05
ケイティ・ベネットから『HELP!:(』という短いメッセージが届いた時、ミッチはマイルズと遅い昼食をとった後だった。
「……ちょっと僕抜けてもいい?」
どうしたの? とメッセージを返しつつ、マイルズに向かって首を傾げる。対する旧友はサイダーを飲み干して片眉を器用に押し上げた。
「そりゃ、かまわねえけどさ。なんだよ、ステディな女からの呼び出しか?」
「んー。ステディになりたい人の親友、かなぁ」
「おいなんだその話、俺ァ今初めて聞いたぞそんな面白おかしそうなネタ。この前の撮影スタッフの誰かか? 噂になってた女優じゃないだろ!?」
「僕は芸能界関係者とはそういう関係になるつもりはないってば。派手な恋愛は身内のスキャンダルでお腹いっぱい」
「そうは言うけどお前の生活圏で他に誰が――いや待て、急用か? 急用みたいなノリだったよな? オッケーミッチ、そのクソみたいに面白そうなネタは来週のミーティングで報告だぞいいな、わかったな! おらさっさと行きやがれスーパーマン!」
「僕は電話ボックスで着替えたりはしないよマイルズ。ごめん、サンプルできたらすぐ送る。あと、えーと……撮影の日程は多分、同行できる筈だから、その話もまた後で。ほんとごめん」
「いーっての。話したいことは大体ぶちまけたしな。お前の声が早急に聞きたくなったら手っ取り早く電話するさダーリン」
一方的に予定を切り上げられたというのに、何故かマイルズは非常に満ち足りたようないい笑顔で手を振った。
恐らくミッチが誰かに恋をした、という話に酷く興奮しているのだろう。
マイルズはよく『お前はちょっと固すぎるからさっさと恋とかに落ちてぐるぐるしたハッピー感を味わえ』と繰り返していた。あまり恋愛や女性に興味がなく音楽にばかり熱中してしまうミッチの事を、それなりに心配していたのだろう。
ドレッドヘアをサムライのように結んだマイルズは、ラテンアメリカの血を色濃く受け継いでいる。
どう見てもストリート系だというのに、彼からあふれ出す言葉は爽やかで甘く、おとぎ話のようにわかりやすくハッピーだ。華やかでキャッチーなメロディを得意とするミッチにとって、唯一無二で最高な相棒だった。
耳の不調で休養したミッチを心配していたマイルズだったが、彼もまた自分の仕事に対して悩んでいた。
とにかく自分たちは今、やりたい事をやってリフレッシュした方がいい。そういう結論に至り、結果ミッチはゆっくりと音楽以外の事をすることを目標に休業し、マイルズは初めての映画製作を目標に上げた。
歌は物語だとマイルズはよく口にする。
とくにミュージカルの歌は、その要素をふんだんに含んでいる。歌を創造する人間として、歌詞だけではなく一つのストーリーそのものを作ってみたい。それがマイルズの小さな夢だと言う。
配給会社も決めず、俳優のオーディションもせず、結局のところ友人同士が集まって作る自主制作映画のような扱いではあったが、それでも作品は作品だ。
こまごました音楽の仕事や、マイルズの映画の打ち合わせも兼ねて、二人はよく食事を共にする。
何も今日しか会えないわけではないのだからと言い訳をして、ミッチは表通りからタクシーを捕まえた。
次にマイルズに会う時には、恐らく想い人の話を延々とねだられるのだろう。
日本人の男性に恋をした、と言ったら流石に引かれてしまうかもしれない。そういえば彼とジェンダーの話はしたことがない。もしかしたら保守的な思考かもしれないが、何にしてもミッチが悲しむような言葉をマイルズが選ぶ筈がない、と思えるので、全てを正直に打ち明けるつもりではある。
写真見せろって言われるだろうなぁ。と、ぼんやりと未来のマイルズの興奮っぷりを妄想しているうちに、タクシーは何の問題もなくビーチ・シティのダイナー前に着いた。
入口は珍しく閉ざされ、本日休業の札が掛けられている。
そこでミッチを待っていたのは、うんざりした顔のアルマと、珍しく泣き出しそうなケイティと、そしてけたたましい声で泣く二人の子供だった。
「…………えーと……これは、どういう……アルマ、誘拐でもしてきたの?」
椅子に腰かけ、ぐったりとテーブルに肘をついたアルマは、ちらりとミッチを見た後に長く息を吐く。
ミッチが出会った頃によく同じように息を吐かれたが、きっと彼は疲れた心をそうやって静かに体外に吐き出しているのだろう。
