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02



 ひぃ、ふぅ、みぃと、指折り数えて春を待つ。
 そんな人が指折り数える合間にふと、思い出したように唱える呪文のような言葉があった。
「みまさかの、みどりが来たら助けておやり」
 ついぞそれが誰なのか分からぬままにその人は、春を待たずに息を引き取った。静かな冬の日のような、凪いだ湖のような人だった。
 あれからもう一年が経つ。それなのに、今でも記憶は色あせず、春の前には涙が滲む。
 柳楽美津子は松葉にとって、師であり友でありそして親でもあった。こんなデカい息子を産んだ覚えはないよと笑う声が、今でも鮮明に蘇りその度に、松葉はひとり目頭を押さえる。
「……また泣いてんのかね。アンタってやつぁホントにガタイに似合わず女々しいねぇ」
 唐突に投げかけられた声に、板間に座り込む松葉は息を吐いた。振り返らずとも、客の顔はわかりきっている。
 この広く冷たい家を頻繁に訪れる客は、仕事を卸してくれる隣町の小酒井と、そして暇潰しをしてばかりの着付師だけだ。
「お前はまた暇潰しかよ……あんまりふらふらしてっと、食い扶持無くなっちまうぞ」
 顔も見ずに、手元の作業を再開する松葉の後ろで、勝手に敷居を跨いだ千歳はいつもの様子で鼻を鳴らした。
「働きたくともこの過疎地帯で晴れ着の着付なんざ、年末年始くらいしか繁盛しないもんでね。それにあたしには、ふらふら、余裕ぶって遊ぶくらいが粋だなんて言ってくれるパトロンがいる」
「いつまで生きるかもわからんじーさんがパトロンじゃあなぁ、羨ましくもねーわな。こちとらおまえと違って自分の食い扶持は自分で稼がなきゃなんねーんだよ。冷やかしなら帰れ帰れ」
「あんたこそ、いつまでそうやって意地はって内職続ける気なんだい。さっさと隣町の窯に移ったらいいじゃないか」
「うるせぇよ。おれの事情に口を出すならおれの嫁になってからにしろ」
「この国が同性婚を認めた上であんたが向こう五年独り身なら嫁になってやってもいいけどね」
 あたしの旦那になるんなら家事はそれなりにしてもらわないと、と嘯くのは馴れた口遊びだ。縁側あたりに腰を下ろした千歳は、しなやかにふふふと笑う。松葉をからかう時の、嫌な笑い方だった。
 松葉程ではないが背が高く、染めた髪を伸ばして括る男は簡素な色の着物をさらりと着こなす。一見性別まで見失いそうになるが、松葉は彼の身体が男だということを、隅々まで知っていた。
 初めて会った五年前から、千歳の趣味は松葉を言葉でからかう事だ。まさか二十代も半ばを過ぎて異国の地に心を許す友ができるとは思わず、そしてその友情が三十路を越えても続くとは想像もしていなかった。我慢の効かない松葉が何も考えずに素直に応じるのはこの千歳と、いまは亡き柳楽師匠の言葉くらいのものだった。
 作業に没頭しようと心掛けていたというのに、妖艶な男はいつも絶妙なタイミングで邪魔をする。松葉が面倒な絵付け内職を始めるのは思考を放棄したい時だ、ということを、千歳は知っているのだ。
「ところで例のみどりのお人はどんな塩梅なのさ」
 何気なく、と言った風に零す言葉の端に意地の悪さが滲み出る。松葉は存分に眉を寄せ、黙っていれば彫刻のようだと評される顔を歪めて聞き流そうとしたが、勿論千歳はそれを許さない。
「もう三日だって言うじゃないか。いい加減紹介してくれてもいいのにさ。取って食いやしないってのに。柳楽さんのご紹介だろ?」
「紹介……ありゃ、紹介っていうのか?」
「さぁねぇ。口伝とか、言いつけみたいな部類かもしれないけどね。でもあたしも何度か聞いて覚えているよ。『みまさかの、みどりがきたらたすけておやり』。……ああ、と、ため息がでる気分だったね。柳楽さんの言葉は意味なんぞ持たずとも何もかもが美しい」
 まったく、その通りでまた涙が滲みそうになる。
 柳楽の言葉は初めて会った時から常に美しく、四季折々の自然のように鮮やかで深い。新緑よりも少し深い緑の山のように、ただ当たり前にそこにある癖に美しい。
