×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -




13


 笑ってしまうほど、時間がない。
「貴方の忍耐力が羨ましい……」
 従者にあるまじき怠惰な姿勢でぐったりと助手席に背中を預ける私に、ハンドルを握った主は朗らかな苦笑いを零した。
 本来ならば私はいかなる場合も運転席に座るべきだ。
 久しぶりに出かけようと持ち掛けられた時、すっかりくさった気持ちでパソコンを眺めていた私は、外の熱気を吸い込み少々気分転換をすることも無駄ではない筈だと腹を決め、珍しい休日の外出の為に運転席に乗り込むつもりだった。
 しかし今日もラフなシャツを適当に着こなしたラティーフは、仕事ではないからと笑ってハンドルを奪った。
 確かに私と彼は十数年来の友人だ。初めて会ったのは物心が付く前だったような記憶もある。そこから数えれば優に二十年を超えるし、友人同士ならばどちらがハンドルを握ったところで、誰に怒られるものでもない。
 ラマダンを恙無く終えたアブダビの街は、若干ながら活気づくものの、夏の始まりの季節のせいで誰も彼もが引きこもり気味だ。蒸し暑い、と一言で表現するには生ぬるい。息苦しい夏が始まる。
 よくもこんな場所に人間が住み着いたものだ、と呆れるし、よくもこんな場所に長年住んでいる、と己にも呆れる。仕事は楽しいと思う。主人とほぼ二人きりの生活も悪くない。最近は時折ノルが訪れるせいでそれなりに刺激も少なくない。私はアブダビが好きだ。
 しかしながらこの一か月の私は、この愛おしいアブダビを罵りたくなる瞬間が多々あった。この街は亜熱帯だ。夏でもそれなりに涼しいイギリスとはなんと五千四百キロも離れている。
 いざ意識して生活してみると、私は割合多忙だという事に気が付いてしまった。
 特別な趣味もなく、一人でぼんやりと過ごす時間が多かった為になんとなく暇が多い人間だと思い込んでいた。そんな訳がない、と己の生活を振り返り実感したのはイギリスから帰国してからの事で、そう言えば終業後も容赦なく仕事をしていたし休日も細かい業務に手を付けていた事実を嫌というほど認識した。
 私は自分が思っていた以上に休みの無い人間だったらしい。
 別に今まではそれでよかったのだ。私がイギリスのフラットの引きこもりに心を奪われるまでは。
 隙をみてイギリス行きの飛行に飛び乗る程の時間は、どう考えても捻りだせない。チャールズとのネットゲームは相変わらず続いているし、それなりに連絡も取っている。
 彼は思いのほかマメで、本当にどうでもいいような日常のハプニングを割合楽し気に報告してくる。
 グレッグのアメリカ土産が酷い色のお菓子だったから誰もが受け取り拒否をしただとか。チリが退院してから急に野菜を食べるようになったとか。ノルが付き合わされてヴィーガンみたいになっているとか。オフェリアがフラット全員分のトレーニングシューズを買ってきたとか。
 そんな些細な報告を受ける度に、私は己がこの国から動けない事を呪うというのに、一年も前から遠距離恋愛を恙無く続けている主人は一体どういう精神状態なのかと不思議に思う。
 私はあまり鬱々と悩むタイプではないので、失礼な事を口に出す非礼をさらっと詫びつつも素直に貴方は苦行が好きなのですかと問いかければ、寛容すぎるラティーフはいつも通りゆったりと笑った。
「会えない日は満たされない心を持て余してしまう事もあるが、苦しみを愛す程達観はしていないよ。ごく当たり前のように、会えない日々は苦しい。だからまあ、正常な反応だ、イーハ。……お前が誰かに心奪われる日が来るとは思っていなかったが」
「失礼ですね、私とて欲も情もある人間ですよ。今までそれなりに心を奪われた経験もあります。ただ、あえて大きな声で言いふらさないだけで。男女の恋愛でも罪になり得るというのに、全く本当に声に出せない感情を持て余している事に関しては不覚ですがね」
「チャックにあんなに腹を立てていたのにな。どうしてまた、あの偏屈な青年にお前の硬派な心が傾いたんだ?」
「彼は偏屈ではないし私は硬派でもありませんがお答えするならば私にもさっぱりわかりません。ただ、今の私は彼以外に目移りすることはありません。生涯私は貴方の秘書として相棒として生きていく所存ですが、私はあの見た目以上に存分に脆弱な青年に傅き彼の命令を全て叶えて差し上げたい、と思っております」
