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11



 その日最後に病室に駆け込んできたのは、南半球から飛行機で駆け付けたノルだった。
「チリ、たお、倒れたって……っ!」
「落ち着いてノル、声が大きいわ。個室だって言ってもここは病室なんだから」
 唇に人差し指を当てるオフェリア嬢は、病室の前まで全力で走って来た自分をすっかり棚に上げている。
 最後のリトル・ヒューストンのメンバーを迎えた個室は酷く混雑していたが、誰一人帰ろうとしなかった。そのうちに私の主人も到着し、ついに彼女の見舞い客は私を含めて六人になった。チリを含めれば七人。五人のリトル・ヒューストンの住人と、二人のアブダビ市民だ。
 中央のベッドの上で仰向けに寝たまま、首を動かしたチリは曖昧に息を吐いた。まだ本調子ではない彼女は、いつものようにカラカラと、高い声で笑えない代わりに弱々しい息を吐く。
 しかしながらほんの二時間前までは本当に真っ青な顔をしていたものだから、息を吸って吐いているだけでも充分だ。随分な回復っぷりに私は、何度目かわからない安堵の感情を覚えた。
 枕もとの椅子にはオフェリアが。その向かいにグレッグ。彼の隣にはノルが立ち、ベッドの足元の椅子にはチャールズが座っていた。
「ノルごめんー……旅行、そのままで大丈夫だったのに。なんで帰ってきちゃったのー……」
 か細い声で謝るチリに、ノルは三回大きく瞬きを繰り返してから答える。これは彼が、とても驚いているときの表情だ。
「何言ってるの帰ってくるよだってチリ、救急車呼んだんでしょ!? 廊下に倒れたまま、動けなくなったって、それ大変じゃないか……!」
「うーん、確かに、わたしもびっくりしたー……でもほら、生きてるし。ええと、死ぬような病気じゃない……んだよね、オフェリア?」
「重い子宮内膜症ですって。男性にはピンとこないかもしれないけれど、婦人病の一種ね。それ自体は女性にとって身近な症状だけど、重くなると貧血がひどくなったり、こういう風に日常生活送れなくなる程身体に影響及ぼしちゃう事もあるのよ。というわけでチリは今週手術。しばらく入院」
「……チリの命に別状はない? その手術絶対成功するやつ?」
「とんでもない医療ミスと不運が重ならない限りは問題ないわよ。倒れたままだったらどうなっていたかわかんないけどね」
「うん、でもさぁ、……チャックが運んでくれたから」
「チャッ……チャック!? うわ、ほんとだチャックがいる!?」
「お前入ってきた時に気が付けよあとホントうるせーよここわりと高い病院なんだからちょっとセレブぶって声のトーン落とせ。あー……これで揃ったな、リトル・ヒューストン」
「揃ったわよ、リトル・ヒューストン。まったく久しぶりにみんなバラバラに孤独を楽しんでいると思ったらこれだもの。でもまあ、全員無事揃ってなによりだわ。あたしたちやっぱり、ちょっと狭いところでぎゅっと寄せ合って生活してるのがお似合いなのよね。一人も悪くないけど、誰かが何かを喋っていていつも煩いくらいが落ち着くわ。……グレッグ、生きてる?」
「――生きてるよ。まだ、落ち着かないだけだ。結構、その……死ぬ気で走って来たから」
「あんたが一番早かったものね。悔しいわ、あたしが一番だと思ったのにさ」
 オフェリアは少し低く、ゆるりとした笑い声を零した。チリのカラカラと煩い笑いに慣れてしまった私には、少々不思議な響きに聞こえる声だった。
 静かに落ち着かない談笑を始めるリトル・ヒューストンの五人を眺めながら、壁沿いにそっと移動した私は己の主に一礼をした。
「長旅お疲れ様です、ラティーフ。申し訳ありません、私がチケットの手配をできなかったばかりに、お手を煩わせてしまい――」
「いや、問題ない。というかお前こそ無事で何よりだったよ。私は飛行機のチケットくらい自力で手配できる大人だからな。今にも走って海を越えそうだったノルを落ち着かせてカウンターに掛け合うことくらいは問題なくこなせたさ。お前はここでチャックのサポートに徹するべきだったし、実際にそれが最善だったと思うよ」
「サポートと言っても、隣に立って見守るくらいしかできませんでしたよ。チャールズは完璧でした。私の些細な手出しなど必要ない程に」
 そう、チャールズは完璧だった。
 買い物から帰って来た私は、鍵も開けっ放しなリトル・ヒューストンが無人である事にすぐに気が付いた。玄関先にチャールズの走り書きが置いてあったからだ。
