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12



ジージー、と、煩い。

「アンタ、カメラなんか持ってたっけ?」

蝉の音の合間に聞こえた声に、有磨は素直に首を振った。

息をするのも暑い夏だ。日本の夏は酷く蒸し暑く、息苦しい。数時間で喉が渇くようなからっとしたカリフォルニアの夏とは、別物だ。

向こうには蝉なんかいなかったことに今さらながら気が付き、別の国だという事を実感する。
ジージーと煩い。
ケイティならば五分で根を上げそうな程の煩さと暑さだ。ミッチならばこの煩い蝉の音に対してどのように好意的な意見を述べるのだろうか。あの男は何に対してもとりあえず否定はしないから、きっと思いもよらないハッピーな意見を口にするのだろう。
そんなことを考えながら、有磨は構えたカメラを下ろした。

「んー。向こうで買った。トモダチがさ、どっか行くなら写真撮って来いってうっさいから」
「ふぅん。だから、わざわざ神社なんか来たがったのか」
「うん。向こうと違うものってパッと思い浮かばなかったんだけどさ、自然よりは文化の方がおもしろいっつーか、深い森と鳥居とかってかっけーじゃん」

地元ではそれなりの大きさの神社も、平日はひっそりと静まり返っていた。
本社にお参りを済まし、静かな遊歩道の途中、何度か生い茂る木にレンズを向けた。

今朝唐突にホテルの前まで迎えにきた姉は、『アンタ暇ならちょっとどっか行こう』と強引に有磨を連れ出した。
姉の鞠那は、昔から少々強引で強気な人だ。昨日見舞いで初めて言葉を交わした彼女の夫は、対照的に柔らかい声で静かに話す人だった。二人の間には三歳になる娘がいる。有磨にとって姪にあたる少女は今、おとなしく鞠那と手を繋いでベンチに座っていた。

息苦しい夏も、鞠那達にとっては慣れたもののようだ。これでも三十度以下だから涼しい方だと笑われ、有磨はいかに己が日本を忘れていたか思い知った。

「アンタやっぱゲイジュツケイなんだねぇ。アタシと大違いだわー」
「どうかね。ねーちゃんだって絵の賞かなんかとってなかったか?」
「いつの頃の話よそれ……小学生とかじゃない?」
「あとカラオケ巧かったじゃん」
「そんなん趣味の領域だっての。アンタみたいに、夢追っかける程真剣になれる特技なんかなかったよ」
「……真剣、だったかな。どうだろ」
「真剣じゃないのにバンド組んでデビューして芸能界行ったの?」
「いや、そらその時は真面目に本気で音楽やってるつもりだったけど。普通の人生なんか嫌だとか、親父の跡なんか死んでも継ぐかとか思ってたせいかもしんないな、とか、思ってさ」
「…………殺されるんじゃないかって感じの喧嘩したもんねぇ……いやー懐かしい。アタシもあんときに『この親ほんきでやべーな』と思ったよ。犯罪したわけでもないし、誰に何した訳でもないのにただ同性愛者だからって切れ散らかしてるおっさんとか、倫理的にアウトだよ。まじでかーちゃんなんでこいつと結婚したの? 正気? って感じじゃん」
「――でも、継いだんだろ、家」
「うん。悔しかったから。女に酒蔵の何がわかるんだとか言われて本気でくそ親父今に見てろって思ったから」

有磨が帰国した翌日、姉と父と三人で二時間ほど話した。
それは会話ではなく、実質ただ怒鳴られているだけのような耐えがたい時間だった。時間が経てば多少はお互い大人になっているのかもしれない。そういう期待がなかったわけではない。
有磨は自分が大人になったとは思えない。三十歳を目の前にしても、結局二十歳そこそこの若造のような気持ちだし、性格が丸くなった実感もない。それと同じなのかもしれない。

四年間で有磨が成長を実感しなかったように、父親も変わりなく横暴なままだった。

一応形式的にでも挨拶をするべきだと畏まっていた有磨に対し、年老いた男は開口一番よくものこのこ帰れたものだと嘲笑し、唖然としている姉弟をただひたすら暴言で嬲った。

本来姉は、有磨と父親の仲介役のつもりで同席してくれていた筈だ。
しかし父親のあまりの剣幕と暴言に、ついに耐えられなくなったらしく口を出し、最終的には有磨そっちのけでの言い争いが始まった。
もう少しで死人が出そうな剣幕の争いを止めたのは有磨の母親と姪だ。怒鳴り足りなそうな父親から逃げるように家を出た時、有磨は初めて姉の涙を見た。

