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01



 ひぃ、ふぅ、みぃと、指折り数えて春を待つ。
 そんな人だと記憶していた。


 雪が溶ける頃になるとごくたまに、その細い指と深い声を思い出す時があった。
 また今年も、指折り数えて冬を越しているのかと思いながら電車を乗り継いで来た。
 さすがに笑顔で迎えられると期待していた訳ではない。自分は余りにも筆不精で出不精で、その上恩など三歩で忘れる薄情者だ。思い出すと言っても数年に一度、ああそんな人も居たなぁとぼんやり思い返す程度だったのだから。
 山間を目指す電車に乗ったのはノリと偶然と気まぐれで、電車が動き出してからそうだあの春を待つお方ならば軒先くらいは間借りさせてくれるかもしれない、と、思いついただけだった。
 軽薄で薄情者。そんなことは二十七年の人生で、嫌というほど自覚している。
 美作翠は己の情の薄さと無駄な記憶力を笑いながら、電車を乗り継ぎバスに乗り、雪解けの田舎町をふらふら歩いて古い一軒家に辿り着いた。
 深い色の木目の味わいなど、今も昔もわからない。ただ今ならば『あーこの色合いは年月かけた本物の木の色だなぁ』と思う。目利きの才は、結局は目が良いだけだ。感性は相変わらず死んでいて、芸術などというものに微塵も興味がない。
 またため息を吐かれるのだろう。
 はぁ、と軽いわりに長く深い息の後、三十分はゆっくりとした小言が続くのだろう。
 軒先に布団敷いてもいいですか? などと言った日には、さすがに怒鳴られるかもしれない。そういえば、記憶の中のあの人は、声を荒げず淡々と翠を叱った。
 心に余分な隙間をもって、そこで美を感じるのだと言った。その心の余分な隙間はおそらく、かの人から発作のような怒声を奪っているに違いない。すぐにカッとなりすぐに口に出す翠とは大違いすぎてまた笑える。
 さて、十年経っても心に余裕など微塵もない自分は如何に嘆かれるものだろうか。
 そう、思いながら古い扉を叩いたというのに。
「……はぁ。そうですか。……死にましたか、柳楽先生」
 通された仏間で翠は、ため息を食らうどころか柳楽の命すらもうこの世界のどこにも存在していないことを知った。
 二度ほどしか訪れたことはない。それなのに妙に懐かしい和室に、記憶と寸分たがわぬ艶やかな座卓が横たわる。畳の匂いと線香の匂いで、床の間の桃の枝の居心地も悪そうだ。
 敷居を踏もうが、畳の淵を踏もうが、今や目ざとく翠の足を叩く人は居ないらしい。
 そうか死んだかともう一度言葉にしてみたが、ついぞ、死に顔が思い描けなかった。
 翠を迎え入れ、煎茶を出してくれた男は笑いもせず、相槌さえも打たずにただじっと向かいの座布団の上に座って居た。この家は広く、決して柳楽一人きりの生活ではなかった事を知っているので、彼が何者かなど特別気にはならなかった。弟子かそれとも家事用のお手伝いだろう。
何か話すことがあるわけではないが、沈黙が耳に痛い。
 出された茶は、ぬるく冷えていくだけだ。
「あー……それは、そのー……なんてーいうか、アレです。お悔み? 申し上げます? ……そうですよね、まぁ、ご高齢ではありましたよね、いやお幾つなのか存じ上げませんけど。あー、そうですか。うん……そうか」
 死んだのか、と、もう一度口に出してみたところで、やはり翠の中の柳楽が消えるわけでも、逆に鮮明にフラッシュバックするわけでもない。
 結局そうか死んだのかという感想以外が浮かばず、次に頭に浮かんだのはあてにしていた寝床の事だった。