「……ノルがたまに、イーハの言葉は甘すぎると言っていたが、その理由が分かったよ……」
 眉を落としたハンサムは、苦笑いの愛情を隠そうともせずに私の背中を叩く。彼はいつも、私が気落ちすると背中を叩いてくれる。
 その愛情に甘え、私は普段はおくびにも出さない弱音を吐いた。
「貴方ほどの忍耐があれば、と考えてしまう己が恥ずかしい。貴方も恋人と会えない時間を苦しく思っているというのに、私は、私だけが苦痛に耐えているように思ってしまう。まったくもって我慢が出来ない自分が嫌になります。……正直なところ不安がないとも言えない。恐らくチャールズは、なんとなく流されただけでしょうから」
「珍しく真っ当な弱音だな」
「私は凡人ですからね。面白みも何もない悩みしかありませんよ。何と言っても十歳違います。これだけ歳が違えば文化も違う。ただでさえ育った国が違うというのに。同じなのは性別だけという、大変すばらしい逆境です」
「そうだな。私とノルと同じだ」
「……ああ、確かに……そうですね。貴方とノルと同じです。ですからこれはただの弱音ですね。環境の違いなど、どうにでもなるというのに私は……」
「いや構わないよ。というか、それが普通だ。私は本来ならば国の違いや生活の違い、そして文化と歳の違いを問題にして悩まなければならなかったところを、ただひたすら宗教と神に背く事だけを焦点にしていたからな……なんというか、お前が真っ当に悩んでいるのを見ていると、私こそ己を恥じてしまうよ」
「貴方が恥じる事など何もないでしょう。貴方は素晴らしい寛容と忍耐と人徳で、あの些か人の話を聞かない宇宙を愛する青年の好意を勝ち取った。素晴らしい事です。貴方は魅力あふれる方ですからね。髭があればもっと広範囲にその魅力をストレートに伝えることが出来るとは思いますがとりあえず今日は髭の話はよしましょう。私は貴方の寛容を見習う為に、爪の垢を煎じて飲むべきだ」
「不思議な言い回しをするな……イギリスの諺か?」
「日本のスラングだそうです」
 緩やかに走っていた車は、私がうだうだと言葉を垂れ流すうちに減速する。どうやら目的地に着いたらしい。休日を満喫する前に、私は今一度ラティーフに懇願した。
「もう一度、背中を叩いていただけますか、ラティーフ。私には貴方の優しさが必要だ」
「お前が望むだけ叩いてやるさ。イーハに求められることなど稀だからな。私は存分に得意になってしまう。ほら着いたぞ、とりあえずその怠慢な腰を上げて外を歩いてくれ」
「……マリーナ・モールは観光客であふれているから苦手だ、と以前仰っていたと記憶しておりますが」
「私は苦手だ。けれどいつも通りの街並みは刺激にはならないだろう。たまに外出するんだ、どうせなら外国人観光客の仮装をして買い物を楽しんでもいいだろう?」
 そう言う事ならばもう少しラフな格好をして来たのだが、今さら文句を言う気力はない。何よりも彼は気落ちする私を励ます為に、気分転換に連れ出してくれる素晴らしい主人だ。ラティーフの優しさには感謝しかない。
 普段とほとんど変わらないシャツをきっちりと着こんだ私も、すっかりアブダビの夏に慣れている。この国は男性もあまり肌を晒すことを好まない。私もそれに倣い、常に長袖のシャツとスラックスを着用していた。暑いことは暑いが、正直いつものことなのでどうという事はない。
「そういえば私もあまり来ませんね。確かに観光客が多い場所ですし、客人を案内するようなイベントはここ最近ありませんでしたし」
「アル=ハーリド氏との会食はこの近くだっただろう?」
「ああ……そういえばありましたね、そんなことも。あの方は相変わらず火星に首ったけですし、来月また食事にでもとお声がかかっておりますよ。ノルを連れていくならば調整いたしますので、その件については後でご連絡を――……チリ?」
 言葉の途中で私は、視線を固定したまま思い切り眉を寄せ、今目の前に見えている人物の名前を呼んでしまった。
 マリーナ・モールは観光客に人気のショッピングモールだ。一年の半分は外に出ることも憚られる暑さになるアブダビでは、観光といえば涼しいエアコンが効いた室内に限られてしまう。オフシーズンとはいえ、肌を晒した女性観光客も多い中で、大変見知った眼鏡の女性が正面に見えた。
