01
例えば自分が詩人だったなら、このぼんやりとした時間も非常に有意義だったのではないかと思う。
彼らがどのように言葉を紡ぎ構築し表現するものか、ミッチは知らない。芸術の世界の末席にかろうじて身を置いているような立場であったが、生憎と詩人や小説家に友人はいない。言葉を紡ぐ事を生業としている人々ならば、この青く爽やかな海辺の景色を、想像もできない程豊かに表現することだろう。
しかしミッチェル・ウォーカーは詩人ではなかったので、何時間眺めても海も空も青いだけだった。
かろうじて汗を攫う風が爽やかだなと感じる程度だ。
海が青い。空も青い。日差しも強い。
NYの人々ならばまだ六月なのに、と眉を顰める程だ。風が出ているからまだ過ごしやすいと思えるものの、西海岸のサンタ・カタリナ島のビーチは早くもオンシーズンを迎えようとしている。
人々の会話はざわざわと耳に入ってくるものの、たいして意味を持たずに脳みその横を通り過ぎる。
ただ目に入る情報を捉えてぼんやりと反芻する。
まったく創造的ではないこの数時間のうちに、随分と日焼けしたような気がした。
家の中に閉じこもっていることに飽き、何も考えずにバスに乗り、ロングビーチからフェリーに乗った。
特別どこかに行きたかったわけでもなく、ただぼんやりと『そういえば最近船とか乗ってないなぁ』と思っただけだ。前に海の上に出たのはいつのことだろう。何かしらのパーティーに招かれた際に乗った客船か、それとも無理矢理妹に引っ張られて乗せられたクルージングか。そんなことを考えているうちに船は島にたどり着き、そしてそれから数時間、ミッチはただぼんやりと港とビーチと海と空を眺めている。
青い、暑い、少し涼しい、あと眩しい。
頭の中に浮かぶ言葉は変わらずに単調で、面白みもない事実ばかりだ。
近場にダイナーかレストランでもあるのか、ミッチが腰を据えて海を眺める広場も昼時に少しだけ観光客で賑わった。
カメラのシャッターを押してほしいと二度ほど頼まれ、妙齢の女性に二度ほどお茶に誘われ、もしかしてミッチェル・ウォーカーかと一度訊かれたが、カメラのシャッターを押す係以外は全て曖昧に流した。
一時間前から広場奥のテラスに陣取った男たちは、酒を飲みつつ時折ミッチを指さした。自分の顔を知っている人間が世界にそう何人もいるものではない、と信じているものの、いまやどこでどう画像が出回っているものかミッチにも把握しきれていない。
普段ならば首にかけているヘッドホンから気に入った音楽を流せば無視できるような不躾な視線だ。
残念ながら今日のミッチは音楽に助けてもらえない。ヘッドホンはひっかけているものの、愛用の相棒は沈黙したままだ。陽気なラテンも滑らかで心地よいボサノヴァも、想像の中で流すしかない。
波の音も聞き飽きてきた頃合いで、空はうっすらと明度を下げ始めた。
海の青は深い黒に近づいていく。帰りのフェリーの時刻は確認していない。別に、帰れなくなったらなったで、どこか適当な宿を探せばいいだけのことだ。観光ホテルと別荘ばかりのサンタ・カタリナ島というイメージがあるが、部屋さえ空いているのならば値段はあまり問題ではない。
財布を確認しようとしたミッチは、うっかり携帯電話を家に置いてきた事に初めて気が付いた。外泊を気にするような家族はいない。気ままな一人暮らしだけれど、深夜に急に相棒が電話をかけてきたときに繋がらないと、見た目のわりに心配性な男はすぐさま警察を呼んでしまいそうだ。
仕方ない、そろそろ帰ろうか。と、ため息を吐いたところだった。
「おにーさん、海眺めるならクレセント・アベニュー奥のカフェ紹介するけど?」
ミッチの斜め後ろから投げかけられたのは、少し硬い英語だった。