そして有磨は、自分だけこの環境から逃げた事に、初めて気が付いた。

家の仕事を継いだのは姉の夫だ。そう聞いてはいたが、実のところ仕事の采配をしているのは姉自身だという。
夫は良い人ではあったが、酒作りの才能も経営の才能もなかった。何より姉は元々、自分が家を継ぎ酒蔵を継ぐつもりでいたらしい。

その事実は引退した父親には巧妙に隠されていたが、夫の入院で明るみになり、元々溝があった親子の関係は更に険悪になったという。

「別に悲劇のヒロインぶるつもりないからそんな顔すんなってば。出て行こうと思えば、アタシの方が簡単に出ていけたんだから」
「……でも、先に出て行ったのは俺じゃん」
「まあ、まさかアメリカまで行くとは思ってなかったけど。アンタがさ、くそ親父絶対おめーの言いなりになるもんかよって思ったのとおんなじだよ。だからアタシは、割と本気で自分の意思で旦那見つけて、自分で努力して仕事回してた。社員もみんないい人でさ。実質旦那じゃなくてアタシが仕事仕切ってる事、巧妙に親父には隠してくれててさー。まあ、それも結局バレたわけなんだけど」
「俺危うく殴るとこだったんだけど、あいつあんなやべー感じのおっさんだったか……?」
「そうねぇ。年取って落ち着くかなーって、アタシも若干期待はしてたんだけどさー。あのくそ親父、うちの子には結構いいおじーちゃんしてて、丸くなったか? なんて期待したのよ。でもさ、逐一言うわけよ。男の子はまだ生まれないのかとか、婿を取るなら早くの内に声をかけておかなけりゃ、とか。……すげーなおい、って思ったね。かわいいかわいいって目尻下げるくせに、この子の将来をきっちり下に見てくれちゃってるのよ。女なんて所詮家事をして子供を産むだけの生き物だって思ってんの」
「あー……そういやねーちゃん、大学の金出してもらえてなかったよな……」
「そ。女に学なんかいらんだろって。奨学金って便利でありがたくて大好きだよ」
「……次会ったらやっぱ殴るかもしんないわ」
「あはは。傷害はやばいでしょアメリカ帰れなくなんぞー」

さっぱりと言い放った鞠那は、小さな娘に『おじさんこわいねー』と笑いかけた。

たしかに叔父ではあるが、おじさんと呼ばれてしまうと少々抵抗がある。眉を寄せてカメラを構えると、鞠那は娘に顔を寄せてピースサインを作った。
シャッターを押す。カメラを下ろす。ファインダー越しではない親子は、相変わらず涼しい顔で笑っている。

「……ねーちゃん、帰って来いって言ってなかった?」
「言ったけど。アンタ見て、アンタと話して、そんでアンタに怒鳴ってる怒り最高潮のくそ親父見たら気が変わったわ。帰って来なくていーよ。旦那の見舞いに来てくれただけで十分」
「なんだそれ……」
「いや、正直さ、仕事継いだことは後悔してないしそれなりに楽しいし充実してる人生だけど、有磨だけアメリカで遊んでてずるくね? とかちょっとだけ、ほんのちょっとだけ思ってたんだよね」
「…………」
「それってさ、別にアタシに関係のない人にでも湧き起こるちょっとした嫉妬みたいなもんでさ。別にアンタが弟だからとか、関係なくて、会ったら肉親の情が勝ってもうアンタが幸せならそれでいーじゃんって感じに落ち着いちゃった」
「…………なんだそれ」
「つかアンタ帰ってきたら親父かアンタどっちが死ぬでしょアレ。嫌だよ身内で傷害事件とかさ。それにアンタ、向こうに待ってる人いるでしょ。金髪で背の高いイケメン」
「え。何で知っ……」
「んふふ。さっき見せてもらった写真にちらちらいたじゃないの。ほとんど風景写真なのに、彼だけ別枠みたいだった」