アルマは何かに対して激怒したり喚いて泣いたりしない。いつも感情の一歩手前でそれを飲み込むような気がした。
「凶悪なのは顔だけだっつってんだろ……俺が誘拐計画立てんなら、もっと身なりがよさそうで且つ金持ってそうなおとなしいガキ狙うわ……」
「僕の想い人が犯罪者じゃなくて良かったよ。誘拐計画遂行中じゃないなら、お預かりしてるお子さんってことかな。ご近所さん? 親類?」
「親類だよ一応な俺は関係ねーけどな。ほらケイティ、お前がミッチ呼んだんだろ。来たぞお前のスーパーマン」
「電話ボックスで着替えてきたわけじゃないけどね」
このセリフは今日二回目だ。
苦笑しつつもケイティに歩み寄ったミッチは、彼女の目からぼろりと零れた涙に思わずぎょっとした。
「ケイティちゃんは……ダメな子……」
「うわ、ちょ……急にどうしたのケイティ……!」
「うう……おねーちゃんとマンマに子供達よろしくねって言われたのに……ほんとは子ども怖くてダメだけどアルマにどうにかしてもらえばいいかぁって思って……でもアルマも、こども、ダメで、けっきょく、遠いところからミッチを呼びだしてわざわざ、タクシーで、ミッチ……ケイティちゃん……できないことはできないって言わなきゃ、ダメだったのに……」
「んん。えーとつまり、この二人はケイティの親戚のお子さんで、保護者であるケイティのお姉さんとケイティのお母さんは今不在だから、子守をしなきゃいけないってことかな。そして二人は子守が苦手で僕にヘルプした、で合ってる?」
「あってる……完璧……流石ミッチ……。あたし、友達アルマしかいないし、アルマの友達、ミッチしかいない……」
「こいつは友達じゃねーっつの。おら、ケイティ泣くな気持ちはわかるけど泣くな、おまえ悪くねーよまぁ誰も悪くねーんだけどさ……」
疲れた顔で苦笑するアルマは、珍しくしょぼくれているケイティの背中を叩く。
かなり痛そうな音が響いたものの、この激しいアルマの激励はケイティの精神を多少持ち直させたようだ。
ケイティはアルマがきっとどうにかしてくれるだろう、と思ったミッチはまず、床に座り込んで号泣している小さな男の子の目前にしゃがみ込んだ。
彼の隣には、涙目で立ちすくむ少女もいる。おそらく、少女の方が姉であろう。
「やぁ、こんにちは、リトルボーイとリトルレディ。はじめましてだね。僕の名前はミッチ。君たちの名前を教えてもらってもいい? ええと、きみはちょっと、まだ泣き足りないみたいだから……レディの方がふたりぶん、自己紹介してくれる?」
「…………アベリィ。この子は、弟で、オリバー」
「オッケー、ありがとうアベリィ」
ケイティの補足によれば、アベリィは六歳、オリバーはまだ四歳だという。
まだ学校に上がる前の子どもたちの頭を撫でたミッチは、アベリィを机の上に座らせると、泣き続けているオリバーをひょいと抱き上げた。
流石に、耳の横で泣かれると少し辛い。治療は順調とはいえ、まだミッチの耳は本調子ではない。それでも笑顔を崩さないように心がけつつ、ミッチは相変わらずアルマに背中を叩かれているケイティに声をかけた。
「ケイティ、この家になんかこう、楽器的なものある? 音が出ればなんでもいいんだけど、欲を言うならピアノが好き」
「えー……あー……ウクレレとタンバリンとマラカスなら、どっかにあったけど。たまにおっさんたちが、夜、演奏してるやつ……。でも、ちゃんとした楽器じゃないと駄目じゃないなら、あたしのアイパッドにピアノアプリ突っ込むけど。今。ここで」
「あ、それでいい。ていうか今そんな便利なものあるんだねぇ僕も後でインストールしとこうそれ。さてそれじゃ、アベリィとオリバーは今からコンサートのお客さんだ。椅子はちょっと固いけど……オリバー、もう座れる?」
ミッチに抱きかかえられたオリバーは、ぽんぽんと背中を優しく叩いているうちに興奮が収まったらしい。
まだぐずぐずと泣いてはいるものの、声を上げて叫ぶような泣き方ではない。とりあえずは落ち着いたと解釈して、ミッチは小さな観客をテーブルの上に並べて座らせた。
「オリバーとアベリィは、好きな歌とかあるのかな?」
インストールが終わったばかりの電子パッドを渡され、ミッチは椅子を引き寄せ、その上に即席のピアノを置く。いつも床で作業していたミッチは、机とテーブルが苦手だ。作業する際は腰の位置に物を置いてしまう。