 派手に金のかかる趣味もなく、コツコツと無駄に貯まっていた預金はもう見たくもない額まで減っている。アパートは解約し、夜逃げ同然に少ない家具も捨ててきた。ホテルに泊まる金くらいは捻出できないことはない、がしかし、見渡す限り雪と民家しかないこのど田舎にビジネスホテルがあるとは思えない。
 移動するなら南の方にするべきだった。そうしていればこんな雪の残る山奥の古民家で、今晩の寝床に迷うことはなかった筈だ。売る春もないが奪われる春もない。二十七歳の貧相な男が道端に転がって居ても、脅かされるのは命くらいなのだから、寝床など外でもいい。
 雪が無ければ良かったのに。
 晴れているとはいえ春にはまだ遠い二月の下旬だ。雪国の気温など調べたことはないが、ジャケットに包まっていても夜を越せる気温ではないだろう。一般的と呼ばれる常識や興味のないことへの教養がない翠も、そのくらいの想像力は持ち合わせている。
 せめて駅まで戻るか否か。まるで無人のような寂れた駅だったが、一応駅員らしき老人がいた。頼み込めば一晩くらいなら駅に泊まらせてくれるかもしれない。終電に間に合えば、もう少し大きな街まで引き返す事もできるだろう。
 そこまで考えてから、思いの外柳楽を頼りにしていた自分にやっと気づいた。
 ふらりと思い立って来た、などどの口が言うのか。存分に世話になる気でいたんじゃないか。
(……だってあの人、怒らないから)
 呆れても、叱っても、正しても、柳楽は怒らない人だったから。
 人生妙なところで躓いて、着の身着のまままさかの逃亡生活を送っている翠の話を聞いても、きっと柳楽は怒らないと思ったから。
 寝床の心配と残金の心配とあとは誰と縁があったか、と考えつつも己の予想外の弱さに呆れ、まぁとりあえず駅まで帰ろうと腰を上げようとした翠に、声をかけたのは向かいに座る男だった。
「……ミマサカさん、でしたね」
「え。あ、はい、わたくし美作翠と申します。それが何か?」
「スイ、ってのは、あー……どういう字を書きますか」
 思わず翠は、不審感を隠す努力もせずに眉をひそめた。
 名乗ればたまに、世間話ついでに訊かれる台詞ではあった。男にしては珍しい響の名前だ。しかし男の言葉は世間話とは言い難い雰囲気を纏っている。
 もしやこんなど田舎まで自分の素行と名は知れ渡っているのか。それとも、この男は翠の敵なのだろうか。
 腰を浮かす準備をしながら、翠は一瞬で笑顔の仮面を被り名刺を探すふりをした。
「これは申し訳ありません、最初に名刺をお渡しできたらよかったのですけれどー……生憎、切らしている上に休職中の身でしてー。ミマサカは美しく作る、翠は翡翠のスイですねーええと、ミドリと読むんでしょうかね訓読みだと」
「みまさかの、みどり」
 男のつぶやきは翠に宛てたものではなく、自答のように聞こえる。
 言い聞かせるような低い声だ。
 やけに耳に残る声だなと思って初めて翠は、目の前の作務衣を着こなす男が日本人ではないことに気がついた。
 ウェーブかかり括られた髪の毛は灰色で、ファッションかそれとも老化故の白髪かと思っていた。しかしよくよく眺めた男の顔は、若いとは言わないが老けているわけでもない。どんなに年上だとしても、翠と十も違わないだろう。
 部屋の中は薄暗い。冬の曇天が唯一の明かりだ。視界が明瞭でないせいと、ほとんど全ての物に興味がないせいで、彼の瞳の色が薄いヘーゼルだということにもやっと気がつく有様だ。
 身体も外人サイズだ。ひょろりと細長いだけの翠とは、骨格からして違う。
 柳楽は、外国人の男と結婚したのだろうか。シャキシャキと話す老女ではあったが、彼女が女として誰かと手を摂る様はあまり想像できない。やはり弟子なのだろう。