 十年も前に、この国の鮮やかな緑に魅せられついに生まれ故郷も捨てた身だ。日本の国籍を取ることに抵抗などひとつもなかった。
 死ぬのなら、この国の、芽吹く緑の中で死にたい。
 土を練り、草木で塗り、炭を炊く事を生業とした松葉は、満たされた人生だと自負していた。生まれ故郷であるフィンランドに残してきたものはない。伴侶も家族もいない。それでも口の悪い友と美しく生きる師がいた。
 それでいいと思っていたのは結局ただの強がりだったと痛感し、この一年松葉はため息とともに庭を眺めてばかりいる。
 死んでしまった人を惜しんでも、何が変わるわけではない。それはわかっている。だからせめて、柳楽が残した仕事を片付け、この家を守り、そして彼女の美しい言葉に恥じないように生きようとやっと前を向いたところだった。
 ふらり、と今日の千歳のように軽々と、この家の敷居を跨いだ男はミマサカスイと名乗った。
 あれから二日の夜を過ごしたが、未だに松葉は翠のことがよくわからない。
 柳楽が松葉に何かを頼んだのは、『みまさかのみどり』の他には記憶がない。
 助けてやれとはまたぼんやりした言葉だな、といまなら思う。相手が何かを求めているなら簡単だ。それを差し出してやればいい。しかし翠は宿と職以外は何も求めず、なぜ柳楽を頼ってきたのか、その経緯でさえも松葉は聞けずにいた。
 まぁ、関わりたくないのならばそれでもいいさ、と松葉は息を吐く。
 翠は、どうにも軽薄な男だ。柳楽の死を告げても、人ごとのようにそうか死んだかと繰り返すばかりで、仏壇に手を合わせることもなく次には己の宿の心配をした。
 それが悪いとは言わない。仏教も神道も未だにわからず、国教会にも通わなかった無神論者の松葉は、正直仏壇の必要性がよくわからない。それでも近所の老人や柳楽の顔見知りだという人々は、事あるごとにこの家の仏間で神妙に手を合わせた。その真剣な祈りの顔を見ていれば、『故人を偲び、手を合わせる』という感覚もなんとなくだが理解できる。
 翠も手を合わせるかと思った。それをしなかったから無作法だの薄情者だのと詰る気はないが、そうか手を合わせたりはしないのかと、何故か松葉は落胆した。
 おそらく自分は、『みまさかのみどり』にとても美しい印象を抱いていたのだと思う。柳楽が事あるごとに心を砕く、とても美しい名前の誰かが、まさか軽薄な笑顔を貼り付けた不躾な男だと、思いたくなかったのだ。
「みどりのお方とは親しくなったのかい?」
 好奇心を隠さない千歳の言葉に、松葉は素直によくわからんと答えるしかない。
「わからんこたぁないだろうよ。三日も顔突き合わせてりゃあ、ツーカーとは言わずとも合うか合わないかくらいはわかるもんじゃないのかね」
「顔突き合わせてねぇからわからんよ。飯は別だし寝所も別だ。一応仕事は斡旋したが、おれより役場の人間の方が詳しいから丸投げした。今日はたしか駅の裏の集会所だ。あそこの二階はほらよ、すっかりガラクタ書物の図書館だからな」
「ふぅん。みどりの方は書籍の鑑定もできんのかい?」
「知らん。知らんが、できねぇこたぁできねぇって自分で断んだろ。二十歳そこらのガキじゃあるまいし」
「どうかねぇ。人間なんてさ、幾つになっても馬鹿で阿呆で頑固なガキだって人も、いるけどね」
 ちらり、と流された視線に捕らわれ、松葉は不愉快に眉を寄せた。
「……なんだ、絵描きの旦那と喧嘩でもしたのか? 今日はやけに言葉の棘が目立つじゃねーか」
「パトロン様は年に二回の定期入院であたしは愛に飢えてんのさ。たまには火遊びしようかと思ったってのに、いつもの男は見知らぬみどりの方に手を焼いていてつまらない」
「浮気ならつきあわねーぞ。心が死んだら付き合ってやる。おまえが死ぬくらいなら倫理観なんざくそくらいだ」
 素直な言葉を告げれば千歳は、おや嬉しいとからから笑う。そんな風に冗談めかして笑う癖に、本当に死にそうな時は息をするのも精いっぱいという脆弱さで松葉の作務衣の袖を握るのだから、多少生意気に言葉を吐いている方がマシだと思えた。
 唯一の友人が元気ならばそれでいい。松葉はこれ以上大切なものを失くすのは嫌だった。そしてこれ以上大切なものを増やすつもりもなかったので、三日前にふらりと訪れた新しい同居人に関しては、ほとんど無視にも近い扱いを心掛けている程だった。