ピアノの鍵盤が並んだ画面を不思議そうに見下ろした二人の子供は暫く考えた後に、『マクドナルドじいさんの農場』と答えた。
「いいね、可愛くて素敵な曲だ! それじゃあまず最初の演目は、童謡メドレーミックスって事にしよっか」
最初の音を探し、頭の中でメロディを思い浮かべる。昔、子供向けのコーラスの伴奏をしたことがある。その時に一通りの童謡は練習したし、今ほどその経験に感謝したことはない。
発表会ではないし、観客はアルマとケイティを含めても四人しかいない。肩に力を入れる必要はない。リラックスして楽しんで、と自分の脳みそに刷り込むように声に出さずに呟き、ミッチは平らな鍵盤に指を滑らせた。
そこに鍵盤の凹凸はないのに、平たい電子機器からは驚くほど精巧で正確な音が響いた。
軽やかな曲だ。アヒルと牛の姿が目に浮かぶのは歌詞のせいだろう。ピアノだけでは少し物足りないかと心配したものの、ミッチの軽やかで少しアップテンポにアレンジした演奏は見事に子供たちを一瞬で虜にした。
流れるように、二曲目の『The Other Day, I Met a Bear』に移る。曲の途中から歌い出したのはアベリィで、気が付けばケイティがタンバリンを鳴らす音も混じり始めた。
ネットやパソコンに強い少女は、音楽のセンスもあるらしい。本当に何でもできる子で不思議だと思っているうちに、オリバーもついに歌い始めた。
実のところミッチも子供が得意というわけではない。
ただ、音楽学校を卒業してしばらくは仕事が不安定で、ベビーシッターのバイトなどをしないと生活ができない時期があった。
その時に子守の道具として一番役立ったのは、音楽だった。
五曲ほどを続けて滑らかに演奏し、最後にジャン、ジャン、と軽快に鍵盤を叩く。
終わりの合図の後にひょっこりと頭を下げると、最早すっかりミッチの虜となった小さなファンたちは、必死に手を叩いて興奮を表した。
「へー……すんげーな、音楽家……」
少年少女たちの尊敬のまなざしにうっかりいい気分になっていたミッチは、いきなり頭の上から降って来た声に驚き思わず飛び上がってしまう。
少し遠くの席から黙って眺めていた筈のアルマが、ミッチのすぐ後ろからのぞき込んでいた。
「びっ……くりしたー……。アルマ、僕の演奏、聴いてくれてたんだね……」
「いや聴くだろプロの演奏じゃん。なんで俺が音楽に興味ないこと前提なんだよバンドしてたんだっつの」
「あ。そうだったねうっかりしてた。てことはアルマの方こそプロじゃない? 僕はほら、本当は音楽を演奏する方じゃなくて、作る方の人だから」
「そこらへんの演奏家よりうめーじゃんかよ。俺はアマチュアみたいなもんだったし、ボーカルじゃなくてベースだったし、ジャンルも違うし、ピアノなんて触ったこともねーし……森のくまさんがあんなかっけーアレンジになるなんてさ、ほんとアンタすげーんだなってちょっと見直した……」
「森の……ああ、The Other Day, I Met a Bearのこと? あれ、日本だとそんな可愛いタイトルなんだねぇ。童謡とか民謡って結構グローバルだから、もしかしてアルマも歌えたりする?」
「俺が歌うなら日本語になっちゃうけどなー。英語の曲ほとんどしらねーもん。テレビ見ないし、ネットも見ないし。ラジオで流れてくる曲くらいしかわからん」
「ラジオねぇ。……じゃあ、この曲は?」
ピアノを弾いている限り、その内容がどんな曲であれ、子供たちは満足らしい。彼らが文句を言わない事に乗じて、ミッチは少しだけ自分の興味を満たす為に音を鳴らした。
ミッチが奏でたのは軽やかな曲だ。休日の午前中のような、ポップで明るく、それでいて可愛らしい。
前奏だけでアルマはすぐに、その曲を思い出したようだ。恐らくラジオで嫌というほど流れているのだろう。
「これなら歌える?」
「あー……なんだっけ、歌い出し……」
「『怠惰な午後に挨拶しよう』」
「あ、そうそう。ええと……」
怠惰な午後に挨拶しよう。庭のダリアに水は差した。フライパンを温めるのは夜でいい。世界が明日に向かって急いでも、今日の私はうすのろのスクーターだ。
いかにも休日の少女の風景といった歌詞が、アルマの口から流れ始めた。
瞬間、ミッチは演奏する手を止めてしまった。