 チリが倒れたから病院に行く。みんなに連絡入れといて。
 そう簡潔にまとめられたメモの上には、私が携帯し忘れた携帯電話が置かれていた。
 普段は肌身離さず持ち歩く仕事道具だ。それなのに長い休暇のうちに使うことも稀で、すっかり存在を忘れていた。私の主人は休暇中に一々思い出を報告してくるタイプではなかったし、私もまた彼にどうでもいいような愚痴や機微や相談を持ち掛けるタイプではなかったからだ。
 とはいえとても大変な時に何の助力もできなかった私は、反省もそこそこにまずはリトル・ヒューストンに施錠し、病院の住所を調べてからノルに連絡した。彼から連絡先を聞き、次はオフェリアに。そしてグレッグに。
 病状は私にはわからなかったが、とりあえず意識はある事とチャールズが付き添っている事を出来るだけ冷静になるように心がけながら伝えた、筈だ。……もしかしたら随分と支離滅裂な言葉を並べていたかもしれないが、残念ながらほとんど私の記憶にない。
 私はただ、チリが無事に病院にたどり着き適切な処置が施されるように、そして彼女に付き添っている引きこもりの青年が自我を保っていられるように、それだけを願い走った。
 イギリスの病院は乱雑としていて人間で溢れていると聞いたことがある。しかし私が駆け込んだ病院は清潔で、そして至極スムーズに私は病室に案内された。どうやら混雑しているのは公共医療を提供する病院であり、私立の病院はサービスも充実しているらしい。勿論代償としてそれなりの金銭がかすめ取られるわけだが、死ぬよりマシだとチャールズは呟いた。
 全くだ。死ぬよりマシだ。本当にその通りすぎて、私はどうしてか酷く泣きそうな気持になった。
 チャールズは完璧な付添人だった。医師が質問した事には的確に答え、うろたえる事など全くなく、毅然と立っていた。
 私が心配する事などなにもなかった。助力を求められることもなかった。彼は、チリの為にやれることをすべて完璧にこなした。
 私は本当にただ、壁際に立って二人を見守る事しかできなかった。
 ……私が壁際で見守っていようがいまいが、チャールズの完璧な働きと医師の完璧な処置で、チリの容態は無事に回復した。
 今にも消え入りそうな声で謝る彼女に、私とチャールズはいいから寝ろと言い聞かせた。数時間もすれば皆駆けつけてくるだろう、と思ったからだ。チリは友人に、とても愛されているから。
 チリを愛する友人達はやっと一息ついた様子で、まずはチャールズが手を叩いた。彼はヒューストン会議の時に、以前もそうやって手を叩いていたような記憶がある。
「よし、じゃあ、あー……手術の相談はオフェリアがしといて。チリも俺よりオフェリアの方がいいだろ? 同性だし。実家には、どうする? 連絡する?」
「……しないと駄目かなー」
「いや死ぬような病気じゃないならいいんじゃねーの別に。余命何カ月だとか言われたらそりゃ、考えるけど。俺ならしないね。面倒だし。っつーことで実家にはオフレコだな? あー、あとはまあ、明日でいっか。ノルおまえ荷物はどこやったんだよ」
「え。ええと空港に置いてきた……んですよね、ラティーフ?」
「ああ、急いでいたからな。今は預かってもらっているよ。もし時間があるならば今から取りに行ってくるが」
「では私が――」
「いやイーハ、お前は彼らと一緒にいてくれ。私はどうせ暇だからいいんだよ。イギリスの街をゆっくり散歩するいい機会だ」
「あ、僕も行きます。なんかチリ、ちょっと元気そうだし病院の話はオフェリアがしてくれるなら、僕も暇です。グレッグは残る?」
「ああ、うん。俺はオフェリアと一緒に帰るよ。もし遅くなるようなら、オフェリア一人だと危ないだろうし」
「オーケーじゃあ任せたぞボディガード。ノルと旦那は空港からリトル・ヒューストンへ。オフェリアとグレッグはもうちょい病院な。……じゃあ、俺、ちょっと席外していい?」
 一通り取りまとめたチャールズは、ふらりと立ち上がるとそのまま見事に倒れそうになる。あまりにも自然に重心が傾いたものだから、彼が倒れかけたのだと気が付くのが遅くなってしまった。
 慌てて腕を伸ばし支える。驚くほど冷たい体温の青年は、震える声で私に向かい、ちょっと付き合ってと言った。
「あんた、まだ休暇中だろ。旦那についてかなくてもいいんだろ。……ちょっと来て。旦那、こいつ借りてく。夜には返すから」
「……何に必要かはわからないが別に、あと二日後に返してくれれば構わないよ」