 田舎暮らしの陶芸作家に憧れて日本に押しかけてきた外国人。そう思うとやけにしっくり来るので、翠はそれ以上目の前の男の人生を詮索することをやめた。
 この男が何者だろうとどうでもいい。いま知りたいのは初対面の外国人の人生などではなく、この周辺にビジネスホテルがあるか否かだ。
 押し黙る男を前に、翠は空気を読まずに口を開く。
「あのー、柳楽せんせいもいらっしゃらないってー事ですし、まぁいらっしゃないというかお亡くなりになっているなんて知らなかったもので、そういうわけで突然の無礼な訪問失礼いたしましたということで、私お暇しましてさっさと寝床を確保したいわけなんですがぁ……えーと、この辺りにお高くない旅館とかってありますかねぇ。民宿でも結構なんですけれども」
「……泊まるところですか」
「はぁ、まぁ、当てが外れたものですからーと言っても私が勝手に柳楽せんせいなら軒先に布団敷いても怒らないかしらと思っただけですから」
「必要なものは、宿と職?」
「んー。んん。とりあえず宿ですが労働できる場所があればそりゃあ有難いとは思いますよただし私体力仕事心身ともに向いていないのでぇ、なるべく頭か目を使ったお仕事が――あ、名刺ありました。何度自己紹介するんだって話ですけど改めまして美作翠と申しますー」
 まあ、もう、二度と会うこともないだろうが。
 そう思いながらも鞄のポケットから出てきたいつのものかもわからない名刺を差し出し、いつものようににっこりと笑顔を貼り付けた。笑わなくてもいいのにと、思ってはいるがこれは癖だ。性格が悪いのだから、いっそ顔も不愛想にしていろと、ため息をついたのはやはり柳楽だったなと思い出した。
「ほうせき……あー……」
「ああ、すいません漢字は苦手ですかね、えーとですねえ、そちら実はもう私の身の上証明にはならない名刺でございますが、『宝石貴金属鑑定・貴石館天鵞絨』と読みます。大層な名前ですが、貴金属の中古買取を主に扱うチェーン店ですねぇ。まー今は営業しているのかどうかわっかりませんけどー」
「……それで、お師さんと交流が?」
「んー。いやー、柳楽せんせいとはなんというか、お仕事というよりも親戚筋で縁がございまして。そもそも私、陶芸は専門外なのですよぅ。光るものは得意なんですが、どうも、ワビサビ系は難しくてですねー」
「そうですか」
 質問をするわりに、男は翠の返答にさほど興味があるようには見えない。根掘り葉掘り尋ねられても困るし誤魔化すのも面倒だ。興味がないのならばそれに越した事はない。
 仕事で微妙にへまをして、裏社会界隈の闇取引にうっかり頭を突っ込んで、結局危ない人たちに追われてその身一つで逃げている、などという事情を一々口に出したくない。笑ってくれるならまだしも、目の前のしかめっ面をした外人は、口の端を上げた様を想像することも難しい。
 ふと風が動いて、線香の匂いが揺らぐ。隙間風が酷い家だ。外の風が当たり前のように吹き込み家の中を走る。
 そうか死んだのかまた一人この世界と人生から居なくなったのか。と、線香の匂いに現実を思い出し、本当に帰ろうと正した姿勢は男の朴訥とした声に遮られた。
「もし、困っているというのなら、軒先でも客間でも、空いている部屋を使ってもらっていい」
「…………ん? え?」
「この家は一人には広い。仕事が欲しいならば手伝ってもらいたい事がある。一か月程……そうだな、春の手前くらいまで。できることならぜひ、頼みたい事がある」
「ええと、それは……」
「みまさかの、みどりが来たら助けておやり、と」
 お師匠様は言っていた。そう締めくくった男はすっかり湯気も消えた茶を飲み、深い緑色の湯飲みをコトリと座卓に置いた。