アルマの歌は、素晴らしかった。
耳につく掠れた声が甘く、息を吸う間際の音がひどく綺麗だ。
急に静かになった店内で、ミッチ以外の全ての観客が首を捻る。しかし当のミッチは最早小さな観客もタンバリンで参加するケイティも、申し訳ない事にすっかり頭から消えていた。
「あの、アルマ、ええと……駄目なら、アレなんだけど。録音していい? キミの歌」
「……は? え、あー……別に、いいけど。何、俺そんなに音痴だった?」
「違う違う、逆。逆だよ、すごく気持ちのいい声で、ほんとびっくりしたんだ。本当にキミ、ボーカリストじゃないの?」
「ベーシスト。歌は、まー、若干舞台とかの仕事で、やらなくもなかったけど。ちゃんとしたボイストレーニングとかしてないから、本当に素人だよ」
気まずそうに視線を逸らすのは、照れているからかもしれない。
普段あまり見る事のない表情に、ミッチの方が何故かドギマギしてしまう。こちらも照れを隠すように、さっさと携帯端末の録音ボタンを押した。
気を取り直して同じようにキーボードに指を置き、同じように走らせてるつもりでも、少々指先が震えているのが自分でもわかってしまう。
これは緊張ではなく興奮だ。感情が溢れて追い付かず、身体と心と耳が全てバラバラになっているような気がした。
流石にすべての歌詞は覚えていないのか、歌の半分程度でアルマは歌う事を辞めた。それでも十分だ。主旋律を歌いきったアルマに、子供たちは素直に称賛の眼差しと拍手を送った。オリバーとアベリィは、すっかり音楽の虜だ。
拍手を受けたアルマはまた恥ずかしそうに視線を逸らすかと思いきや、ふと表情を緩めて笑い、丁寧にお辞儀をした。
顔を上げた時にはもうすでにいつもの仏頂面ではあったが、ほんの一瞬彼が見せた好青年風の態度は、ミッチをさらにときめかせるには十分すぎた。
はぁ、と満足すぎるため息をつき、ミッチは一番近くの机の上に崩れ落ちた。
「あーもう……ありがとう……このデータ、うちの相棒と共有してもいい……?」
「笑いもんにするんじゃなきゃ好きにしていいけど別に。つかこの曲さ、春くらいから延々どこ行ってもかかってるよな。なんか、ほのぼのしてるっていうか、うきうきしてるっていうか、まあいい曲だとは思うけど。耳に残るし、歌いやすいし、聴いててわりと楽しくなるし」
「ありがとう……ぼくがつくったきょくです…………」
「…………え、まじで?」
「『リトル・リトル・キッチンガール』で主人公の女の子が休日の朝に歌う曲でしょーケイティちゃんこの前ちゃんと観たんだからー。ミッチこの曲でなんかすごい賞いっぱい取ってたよね。ってニュースサイトに書いてあった」
机の上にへなへなと落ちてから復活できないミッチの代わりに説明したのはケイティで、どうやらアルマはまだ絶句しているようだ。
いかんともしがたいもどかしい沈黙から、先に復活したのはアルマだった。
「……思ってたよりすげー奴だったんだなアンタ……割とマジでただのストーカーだと思ってた……」
「すごいかどうかはわからないけどストーカーじゃなくて休業中で求愛中の男だってば」
「言い訳はあとでしろ。ガキどもが変な事覚えたらどうすんだ」
「人を好きになることは素敵な事じゃないの。目の前で破廉恥な行為するわけでもないし、口説くくらい別にいいと僕は思うけどなぁ」
「同性愛ってやつはそこまでオープンなもんじゃないんだよ現状な。おら、復活したならピアノの前に座れ演奏者。観客様が待ってんぞ」
思いもよらないアルマの言葉に変に興奮してしまい平常心を乱したミッチだったが、そういえば子供たちに音楽を披露してあげるのが目的だった、と思い出す。
ケイティによれば出かけた姉と母は、おやつ時には帰ってくるらしい。ということは、あと一時間程度でコンサートの時間は終わりだ。
弾きたい曲も、聴かせたい曲も山ほどあるし、アルマに歌ってもらいたい曲も山ほどある。
結局保護者達が帰ってくるまで演奏は続き、その後も夕方までミッチのコンサートは続いてしまった。エマがミッチのタブレットによるピアノ演奏を大変気に入り、どんどんとリクエストをしたせいだ。
ミッチが解放されたのはもう日が暮れるという時間だった。