声は柔らかく掠れているのに、発音がほんの少しぎこちない。かちかちと、きっちりと並べ立てるような音は、多分アジア人だと見当をつけて振り向く。
ミッチから数歩離れたところに、硬質な声の主は立っていた。
日よけのサンバイザーのせいで、表情がわからない。ついに落ち始めた太陽は暗いオレンジ色を発するばかりで、彼の目元を照らしてはくれなかった。
それでもその男性が若いアジア人だという事はわかった。肌の色も、骨格も、腕の細さも、何もかもがアメリカ人とは違う。何より男性はかなり背が低い。
平均よりも随分と背の高いミッチは、彼と並ぶとほとんど子供を見下ろすようになってしまった。
一瞬不躾に観察してしまったが、すぐに我に返り慌てて背を伸ばした。
そのせいで余計に身長差が開いてしまう。しかしその差など気にする事もない様子で、アジア人の男はミッチを見上げて口を開く。
「それ以上前のめりになったら、ぼちゃーんって海につっこんじゃいそうだから。眺めるだけならもっと安全で絶景なとこあるのになーって思ってさ」
特別愛想よく笑ったりはしない。肩から下げているクーラーボックスやカメラから、観光客相手の軽食売りかと当たりをつける。それにしては愛想のない人だ。
彼の不思議な響きの声を反芻した後、ようやくミッチは自分が自殺するのではないかと心配されている、という事に気が付き、慌てて海と自分を隔てる柵から身体を離した。
「いや、あの……別に、飛び込もうとか、そんなつもりは微塵もないんだけど。でももしかしてここって、そういうボチャーンってしちゃう人が多い場所だったりする?」
まるで拳銃を向けられた犯人のように両手を上げて言い訳するミッチに対し、呆れたような間の後に男は笑った。
「いや知らない。俺この辺が地元じゃないし。でもアンタの後ろの酔っ払いたちは、アンタがそっから落ちるかどうかに十ドルずつ賭けてた」
「え。えー……ひどい、いや、ええと心配してくれたのかな……。もしかしてキミは、僕が海に落ちない方に賭けた、とか?」
「まっさか。俺はアンタがそっから海に落ちても別にどうでもいいけど、もし人生に悩んでたり今すぐ死のうとか思ってるなら、そのポケットに残った小銭で今日の仕事の売れ残り全部買ってくれたりしねーかなぁ……と思って近づいただけ」
なんだ、人生悩んでないのか。と彼が呟いた言葉は、何故かすんなりとミッチの耳に馴染みそして思いもよらない軽さで胸の内に飛び込んできた。
あまりにも軽くぶっきらぼうに言われたせいで、少し笑ってしまった。人生に悩んでいてくれていた方がありがたいのに、という彼の言葉が不思議で面白く、身勝手で可愛いと思った。
悩むなとかリフレッシュしろとか考えすぎるなとか、この数日そんな事ばかり言われていた。
大丈夫だよ悩んでないよ疲れてないよと返す事に、正直疲れていた自覚はある。
両手を下ろしたミッチは、少し考えるように空を見上げてからポケットを漁る。薄い財布の中で一番使うのはクレジットカードだが、目の前の彼がカードを切ってくれるとは思えない。ドル札を確認しながら、いくらかと声をかけると、サンバイザーの下の瞳が見開かれたようだった。
「……は? え? ほんとに買うの? いやいいよ、だってアンタ、そんな着の身着のままみたいな恰好でさ、別に観光客ってわけでもないんだろ。俺が押し売りみたいじゃん」
「人生悩んでいたら押し売る気だったんでしょ。じゃあ僕はキミの商売の対象だよ。生憎と海に飛び込むつもりはなかったけど、もしキミが声をかけてくれなかったら三日後とかには別の海に飛び込んでいたかもしれない。僕の一生で一回のダイブで誰かが賭けに勝っちゃうのは癪だから、多分これから先死のうと思っても海にだけは飛び込まないだろうなって思う」
「だから俺はアンタの命の恩人ってこと?」
