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10



 嵐は一晩で過ぎ去って、翌朝は空の洗濯でもしたのかよってくらいの晴天だった。
 リトル・ヒューストンのダイニングは割合日当たりが良い。やたら眩しい部屋に目を細めつつ、シンクに立った俺は無心でアニメ柄のマグカップを洗っていた。
 家事は分担というか、『自分の事は自分でやる』スタイルがリトル・ヒューストン流だ。だから俺だって洗い物くらいは出来るし自分のパンツは自分で洗濯するし、週に一回くらいは自室の掃除をする。
 だからと言って助け合わない事もない。俺の仕事が修羅場の時は、ノルが一緒に洗濯してくれたりする。オフェリアもたまに納期に追われて引きこもるから、やっぱり他の四人の誰かがサンドイッチ届けたり皿洗ったりもする。だから俺がチリのマグカップと食器を洗う事には何の抵抗もないし不満もない。
 嵐が過ぎ去っても体調がすぐれないままのチリの為に、イーハは鎮痛剤と食料を買いに出かけた。相変わらず真っ黒のティーシャツにシルエットが微妙にダサいチノパンだったけど。あんたなんでその服選んだのって聞いたら『安かったので』という想像通りの答えが返って来たけど。まあ、だよな。そうだと思った。ていうかそれ以外の答えは予想できない程、俺はすっかりイーハっていうキャラを把握してきていた。
 イーハ・オコナーはたぶんアレだ。タラシだ。
 あんなサラッとした顔しておきながら、淡々と繰り出される言葉は馬鹿みたいに痒い。どろっとした甘さじゃないのになぜか痒い。恋愛映画の中にぶちこんだら精々タクシーの運転手とか行きつけのパン屋の店主とか、そんな端役にしかならないだろうに。どう見てもRPGの村人みたいな顔で、次々と理解に及ばない速度で口説いてくる。
 俺がアイツに昔の話をしたのは、同情される為じゃなく、素直に己のクズさをアピールする為だ。
 だからアイツが慰めたり耳に心地いい言葉を連ねなかったのは、俺にとってありがたい事だった。今更『あなたは悪くない』とか言われてもどうしようもない。誰が悪いかなんて問題とっくにどうでも良くて、ただ俺は屑でそして今もそれを引きずっている。それだけだ。
 受け入れてほしいなんてこれっぽっちも思っていなかった。けれど多少は怯む筈だと思っていた。
 実際のイーハは俺の屑過ぎる話をあらかた聞き終えた後になぜか全力で口説いてきやがったわけだけど。……思い返しても意味が分からない。人間苦手だっつってんのにキスとかしてきやがる馬鹿がいるかって話だ。人の話聞いてたのかよマジで。
 堂々とキスとかしてくる割にやっぱ雷は怖いらしくて、膝に乗せられたまま思いっきり抱き着かれて変な声が出そうになった俺は悪くない。いつもみたいにさっぱりと固めていない髪がちょっと乱れて頬にかかっている様が腹立つ事に若干、本当に若干、悪くなくて余計に俺は死にそうだった。
 思い出すとあーあー叫びそうになる。叫びそうになるから敢えて無心になるようにマグカップを擦るのに、頭んなかはアイツとの溶けるみたいなキスでいっぱいだ。
 キスうまいとか反則だろ。あの顔でさ。いや顔は悪くないけど、イケメンかって言ったら別にそうでもないというか三白眼こえーし絶対にラティーフの旦那の方がハンサムだ。でもラティーフの旦那が超絶テクニックのディープキスをしてきても『ふーん、まあ、ですよねー』と思うけど、あの仕事以外の日はただひたすら辞書を捲っておりますみたいな顔した秘書野郎がとろっとろのキスかましてくるなんて、反則すぎる。
 俺はいまいち日本のゲームのギャップ萌えって奴がよくわかっていなかった。でも今ならわかる。つまりこれはギャップ萌えって奴だ。
 なんでも出来る癖に雷が怖いとか言う。
 普段は冷静な癖に俺の事になると感情先走ってわけわかんない事言いまくって、全部口から出た後に勝手に反省していたりする。
 恋愛なんて興味ありませんみたいな顔してるくせにキスがでろでろに優しくて恥ずかしくて死にそうになるくらい甘い。
 ……絶対俺なんか相手にしている場合じゃないだろう。イーハ・オコナーは認めるのが癪だけど十二分に魅力的な男だ。十歳も年下の、イギリスのフラットから一歩も出れない夜行性の引きこもり男にちょっかい出してる時間なんて無駄すぎる。
 きっと女のエスコートもうまい。さらっと手とか出すに違いない。