ケイティの姉には散々礼を言われ、エマからは大量のローストチキンをもらった。またいつでも弾きに来てね、今度はお金を払うわ、とほほ笑むエマはおおらかな中年女性で、目元がケイティにそっくりだ。
ありがたく礼を受け取り、僕でよければいつでも喜んでと握手をした。久しぶりに音楽にまみれた日だ。仕事以外で音楽を聴く事はあっても、演奏することはあまりない。
そういえば慌ててタクシーで乗り付けた事を思い出し、帰りはバスにしようと歩きかけた時だった。
急に腕を引かれ、店の裏手に引きずり込まれる。一瞬慌てたが、相手がアルマだとわかるとミッチはすぐに肩の力を抜いた。
「あれ、アルマ、先に部屋に戻ったんじゃないの。僕の見送り?」
「俺だって他人に感謝することもあんだよ。ほらもってけ」
そう言われて押し付けられたのは、見覚えのある小さな発泡スチロールのボックスだ。
開けずともその中には、カエルの形をしたアイスキャンディが入っている事を知っている。思わず笑ったミッチに対し、アルマは少々不満そうに眉を寄せて見上げてきた。
「……何、お前うちのアイス嫌いなの? なんか、毎日わりと勝手に買って食ってるから好きなのかと思ってたけど」
「うん。好き。好きだよ、ありがとう。勿論フロッグアイスも好きなんだけど、実は僕がもっと好きなのはアルマの方なんだ」
「知ってるよ馬鹿でかい声で好きとか言うな阿呆。……俺だって他人に感謝するし、バイト代の支払い方法だって知ってんの」
ものすごく嫌だ、という態度を貫いてミッチの首に腕を回すアルマが可愛くて仕方がない。アルマは本当に嫌な事は絶対にしない、という事を知っているから、ミッチの心臓はいやでも高鳴ってしまう。
いつも通り、唇を合わせるだけの軽いキスだった。
それでも死ぬほど幸せで、駆け出したい程ハッピーになれる。
離れた唇を追いかけたい気持ちを抑えつつ、ミッチが幸せに浸っていると、至近距離で何かを言いたそうなアルマが見上げたままな事に気が付いた。
「……なに? 僕の顔、そんなにだらしなかった?」
「だらしない自覚はあんのな……。いや……なんでアンタ、いつもクローズドキスなのかなって思って……」
「………………………ん。ん?」
「あ、いや、別に、フレンチキスがしたいわけじゃないんだけど、ほら俺は仕事手伝ってもらったりとか、そういうバイト代的な意味で提供してるわけだから、キスの範囲内なら別に、なんでもいいんだけど。もし俺の事慮ってんなら流石に箱入り娘対応だろって思わなくもない、な、とか……」
「―――――え、日本人ってフレンチキスするの?」
「え?」
それからしばらく二人は無言で見つめ合っていた。
ミッチは心底驚いていたし、どうやらアルマは何を言われたかよくわからずに混乱していたらしい。
ミッチがアルマにしていたのは、閉じた唇と唇をくっつけるだけのクローズドキスだ。何度かキスをする機会はあったものの、舌を絡めるフレンチキスは、一度もしたことがない。
したくないわけがない。したことがないわけでもない。ミッチにとってキスは愛情表現で、勿論今までに経験がないわけではないし、そのどれもが大概は愛を確かめあうフレンチキスだ。
ではなぜアルマに対しそれをしなかったのかというと、単純に、日本人はフレンチキスを知らないと思っていたからだった。
「だって、あの……僕が見た日本の映画では、みんなクローズドキスしかしてなかったよ? だから、あー日本の文化ではキスはこれなんだなーって、思ってたんだけど……」
「…………あー……確かに、映画とかドラマとかって、そんなぐっちゃぐちゃなキスしないな……うちの国の作品……俺もハリウッド映画とかで初めて舌絡め合うキスってやつを見たかもしんない……」
「ね? ほら、してないでしょ? だから日本人はそういうのしないんだって。思って我慢して……うそ、していいの? あ、フレンチキスって問題ないんだね? オッケー分かった、今度からそっちにするね?」
「今度…………」
「うん。今日はもう、なんか幸せでいっぱいいっぱいだから。今日はありがとう。ヘルプしてくれて嬉しかったし、結果たくさん音楽をまき散らせてすごく楽しかったよ。もし嫌じゃなかったら、また歌ってねアルマ」
キミの声が好きだよと囁いて、頬に軽いキスを落とす。
ささやかなリップ音の後に顔を離したアルマの耳は少し赤いように見えたが、もしかしたら夕日のせいかもしれなかった。
→next