いにそう認識していると思います」
「はぁ……まぁ……暇つぶし、て言われたら、そう、だけど」
「でしょうとも。何の契約も縛りもない。遊び相手のようなものです。ですから飽きたのならば飽きたと、放り出してくださって構わない。やりたくないのならばログインしなければいい。ですがあのゲーム内で私と向き合っている間は、全力で挑んでいる私に配慮していただきたい」
「…………はいりょ?」
「配慮です。つまり全力で私を叩きのめしてください、ということです。手を抜く程飽きているなら、いっそお相手していただかない方がマシですので」
 ここまで言い切って、私は初めて息を吐いたような気分になった。
 実際この数分間は息を吐く間も無く、言葉を吐き続けたと思う。わずかな合間にチャールズが少々応答する以外、リトル・ヒューストンのリビングは私の言葉で満たされていた。
 すっ、と静寂が訪れたタイミングで、私の腹立たしく膨れ上がった感情も、若干ながらフラットになった。……気がした。
 とにかく言いたい事は言った。その開放感の後に残されたのは、気まずい沈黙と怯えきった青年だ。あとは呆れたように事の成り行きを見守る女性もいたが、オフェリアはまぁ、他人の事情についてあれこれ口を出す人ではないだろう。
 時が止まっているのではないか、と思えるほどチャールズは、慄いた表情のまま固まっていた。私は変わらずに、彼の薄くて暗いブルーの瞳を凝視した。
 沈黙を破ったのは私たちの誰でもない。ガコン、と郵便物かなにかが投函される音がして、思わず私は後ろのドアを振り返った。
 瞬間、はっと息を吸い込んだ音がして、チャールズがカベを這うようにするりと駆け出し、気がついた時には彼は自室と思われる奥の扉に逃げ込んでいた。
「あ」
 ……と、呟いたものの、逃げられてしまってはどうしようもない。他人の住居に招かれもせずに推しかけたものの、他人のプライベートな部屋にまで押し入ろうとは思えない。
 ふう、とひとつ、ため息のような息を漏らす。
 相変わらず無言のオフェリア嬢の近場のスツールに腰を下ろし、今の己の発言と行動を一度思い返しながら手を組み、多少冷静さを取り戻した私は目の前のオフェリアに向かって声をかけた。
「……今の、私が悪いですね?」
「その通りだけど、――反省が高速すぎてついていけないわ、ミスター・オコナー」
「イーハで結構です。どうも、今ほどは大変失礼いたしました。どうも私は、主人と違って我慢が得意ではなくてよろしくない。オフェリア、午後から海外に出かける予定では?」
「準備はすっかり万端よ。あとは鼻歌を歌いながら優雅に玄関を出るだけ。珍しい客人と珍しい会話を楽しむ時間くらいあるわよ」
「……彼は怒ったと思いますか?」
「んー。ビビった、が正解じゃないかしら。正面から真っ当に言葉を投げつけられるとビビっちゃう。チャールズは馬鹿じゃないから、意見や要望と暴言はきちんと分けて捉えるもの。怒ってはないでしょ、たぶん。貴方が悪いとは思うけど」
「ですよね。私も私が悪いと思います。腹が立ちすぎていて距離感を見誤りました。私は彼の友人ではないし、彼にも生活があり、彼の人生があるというのに、いつ何時でも私に合わせろだなんて横暴すぎますね。謝ってまいります」
「……貴方、本当に決断が高速ね……」
「年単位で思い悩む苦悩の人の隣に居りますので、私はサクサクと深く考えずに選択するように心がけております」
 なにより一度言葉にして本人に直接ぶつけた事により、私の腹立たしさは随分と落ち着いていた。
 いや、言葉にして吐き出した事よりも、チャールズが思いの外素直に驚いていた事が溜飲を下げた原因かもしれない。
 ニヤニヤと笑っている嫌味な子供を想像しすぎていた。これは私の偏見だ。実際の性格はともかく、チャールズは私に対して馬鹿にしたような態度をとることはなく、ただ驚き目を丸くしていた。
 チャールズにも生活がある。チャールズにも予定がある。チャールズにも考えがあるし、ゲームのテストプレイに人生がかかっているわけでもない。
 と一瞬で反省し、オフェリア嬢曰く高速の変わり身で私はチャールズが滑り込んだドアをノックした。
 扉越しに罵声を浴びせられる準備もしたし、無言を貫かれる準備もした。
 しかし予想を裏切り、彼の部屋のドアは割合すぐにゆっくりと開かれる。
 ほんの十センチ開いた隙間から、怯えた動物のようにチャールズが顔を覗かせた。本当に怒ってはいないようだ。オフェリアの言葉はいつも的確で恐れ入る。
「…………なんだよ……まだ怒鳴り足りねーの?」
「怒鳴ってなど――、あー、いえ、そのように見えたのならば申し訳ありません。先程のすべての私の言動について、謝罪させてください」
「な、んだよ……怒ったと思ったら次は謝るとか、情緒不安定は寝てない時のチリだけにして……」
「ああ、彼女は確かに浮き沈みが激しそうですね。リトル・ヒューストンの気苦労をお察しします。……衝動でここまで来てぶちまけてしまいましたが、反省いたしました。貴方が貴方の意思で勝とうが負けようが、私が文句を言うことではない。それこそ、私との対戦など仕事でもなんでもないのですから」
 申し訳ありません、と再度唱えて浅く頭を下げる。チャールズは特に慌てた様子もなく、ただ無言を貫いた。
 その内に、ふう、と息を吐く音がした。
「いや、別に……怒ってはないし、なんつーか、あー……確かに、若干手を抜いたっていうか、無駄に引き延ばしたり、したのは俺だし……でも、別にあんたのこと馬鹿にしたりとか、やる気なくて適当に駒動かしてたりとか、ってことじゃなくて」