にやにや笑う鞠絵に、有磨は思わず言葉を詰まらせる。

アメリカはどういうところかと興味を抱く鞠絵と姪に、有磨はカメラに入ったままのグランドキャニオンの写真のデータを見せた。
確かにあの旅の最中、ミッチの写真を何枚か撮った。あからさまな寝起きの写真や気安い雰囲気を湛えた写真は取り除いた筈だ。それでも、確かに自然の中で佇むミッチの姿は時折写真の隅に現れた。

ぐっと黙り込む有磨を隣に座らせ、鞠那は上機嫌に笑う。家の中ではキリっと口を結んでいた姉が楽しそうにしている様は素直に嬉しいし安心できる。けれどその上機嫌の理由が自分の恋愛話である事に、どう対応していいかわからない。

有磨は自分の性的志向を隠して生きてきた。
日本に居た時代に恋人が居なかったわけではないが、親族に紹介したこともなければ、そういう人間が居ると告白したこともない。二十九歳にして初めての体験だ。

「んー照れるでないよもうイイ歳じゃないの有磨ー。おねーちゃんに教えてごらんイケメンとはどこで出会ったのー」
「セクハラオヤジみてーな顔してんぞ……」
「いいじゃん。姉弟の素敵な会話でしょ。おらおら、出会いを告白なさいよ」
「……サンタモニカ島の展望台付近でぼけーっと海見てたから残り物のアイスを売りつけた、ら、ヒトメボレされた」
「え、うそ、なにそれ最高に運命的じゃないの映画かよ! 待って、有磨、その話最高に楽しそうだからやっぱ今夜飲みに行こう。ね? 行こう?」
「ヤダよおまえ子供どうすんだよ……」
「じゃあ分かった。これから喫茶店行こう。そこで恋バナしようおねーちゃんと。そしておいしい珈琲飲んでケーキ食べよう。ねー、おやつ食べたいよねー」

娘に笑いかける鞠那に、有磨は内心だけでため息をついた。

彼女の笑顔は決して強がりではない事がわかる。色々な事情を背負わせてしまったと思う。本人は否定しても、やはり有磨が背負うべきものを少なからず鞠那は肩代わりしていることだろう。

昨日病室で初めて会った彼女の夫は、危惧していたよりは元気そうだった。術後の経過もまずは問題なく、どうやら無事退院できる見通しが立ったらしい。

娘を抱き上げて駐車場までの道を先導する鞠那は、ほんの少しだけ振り返って笑った。

「なんかさぁ、この歳まで生きるてわかったんだけど、親だからって聖人じゃないし、くそみたいな人間って一定数いるし、逆にさーびっくりするくらい素敵な人もいるわけだよ。ウチの旦那とかもね、いやーびっくりしたよ。こんな天使みたいな人間が存在していいのかって。ウチの親父と同じ成人男性かって。……だからなんてーかさ、好きだなぁって思った人とか、尊敬できる人とか、テンション会うトモダチとか。そういう人に出会った偶然めちゃくちゃ大事にしたほうがいいよ」

子供一人の体重も人生も容易に抱え上げ、いつの間にか結婚しいつの間にか全部を背負い込んだ姉は、後ろの有磨など気にせず颯爽と歩いた。

その背中を追いかけ、有磨はカメラを構える。
シャッターを押した後にねーちゃん、と呼びかけた。振り向いた鞠那は、自分を捉えるレンズに気が付くとまたピースサインを作った。

「……その子、乗り物とか平気?」
「え。車も電車もおとなしく乗ってるけど」
「そっか。……飛行機、駄目じゃなかったらさー、旦那元気になったら遊びに来たら? カリフォルニア。俺居候だからウチに来いよって言えないし、あー……ツレの家も微妙に狭いからアレなんだけど、ウチの隣のホテルは割合安全だし安いしお勧めするよ。サンタモニカ島くらいまでならガイドするし」
「……うっそ。どうしたの急に」
「べっつに。会って話したら、ねーちゃんってねーちゃんだなって思っただけだよ」
「なんだそれー」

あははと笑って、姉は楽しそうに目を細めた。機嫌がいい時の癖は、今でも一緒らしい。

結局この後連れていかれた寂れたような喫茶店で、有磨は言いたくないような事まで根掘り葉掘り質問され、自分の姉のデリカシーのなさを思い出すことになった。
今日は実家に一歩も足を踏み入れていないのに、妙に疲れた。ぐったりとした有磨がホテルに戻りシャワーを浴びたタイミングで、部屋に備え付けられた電話が鳴った。