 見間違いではない。何より私と視線がかち合った眼鏡の女性は、パッと花が咲くように笑うととんでもない勢いでこちらに向かって走って来た。
「イーハー! フー! 本物! だ! わーい久しぶりー!」
 そのまま見事抱き着かれ、不意打ちを食らった私は思わず後ろによろけてしまう。どうにか無様に倒れる事は免れたが、私の身体は踏ん張ったものの、頭がどうにも現実についていかない。
 彼女の後から着いてくる金髪の女性も、背の高い派手なティーシャツの男性も私は知っている。
「……オフェリア、グレッグ、ええと……これは、何かのサプライズ? それとも単に連絡の行き違いが招いたハプニングで貴方達はただ旅行を楽しんでいる観光客ですか?」
「わぁ……貴方びっくりすると少年みたいな顔になるのねぇ……これは確かに、悪くない感じだわ」
 正面から優雅に歩いてきたオフェリアは、いつものようにゆったりと言葉を並べてから、優雅にラティーフに目礼をした。
「お久しぶりね紳士方。一か月ぶり? ああ、でもまだ一か月か。結構あたしたち仲良しなのね、一か月も我慢できずに会いに来ちゃうんだから」
「……会いに? 私達に?」
「そう。貴方達に。チリが旅行行きたいって煩いから、みんなで思い出作ったり写真撮ったりするついでに友達にも会えばいいじゃないって思ったのよ。あと、アレのお届けも、ついでにね」
 アレ、と後ろを親指で指さすオフェリアに促された先には、モールのベンチにぐったりと座り込む赤毛の青年の姿が見えた。その隣に腰掛けたノルは、私に気が付くと笑顔で手を振る。
 きっかり五人。リトル・ヒューストンの面々は全員揃って、アブダビの街のど真ん中に立っていた。
「大変だったのよ、外に出る特訓。真夜中に二時間かけてチャックを引きずりだしてさ。それから毎日三十分の猛特訓。まあね、あたしたち好きで特訓したんだし、あなたに恩着せがましく報告するものじゃないんだけど、でもほら、本人の努力はやっぱりアピールしとくべきでしょう?」
「……彼、生きていますか?」
「大丈夫よ。人間が怖いだけで別に飛行機苦手だとか海の上が駄目だとか、そんな事ないんだから。英語通じないだけ異国の方がマシなんじゃない? だって誰かに自分を認識されるのが駄目なんだもの。ただ暑いのは思ってたより駄目みたいねぇ……チリは元気なのにねー」
「日本も亜熱帯だから平気だよ〜東京の夏は地獄〜。でも流石に砂漠の国の方が! 暑い! やっててよかったジョギング!」
「まだ三日目なのに効果が表れてるわけないでしょ。ああ、ほら、あたしたちとは後でゆっくりお話ししましょ。私達のホテル、あなたのお家に近いからいくらでもお喋りできちゃうわ。あたしは星を見るツアーに申し込んだけど、あの引きこもりはそんな体力ないと思ったからお留守番。介抱は任せたわよジェントルメン」
 さあ、と背中を押されて、私は信じられない思いでラティーフを見る。甘い笑顔を湛えた年下の友人は、私の愛する寛容さで私の背中を二度ほど叩いた。
「車は私が使うぞ。申し訳ないが家まではタクシーで帰ってくれ。私は友人達をホテルまで送り届ける運転手だ」
「本当にすいません……俺に国際免許があれば……」
「ああ、気にしないでくれグレッグ。私は割合運転が好きなんだ。砂漠のホテルまでの二時間のドライブも苦痛じゃない。私の住む少々暑いが素晴らしい街を、存分に案内するよ」
 ノルのお陰ですっかり英語に堪能になったラティーフは、今や通訳を必要とせずに友人と会話を楽しむ事が出来る。彼らの気さくな会話を後ろに聞きつつ、私はベンチの前に膝をついた。
 青い顔で息をする青年は、私に気が付くと大きく息を吸って、そしてゆっくりと吐き出した。
 どうやら泣いてもいないし、吐いてもいないらしい。それならば確かに、問題など何もない。
「チャールズ。……大丈夫ですか?」
 相変わらず私はごく当たり前の心配しかできない。ごく当たり前の気遣いに、チャールズはやはり頭を横に振った。
「大丈夫なもんかよー……しぬ、かと、思っ……つか待ち合わせ……せめてもっと、人が少ないとこにしてくれよ……」
「この街で人影が少ない場所となると砂漠になってしまいますがね。飲み物かなにか買ってきましょうか?」
「いい……この前よりは、まだ、平気になったんだよ、マジで。だから、たぶん、死なない」