 そう思って想像しようとするのに、俺の頭の中でアイツに手を引かれているのは美女でもチリでもオフェリアでもなく俺で、ナチュラルに隣に居る事が自然になってきちまってる現状をうっかり客観視してしまってまた死にそうになった。
 死にたいわけじゃない。なんていうか、死にたいわけじゃないけど恥ずかしくていたたまれなくて死にそうだ。
 結局昨日は一晩中ベッドの上でうっかりだらだら、もといどう見てもイチャイチャしてしまった。ほんと死にたい。やばい。ヤバすぎて俺の語彙力が死ぬ。最悪だし最低だ。でもなんか久しぶりに爆睡して目覚めがすっきりしていたのも腹立つし、寝起きで髪の毛乱れまくったアイルランド人におはようのキスを食らってそのままベッドに沈んだのもどう考えてもアレだった。死にそう。無理。やばい。なんだアレタラシか。タラシだ。ていうかもうこんなんアレじゃん付き合ってるみたいなもんじゃん。
 日本の恋愛ゲームしてると、ホント日本はわかりやすくていいよなーと感心する。付き合ってください! 好きです! ってさっぱり口にだして始まる契約みたいな恋人関係はわかりやすい。俺達欧米人はそういうのない。何回かデートして、何回かキスして、なんとなく恋人になる。
 このままだとなし崩しに俺とイーハもそういうアレになっちゃいそうで、明るい日差しの中で大真面目に額を押さえて唸った。
 ……別に、嫌いじゃないけど。レスポンスが早いから喋る事自体がゲームみたいで割合面白いし、顔も悪くないし、背が高いのだけはまだちょっとこえーけどアイツ基本座ってるか膝ついてるからそこまで意識することはないし。キスも悪くなかった。
 でもやっぱ俺は怖い。人間が怖いし恋愛なんてものはもっと怖い。流されて失敗するのは嫌だし、今の平和な状態をうだうだとした感情の渦でかき混ぜたくない。
 恋とか愛とかってエネルギー使う。めちゃくちゃ疲れる。感情全振りのジェットコースターだ。上がって上がって急降下するだけの体力がない。メリーゴーラウンドの馬にまたがってだらだら手を振っているくらいのアップダウンで生きていきたい。
 疲れる事は、嫌なんだ。
「…………っあー…………あー。……しんど」
 でも勿論こうやってうだうだ死ぬほど言い訳して嫌だ嫌だなんて抵抗しまくってるのは、とっくにそっちに引っ張られて感情が一方通行の入口にスタンぱってるからだ、って事も知っている。
 無理。ほんと無理。吐き気はしないけど腹とか胸とか食道の奥になんか詰まってる感じ。しんどい。考えたくない。
 考えたくない一心で磨いたチリのカップは印刷が剥がれそうな程ピカピカになっちまった。どうせなら靴とか服とか毛布とか一気に洗っちまおうかな。今なら全てを最高にピカピカにできそうだ。
 なんて考えながらシンクのタオルで手を拭いて、自室に戻ろうとした時だった。
「……チャック…………」
 廊下の奥から、ゾンビみたいな声が掛った。
 思わず無言で身体を揺らしてしまう。びくっとしたところ見られたかもしれない。クソ。お前がそんなゾンビみたいな声出すからだぞ、と口から出す言葉を準備しながら奥の部屋を見た俺は、今度こそ本当に声を失くした。
 チリが廊下に座り込んでいた。
 かろうじて倒れていない、って感じで、壁に手を付き荒く息をしている。視線は床だ。こっちを見る力もないのか、弱々しい声で、まるで泣いているみたいな声がした。
「チャックー……どうし……わたし、……痛い…………痛いよぅ……………」
「チリ!? ちょ、おま……痛いって、どこが、」
「お、おなか、いたい、いたいー……なに、これ、怖いよぉ……いたい、……ぅ、……うえ………むり、もう、動け、な……いたい、いたい、いたい……」
「落ち着け、な、ほら立たなくていいからとりあえず横になれ! 薬は? 飲んだのか?」
 俺の問いかけに、その場で胎児みたいに丸くなったチリは真っ青な顔で頷く。唇が馬鹿みたいに青い。顔色が悪いって表現いままであんまりよくわかってなかった。けどこれは確かに、誰だって心配する色だ。
 チリは腹が痛いと何度も訴え、荒く呼吸をする。ぜえ、はあ、と肩を揺らしてそのうち唸るように泣き出した。痛くて、痛くて、耐えられないらしい。
 一瞬でパニックになりかけた俺だけど、今リトル・ヒューストンには俺しかいない事にやっと気が付き息を吸いこみ腹に力を入れた。