 顔に似合わず人情に厚く、ほんの少しの涙でコロッとほだされる。あんたはまるで冷凍の魚のような外見なのに、中身は甘くて熱いたい焼きみたいだと笑ったのも、やはり柳楽師匠だった。
 この国の緑と柳楽の焼く茶碗に惚れて十年。そして柳楽を失ってから一年。まだ、滲む涙は枯れそうにもない。
 きっとこの家を出れば少しは、悲しみも薄れるに違いない。その時は日々確実に近づいている。翠が鑑定を生業としていると知った時は驚いた。まさかこんなに素晴らしいタイミングで必要としていた人間が飛び込んでくるとは思っていなかったからだ。几帳面そうな細面には確かに、白く清潔な手袋がよく似合う。
 壁にかかったカレンダーは二枚目の梅の絵だ。もう二枚、この紙をめくる頃には恐らくこの家も空っぽになっていることだろう。
 ひぃ、ふぅ、みぃ、と。こんな時でも師匠なら、静かに指折り数えて春を待ったのだろうかと思いを馳せて、また彼女の事を考えて手を止めていた事に気が付いた。
 絵付けの作業は得意ではない。松葉は細かい作業がとにかく苦手だ。集中して作業を進めなければ、小酒井に頼まれた皿の半分も絵付け作業をこなせない。
 仕事中だ早く帰れと仏頂面でいなそうとしても、松葉の渋面など気にも留めない友人は面白そうに眼を細めるだけだ。
「言われなくとも夕刻前には帰りますよ。あんたもねぇ、男しか抱けないわけじゃないんだから、早く嫁さん貰えばいいのにさ」
「余計なお世話だ。飯も掃除も洗濯も、お師さんに叩き込まれてどうにかなってる」
「一人で生活できても、一人で生きてはいけないもんだよ人間なんてさ。どっかにいないもんかねー適度に手が掛かって適当に面倒で、そんでそれなりに顔面が綺麗な動くお人形さん」
「……なんだよそりゃ」
「あら、だってあんた、面倒くさい人間が大好きじゃあないか」
 あたしとか柳楽さんとかね、と笑われてしまえば、否とも言えない。世話を焼くことが好きなわけではないが、確かに何でも完璧にこなす女中のような人よりも、歩く度にお茶を零すおっちょこちょいな人の方に目が行くような気はするが。それは果たして好みの問題なのか。単に冷や冷やとして目が離せないだけではないのか。
 そう思うも言及することが面倒で、適度にはいはいと流して後は手先に集中した。
 縁側の戸を開け放っているせいで、室内は雪で湿った冷気で満ちている。ストーブは炊いているものの、焼け石に水程度の暖かさだ。松葉は自然の明かりが好きだ。なるべく通年、縁側の戸は開け放っているせいで、寒さにも暑さにもすっかり慣れた。
 とっくりと日が暮れる頃、一人で喋る事にも飽きたのか、千歳は来た時のようにふらりと帰って行った。自分の家に帰るのか、旦那の家に帰るのか、それともその旦那が入院しているという病院に向かったのか、松葉にはわからない。わからないが、最終的に千歳が泣かなければそれでいいと思い、他の事はあまり考えない事にした。
 玄関先まで見送り手を上げた松葉は、千歳とすれ違うように道を譲る男の姿を見つけた。
 千歳は贅肉が無く細長い男だが、こちらに向かって歩く男もやはり、ひょろりと細長い。うねる松葉の髪とは違い、さらりと零れる黒髪を耳にかけた翠は、千歳の後ろ姿を眺めながら目を細めた。
「……今の方って松葉さんの愛人さんです?」
 冗談なのか、それとも本当に疑問に思って口にしたのか、翠の言葉に感情は籠らずにわかりにくい。結局心の内を探るのも配慮するのも面倒になり、松葉は面倒くささを隠さずに息を吐いた。
「おまえさん、デリカシーがないって言われないか?」
「いやですね失礼ですねー言われますぅ」
 悪びれもなく笑う顔は、やはり笑顔を貼り付けたようで座りが悪い。いっそ人形みたいに真顔の方がマシなのに、それだったらちゃんと綺麗な顔なのに、と、ちらりと隣の男を盗み見て、松葉は何度目か数えることをやめたため息を飲み込んだ。
 二月の末。まだ雪深い山と坂の田舎町は、春を過ぎれば土に埋まる。この土地で過ごす最後の春待ちの日々は、こうして少々の面倒くさい乱入者と共に始まった。