 なんと軽薄な主人だろう。などという軽口を言えるような余裕もなく、私はふらふらとしている割に力強いチャールズに引っ張られ、病室を出てそのまま廊下を突っ切り尚も引きずられる。たどり着いたのは裏口と思しき小さなドアの向こうだ。駐輪場に近い出口には人影もなく、建物の影になっているせいか些か薄暗い。
 夏を控えた時期だというのに、この国の空気はまだ冷たい。いつの間にか日が暮れ始めているせいかもしれない。
「チャールズ。……大丈夫ですか?」
 他に何と声をかけたら妥当なのか、私にはわからなかった。とてもありきたりな言葉だ。特別でもなんでもない、当たり前の気遣いだった。
 しかしチャールズは驚く程素直に首を横に振る。そして私の手首をつかみ、正面から肩口に寄りかかった。
「……チャールズ?」
「だめ、死にそう、むり、ほんと……テンパってたから、動けてた。たぶん。みんな来て、集まって、全員の顔見て、チリが目ぇ覚まして、安心したらもう、駄目だ。……息が、しんどい」
 たすけて。と掠れた声が耳元を擽る。なんとも言い難い憐憫のような感情が湧きあがる。同時に私に凭れかかる彼に対する酷く甘やかな庇護欲のようなものも押し寄せたが、恋情に近いその感情は今は必要ないと判断し押し殺した。彼に必要なものは、同情でも恋情でもない。ただ、安心して息を吸って吐ける場所だ。
 薄い背中に、そっと手を添えて静かにゆっくりと叩く。掠れたような声のチャールズは、まだ泣いてはいない。
「……俺ちゃんとできてた? ちゃんと、動けてた?」
 絞り出すような声は水っぽく滲んでいたが、それでも、彼はまだ泣いてはいない。私は出来うる限り力を入れないようにチャールズを抱きしめた。
「貴方は、完璧だった。受け答えも、行動も、全て、私の目にした限り素晴らしい付添人で同居人でした」
「俺しかいないって、思ったから。……そう思ったら、怖いとか、そんな事言ってる場合じゃなかったし……チリが」
 チリが死ななくて良かった。
 そう言ったチャールズは、湿った息を震わせる。
「…………でも、やっぱ駄目だ。足がさ、もう無理、立ってらんないの。笑っちまうくらい、震えてんの、俺……怖い。どうしよう、ここ、怖いんだ。……イーハ、だからさ、キスしてよ」
「……は?」
「キスして。俺をどうにか世界に立たせて。できんだろ、ムッツリアイリッシュ、俺知ってんだぞアンタのキスすげー気持ちよくて、なんか、周りとかどうでもよくなる……」
 だからキスを、と私に詰め寄る彼の口を、流石に塞ぐことに抵抗があった。
 チャールズは今正気ではない。本人も自覚している通り、四年ぶりに急にフラットの外に出た事によりパニックに陥っている。息も浅く、貧血を起こしているように顔色も悪い。
 いくら落ち着ける為とは言え、息をするための口をふさぐ行為は推奨されないだろう。大真面目にそう判断した私は、かなり迷ってから彼の額と鼻の頭と頬に軽くキスをした。
 ささやかなリップ音を残した後、今度は思い切り抱きしめる。
「……いまはこれで。すみません、流石にその、本格的なキスは体力と精神力を全て使い切った貴方にけしかけるものではありませんから。チリと同じように体力が戻りいつもの軽口が戻ったら、いくらでも攻め立てて差し上げます」
「言い方エロイからやめろ想像した……けち。いーじゃんちょっとくらい。ばか。エロ。スケコマシ。タラシ。…………じゃあぎゅってして」
「しておりますよ。これ以上力を込めたら貴方の細い身体が折れてしまいそうです」
「お姫様じゃねーんだから流石に折れねーよ……あーでも……」
 安心したら、駄目だ。と呟いた彼は、直後ふっと意識を失った。私の腕の中で急速に重さを増していく身体を落とさぬようにふらふらと受け止め、どうにか苦心して壁際に横たえる。女性だったならば抱きかかえてタクシーに乗せることもできそうだが、流石に身長のさほど変わらない成人男子をひょいと抱き上げる体力もなく、おとなしく私は病院内の医師か看護師に協力を要請する事にした。
 四年ぶりの外の世界なのだ。一体どんな思いで彼がここに立っているのか、私には想像もできない。
「……お疲れ様でした、チャールズ」
 出来る事ならば今日はゆっくりと休息してほしい。その為にもまず私は、彼が愛するリトル・ヒューストンへ、彼の身体を運ばなくてはならなかった。


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