「では、何故?」
 素直に疑問に思う私に対し、少しだけ背の低い青年は長い睫毛に縁取られた瞳を伏せる。
 だって、と続く言葉を、私はどんな心持ちで待ったのか、実のところあまり記憶がない。
「……だってさ、さっさと勝負ついて、あんたが飽きちゃったらつまんねーし、そんなんさー……俺だけ残されんのさみしーじゃん」
 このどれだけ他意があったのかわからない言葉は――、いや実のところ言葉の意味はそのままで事実単純につまらなくて寂しいという意味以外に彼はなにも含ませてなどいなかったはずなのに、とにかくこの言葉は私の息を数秒止め、そして私のすべてを一切合切、一気に、すべからく大変な速度で一瞬にして、見事掻っ攫ってしまったのだ。
 後々考えてみれば、常日頃から存分に小生意気な言葉選びをするチャールズが、なぜこんなにしおらしい発言をしたのかと疑問に思わなくもなかった。だがどうやら私のあまりの剣幕に単純にパニックになっただけだろう、と後の私は結論付けた。彼はパニックになるとやたらと素直になるのだ。
 言いたいことを言い切ったらしいチャールズは、別に怒ってないし、次から本気で叩き潰すから、と少々照れたような怒ったような声で早口に言い捨て、扉を乱暴に閉めた。
 私は先程と同じように無言でオフェリアの前のスツールに腰掛け、先程と同じように手を組み、先程と同じようにオフェリアに向かって素直な言葉を口にした。
「オフェリア」
「何よ」
「恋に落ちました」
「…………でしょうね。人が恋に落ちる瞬間なんて初めて見たけど、あれね、明確にわかっちゃうもんなのね……生憎とチャック本人は微塵も気がついてないでしょうけど」
 オフェリアのしみじみとした呆れを含んだ感想を聞きながら、私は先程の余りにもいじらしい青年の伏せた睫毛のことばかり考えた。
 残されるのは寂しい、と彼は言った。
 つまり私とのささやかな時間は、彼にとっては『楽しい』と定義されるものなのだろう。
 そうか、チャールズは楽しいのか。……チャールズも、楽しいのか。
 そう思うと何故か痒いような気分になり、私は己の頬を何度か叩く羽目になる。
「まさか、初恋とか言わないわよね?」
 完全に挙動不振な私を眺めるオフェリアの目は明らかに呆れきっているが、まぁ、わからないでもないので無駄足掻きはせずにただ質問に素直に答える。
「まさか。と胸を張って言えるかは怪しいですね。何と言ってもUAEは婚前性交も婚前同棲も罪ですからね。私はムスリムではありませんが、あの国でおおっぴらに愛を叫ぶような交際をしようとは思えませんでしたし、それなりに真剣にお付き合いした人は、あー……二十二歳あたりの時に、お一人……」
「わぉ、十年前? ってことはなに? イギリスの十歳年下の美青年に十年ぶりの恋?」
「なかなか背徳的な要素がたくさんあって胸躍りますね。チャールズが成人していて良かったですよ本当に」
「チャックは大変よ。なんていうか……トラウマのデパートって感じだし、人の話ハイハイって流しちゃうし、他人に微塵も興味ないしね」
「なんとなく察してはおります。彼はこのリトル・ヒューストンから、物理的に一歩も出ない生活をしている、んですよね?」
「そうよ。理由は自分で聞いてちょうだいな。あたしは鼻歌を歌いながら旅に出る時間だわ」
 よいしょ、とオフェリアが立ち上がると同時に、フラットの玄関が盛大な音を立てて乱暴に開いた。
 私が言うのもなんだが、本当に忙しない場所だ。音に驚き目をやれば、大きなキャリーケースを重そうに引きずるチリコが疲れた顔でよろよろと入ってきたところだった。
「ただいまー……! っあー! もう! つかれた! あんなところ!あと二泊もできるかこのファッキン……あれ!? イーハ!?」
「あら早かったわねチリ。まぁ、丁度良かったかもね」
 私の肩を軽く叩いたオフェリアは笑う。この人の笑みは、甘くはないのに何故かとても柔らかい。少しラティーフに似ている、と思う。
「二人きりよりもマシだと思うわよ。チャックはチリと仲良しだから、とりあえずチリと仲良くしていれば心の壁もたぶんわかりやすく薄くなるに違いないわ。ソファーがベッドでいいのなら、しばらく泊まっていってもいいわよ」
「……いいんですか? チリ嬢もいらっしゃるのに、同居人でもない男が寝泊まりしても」
「あなたがチリを襲う確率の低さなんて証明すらいらないでしょ。友人として、あたしはあなたを信頼している」
 そう言ったオフェリアに、まばたきを繰り返し首を傾げていたのはチリだったが。まぁ、確かに私は暇だ。目下一週間、私の主人は戻ってこない。アブダビの自室で孤独を満喫する予定ではあったが、イギリスのフラットで降って湧いた感情に翻弄されつつ過ごすのも悪くはない。
「チャックの横に並んでるあなた、割と悪くないと思うのよね。なんだか楽しくなってきちゃったな。楽しいから、ヒントをあげるわ。彼、背の高い男が苦手だから、あなたはなるべくなら椅子に座るか傅くかしてお話した方がいいかもね」
「――王様に傅く従者のように?」
「そう。面倒くさい赤毛の王様を、落としてみせてちょうだい、紳士」
 ありがたい助言とともにチリコとすれ違うようにフラットを出たオフェリアには、今度なにか手土産を持ってこようと誓う。
 私の横でオフェリアに対し手を振っていたチリコは、私を見上げて首を傾げた。
「え。で、なんの話?」
 もちろんこれは、恋の話だった。


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