電話口のフロントスタッフは、かなり安いビジネスホテルとは思えない程丁寧な口調で、国際電話が入っている旨を伝えてきた。
思わず時計を見た有磨がアメリカとの時差を計算している間に、電子音の後に控えめなハローが聞こえた。

「……こっちは夜だからそっちはハローどころか寝てる時間じゃないのかよミッチ。何? 不眠症?」
『えー……まあ、眠れてないのは否定しないけど、うーんもうちょっと歓迎されるかなって期待してた僕ってば自意識過剰……』
「うそ。うそうそ、電話してくれて嬉しいよ。嘘だって。いや、こんな時間に? って心配しただけ」
『ほんと? 僕邪魔じゃない? アルマの素敵な旅行に水差してない?』
「なんだよ急にしおらしくなってさ……アンタ、離れると不安になるタイプだったの?」

電話口の弱々しい声に、申し訳ないと思いつつも笑いが零れてしまう。
気恥ずかしくてつい、ぶっきらぼうな言葉をかけてしまったことを反省する。もう一度ごめんと謝ってから、久しぶりに耳にした軽くて甘い声を待った。

『僕もね、自分でもびっくりだったんだけど、もしかしたらすごく甘えたがりだったのかも……本当はもうちょっと我慢しようと思ったのに、やっぱり耐えられなくて国際コールをプッシュしちゃった。そっちはどう?』
「んー……まあ、想像通りに親父は最悪で、記憶より家族って悪いもんじゃなったよ。親父以外な。あとクソみたいに暑い。そっちは?」
『アルマもマイルズもすっかり仲良しで僕の肩身が狭いくらい』
「例の炎上歌手は?」
『――あんまり進展してないなぁ。結局僕は巻き込まれただけで、僕じゃなくてもよかったみたいだけどね。暇なカメラマンさんたちはたまーに外出する僕を律儀に追いかけてくれるよ』

それでも久しぶりに自分の家に帰ったと苦笑したミッチは、今は正真正銘一人きりらしい。
突然沸いたトラブルに、恐らく心細くなっているのだろう。

ただでさえミッチは耳の不調による休業中だった。
重なるように襲ったストレスは、徐々にミッチを潰しているのかもしれない。

『…………会いたい』

ぽつり、と受話器の向こうから零れた言葉は、有磨の息を一瞬止めた。

ミッチはいつでも寛容で、有磨が何を言っても笑って許して、間違ったことに対しては正すように助言をくれることはあれど、例えば我儘を言ったことはない。
些細な会話をしていても、大切な仕事をしている最中でも、ベッドの上でも、ミッチは常に譲ってくれていた。

『……あ、いやー、えーと……あれだよね、そんな事言われてもって話だよねぇ……うん。ごめん、声聴いて元気になろうって思ったんだけど、なんだか急に――』

ふと訪れた沈黙をどう思ったのか、些か慌てたような雰囲気が伝わって来た。
言い訳のような言葉を連ねるミッチに、有磨は口元を押さえながら応じる。この場にミッチが居なくて良かったと思う。弱っているミッチが可愛くてにやけてしまった口元を見られたら、いかに優しいミッチが相手でも少しくらいは軽蔑されてしまいそうだ。

「……一日早く帰ろうかなって思ってんだけど。明後日。迎えに来てくんない?」
『え。えー……と、いい、けど、でも僕が行っちゃうと余計な人たちを引き連れて行っちゃいそうだし、そうしたらキミも、余計な僕の写真に映っちゃって、余計な噂立っちゃうかもよ?』
「ミッチェル・ウォーカーの恋人は日本人の男だった、って? 別にいいんじゃないの事実だし」
『……こいびと……』
「……何、違った?」
『違わない、違わないです! え、えー、うわぁ嬉しいどうしよう今ね、こんなじかんなのにすごくハッピーになっ……あーもう、アルマ好き。大好き。会いたい』
「落ち着けハッピー野郎。俺も会いたい」

電話向こうで大袈裟に息を飲む男が愛おしく、ふははと笑ってカリフォルニアに思いを馳せて目を閉じた。




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