 何事にも的確なオフェリアはいない。いざという時に割合冷静で度胸のあるノルもグレッグもいない。俺より十歳も年上のイーハもいない。
 チリが倒れた。助けを呼べるのは俺しかいない。
 やっと状況を飲み込んだ俺は、まずはイーハの携帯に電話をかけた。一番近場に居る筈の援軍を呼ぶ筈の呼び出し音は、無残にもソファーの上から聞こえた。
「……携帯は携帯しろよスカポンタン……!」
 数日前のオフェリアの言葉を思いっきりぶつけてやりたい。
 ――あんたが野たれ死んだら誰が見つけてあげるのよ。せめて救急車両くらいは手配できるように、携帯電話は携帯してなさいよ。
 あの思いの外心配性で愛情深い女はそう言った筈だ。クソが、と毒づいてから俺は救急車両の電話番号を探した。
 そんなもの、生まれてこの方呼んだことがない。俺ってば割と健康な生活を送ってきたんだな、と訳のわからない感慨が襲った。
 使わないから何番が救急車の番号かなんてパッと出てこない。あの黄色い車何番で召喚できんのか全然出てこなくて三回くらい打ち間違えしながら検索してやっと覚えやすい999の番号にたどり着いた。
 すぐに電話を手に取る。999。めっちゃ覚えやすいじゃんちくしょう。でもこれNHSだろ何時間待たされんの待たされてるうちにチリ死ぬんじゃねーの本当に大丈夫なのていうかチリはこのまま寝かせといていいの移動させた方がいいの毛布とかかけた方がいいのどうしたらいいの、ほんと、頭がおかしくなりそうになった頃にやっとコールが繋がって、きっぱりした英語のオペレーターが救急? 消防? と問いかける声で我に返った。
「……救急……! ええと日本人の女性が、腹が痛いって倒れて動けなくなってて……顔も青いし、息も上がっていて」
『自力で動けない状態ですか?』
 倒れたっつってんだろクソがと思ったが向こうはプロだ。冷静に情報を聞いてくれてるだけだ。そう自分に言い聞かせてフラットの住所と俺とチリの名前を告げたが、返って来た言葉に俺は本気で笑い声をあげてしまいそうになった。
『すいません、実は今日は大変混みあっていまして。……腹部の痛みですよね? 痙攣、嘔吐、胸の痛み、頭痛、しびれがないようでしたら優先順位が低くなってしまいます。今他の出動要請と状況を見てそちらに行けるかどうか協議しますが――。行けたとしても、三時間程度余裕を見ていただいて――』
 これだからNHSは嫌なんだ。
 保険料払ってる誰もが無料の公共医療は病院に並んでも四時間待ちが当たり前だ。そもそもこいつらの目標が『四時間以内に診察する』なんだから笑える。クソかよ。クソだ。ほんとクソだ最悪だ。
 黄色い車の召還を諦めた俺は、すぐにタクシーの電話番号を検索した。これも俺は使わないから全く知らない。
 とりあえず最初に出てきた会社に、すぐに来てほしいと懇願する。俺の気迫に押されたのかたまたま暇だったのか、十分で着くと返事をもらった俺は、携帯をポケットに突っ込むとほとんど現金の入ってないカードばっかりの財布をひっつかんで、廊下に倒れたままのチリに駆け寄った。
「……チリ、病院行くぞ。タクシー呼んだから、悪い、そこの外まで歩いて。それとも俺が抱き上げてもいい?」
「…………チャック……だって、だってさ、外……」
「うるせーよ黙って介抱されろジャパニーズ。おら持ち上げんぞ。痛いかもしんねーけど救急車待ってたらいつになるかわかんないから今だけ頑張れチリ。吐きそうとかない? つかお前こんな軽いのかよ嘘だろ飯食えマジで」
 抱き上げた日本人の口からは、弱々しい声でごめんねと零れた。チリは泣いているみたいだ。痛みのせいか、申し訳なさか、そんなん俺は知らないしどうでもいい。
 チリが死ななきゃどうでもいい。
「かかりつけとかねーよな? 一番さっさと見てもらえそうなとこ行くぞ。金はあとで分割返済して。俺の使わないポケットマネーから出しとくから気にしないでとりあえず今は息しろチリ」
 息を吸う。息を吐く。
 開け放ったドアの向こうは部屋の中にはない、有機物の匂いで溢れている。恐ろしい、怖い、他人だらけの外の世界。
 もう一度息を吸ってから少し止めて、俺はリトル・ヒューストンから四年ぶりに『外の世界』に足を踏み出した。
 チリが死んだらどうしよう、なんて、怖くて考えたくもなかった。

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