「そう。ほら、謝礼を受け取りたくなったでしょ。命の恩人なんだから。ああ、でもさ、もしキミが言う売れ残りってやつがとんでもなく高価な宝石とかだったら、ちょっとだけ考える時間がほしいけど……」
「残念ながらそんな有益なもんじゃねーよ」
苦笑した男は五ドルを要求し、ミッチは品物の確認もせずに素直に言われるまま五ドルを払った。
正直その十倍くらいは要求されるものだと思っていたので拍子抜けした。もしかしたら在庫を抱えて帰りたくなかっただけなのかもしれない。
受け取った札を無造作にポシェットに突っ込んだ男は、肩からかけていたクーラーボックスの中から発泡スチロールのケースを取り出し、問答無用でミッチの手に押し付けた。
ひやりと冷たい。
予想していたよりも重くなく、一体何が入っているのかと首を傾げているうちに気が付けば目の前に男の姿は無い。彼ははさっさと港に向かって歩き始めていた。
「あ。あの、これは」
「まいどありー。ないとは思うけど、もし気に入ったなら本土のビーチのどっかにいるからまあ、探してみりゃいつかまた食えるかもよ。じゃあな、カエルのおにーさん」
「フロッグ……?」
随分と懐かしい響きのあだ名を急に出され、彼は一体何者かと焦ったものの何のことは無い。その日ミッチが着ていたティーシャツが、カエルのキャラクターがプリントされたものだったからだ。
まるでスコールのように、男は颯爽と消えてしまった。
暫くぼんやりとしていた。彼は一体何だったのか、そんなことは特に気にならない。ただぼんやりと海を眺めていた男に声をかけ、今日の売れ残りの商品を処分出来た優秀な商売人だ。それ以外の何者でもない。
ただ、彼の掠れた声はミッチの耳にいつまでも残っていた。まるで耳の中に引っかかっているように。
「フェリーの最終まで、あと半時だよ」
またぼんやりと佇んでしまったミッチを正気に戻したのは、老人の声だ。
恐らく後ろのテラスで飲んでいた男たちの仲間だろうが、近くで見ると日焼けした腕はしっかりと筋肉が付き、常日頃から海の上で重労働をしている漁師か船員であることがわかる。
賭けをしていたのは、いざとなれば助けるためだろう。素直にそう思わせる、嫌味の無い外見だ。
「泊まるんなら、宿紹介するよ」
「あ、いや、帰るから大丈夫です。ええと……さっきの彼は、この辺の人じゃないって言ってたけど……定期的に島に来ている人?」
「あー、どうだったかなぁ。そういや、たまーに見る顔だったような、そうでないような……。まあ、何にしてもこの島の住人じゃないなら、俺たちは知らんな」
「そうですよね。うん。……ところで、あなたはどっちに賭けたの?」
「うん?」
「僕が海に落ちるか、落ちないか。十ドル勝ったのは誰かなーと思って」
「ああ。なんだ、それか。それなら俺の一人勝ちだ」
「というと、落ちない方?」
「いんや。俺が賭けた内容は、『お人よしが声をかけて事なきを得る』だ」
それは、確かに彼の一人勝ちだとミッチは笑い、死ぬつもりはなかったんだと男に念を押した後に港に向かって歩き出した。
とりあえずは帰って、自分のベッドで寝ることが目標だ。帰ろうと思うだけでもかなりマシだと思える。何と言っても自分は、あの部屋で鬱々としている事に疲れてこんなところまできてしまったのだ。
暗い海と明るい町の光を眺めつつ、押し付けられたケースの中身を確認していない事に気が付いた。さてこの冷たいケースの中には、一体何が入っているのか。彼は人生に悩んでいる男に、一体何を売りつけたのだろうか。
どうしてか、そんな事を考えるとひどくわくわくしてしまい、静かな夜の中でこらえきれずに笑いを零した。
これがミッチと、カエルの形をしたアイスキャンディーを売る不思議な日本人との出会いだった。
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