「死んでしまったら困りますよ。歩けるようならば人のいない場所に移動しましょう。確かに随分と具合はマシなようですね」
 そうでなければあの愛情深い友人達が、彼を人混みの中に連れ出したりはしないだろう。大丈夫、と、そう思ったから引きずり出してきた筈だ。
 それにしても無茶をしたものだ、と若干呆れてしまう。
「よくもこんなところまで来たものです……もう少し涼しい場所の方が、皆さん過ごしやすいでしょうに」
 そう言った私に対し、ちらりと視線を上げたチャールズはまた俯き床を眺めながらぼそりと口を動かした。
 だって、会いたかった。
 そう言った彼の言葉が聞き間違えでないとわかるまで私は息を止めてしまい、そして湧きあがる熱に浮かされて崩れ落ちそうになり、慌てて頬を叩いて理性を呼び覚ました。
 危ない。勢いで抱擁してしまいそうになった。こんな人前でイスラムの戒律を破る行為は流石にできない。
 私があまりの愛おしさに全ての感情を飲み込みながら人知れず悶絶していると、皆のところから駆けてきたオフェリアが呆れたように声を投げてきた。
「いかがわしい雰囲気出してると逮捕されちゃうわよ。いやよ、トモダチが豚箱送りなんて。みんなで一緒に帰りたいから人のいない場所に早々にしけこんで頂戴ね。チャックこれ、忘れてたわアンタの荷物預かってたんだった。これで全部? 大丈夫ね? まあ大丈夫じゃなかったらいつでも連絡したらいいわ、ここは友達の国だから。迷う事があってもどうにかなる。じゃあイーハ、うちの引きこもりをよろしくね」
「……貴女は、本当に友人がお好きなんですね」
「そうよ。知らなかった、なんて言わせないわよ。あたし結構わかりやすいんだからね。ああ、そうそう、あたし貴方の事も好きよ。友人として、あたしは貴方を愛している」
「存じております……と言うべきところでしょうが、実は意外です。私は貴女にあまり好かれてはいないのではないか、と思っていましたので」
「嫌いじゃないわ。ちょっと喋る時に緊張しちゃうだけ。貴方本当にとても真面目な人だから、あたし、怒られちゃいそうで緊張するんだわ。でも好きよ。そういうことだってあるわよ。ちょっとだけ苦手だけど、好きなんだわ」
 彼女の言葉は少々私には難しく、感覚の共有も難しい。けれど想像できない程ではない。私とオフェリアは基本的にはあまり共通することがない人間なのだろう。それでも友人だと言えるのなら、これは素晴らしいことなのだろうと思う。
 私は彼女の寛大な愛の事を考える機会を持とうと決めた。しかしそれは今日ではない。今は、世界に対してどうにか立っている青年の手を握らねばならない。
「王様をよろしく、秘書さん。……あたしが居ない間にチリが失礼な事ばっかり言ったと思うけど、あの子ホントにデリカシーがないだけですごく貴方の事好きだから気にしないでね。……でも、プラスチックってね、確かに冷たくも暖かくもないけど、熱にすごく弱くてすぐに溶けちゃうのよ。ドロドロに溶けて、そしてすぐに固まっちゃう。なんにでもなれる、どこにでも必要な素敵なものだと思えば悪くないかもね」
 じゃあねと手を振って、優雅な女性は他の四人を引き連れて行ってしまった。彼女の言葉はやはり私には少々ロマンティックすぎるが、嫌いではないと思う。苦手だが、嫌いではない。
 残された私とチャールズは、まずはお互い息を落ち着けて現状をしっかりと飲み込むことから始めた。
 何と言っても私は今朝、いつも通りに目覚めた。いつも通りパソコンを開き、いつも通りあまりにも難しく今やほとんど勝つことなどできない二人だけのゲームの次の手を考え、朝食を取り、そしていつも通り眠りにつくつもりでいたのだ。
 それがどうしてか、隣にはチャールズが居る。
 どうにかして会いに行けないものかと毎日飛行機の日程を眺めていたというのに、何故か、彼の方が私に会いに来てしまった。
 浮かれそうになる気分を無理矢理押さえつけ、私は次に何をすべきか考える。
 まずはタクシーに彼を押し込むべきだ。外は暑すぎるし、だからといって冷房の効いた施設内は観光客であふれている。とりあえずは私の家に、と提案すると、少々顔色を取り戻した青年は大変大人しく頷いた。
 ごく自然に手をつなぎそうになり、不自然に身体を引いてしまう。それに気が付いたチャールズが、落ち着け馬鹿と詰る声まで私には甘く聞こえた。


→next