05
その日の午後は、緩やかな暗闇に包まれていた。
十二月に入ると、一日の大半が夜のようになった。指先も見えない暗闇というわけではなく、ぼんやりと世界が見渡せるような甘い暗さだ。
ノルウェー語の辞書を捲る手を止め、何度も窓の外を窺ってしまう。その度に不思議な気分になり、異国の地に居る事を実感し、そして自分の境遇を思い出しささやかな憂鬱に包まれた。
相変わらずイージーは自分の素性を偽ったまま生きている。
生きている、というよりも、生かされていると言った方が正しい。
せめてジョゼの負担にならないように、手伝えることがあれば何でも言ってほしい。拙い言葉でそう訴えてみたが、ジョゼは肩をすくめて『おいしい料理があれば他には望まない』と言うだけだった。
仕方なく、イージーは食事を作る事のみを請け負った。
他にやる事もなく、窓の外を眺めている時間はどうしても、嫌な事を考えてしまうようになった。思っていた程寒くはない北極圏のこの国は、寒さよりも暗闇が憂鬱だ。
考えることが嫌で、イージーはひたすらに辞書を読み、単語を頭に詰め込んだ。頭を使っていると、気が紛れて楽になった。問題を先送りにしているだけだ、ということは承知している。いつか向き合わなければならないし、その日は明日かもしれない。明後日かもしれない。
イージーのこの生活は、今や足だけとなった怪我が治る日までと決まっている。もうほとんど引きずらずに歩けるようになったが、まだ走れる程ではない。押さえると痛むし、曲げることも苦痛だ。
まだ痛いから。まだ治っていないから。
そんな風に言い訳をしてずるずると過ごしている間に、イージーはジョゼの家に徐々に慣れてしまった。
相変わらずアニータは毎日のように顔を見せる。スヴェンの訪問の頻度は減ったが、それは彼が多忙なせいだろう。昨日からオスロに出張中だというスヴェンからは、料理のレシピを大量にもらった。
干し鱈をたっぷりの野菜とトマトで煮込んだスープ。牛肉とキャベツの煮込み。ミートボールと滑らかなマッシュポテト。
これらは全てポピュラーなノルウェー料理なのかもしれないし、ジョゼの好みの料理なのかもしれない。
レシピの写真を頼りに作るそれらの料理を、ジョゼはいつも最大限に褒めた。正直なところ『そんなに?』と思う程、彼はイージーのノルウェー料理もどきに感動してくれる。
材料は、ジョゼが買いに行ってくれる。目的の食材を辞書で引きつつ、メモにすることにも慣れてきた。ジャガイモとトマトと干し鱈に関しては、いい加減見なくてもスペルを綴ることができる。
ふと見上げた時計の時刻はすでに三時を過ぎていた。
アニータはいつも二時過ぎに訪れる。
彼女の来訪の後にキッチンに降りるイージーは、ふと、今日は忙しいのだろうかと首を傾げた。
何も、毎日イージーと会う必要はない。彼女にも友人はいるだろうし、趣味の時間もある筈だ。スヴェンのいない家で、思いのほかくつろいでいるのかもしれない。
そう思い辞書を閉じた所で、階段を駆け上がってくる軽い足音に気が付いた。
ジョゼはゆっくりと階段を踏みしめる。アニータは、騒々しくそして軽やかに駆け上がる。
予想していた通りに扉を開けたアニータは、息を切らしてそして笑った。いつも通りの彼女だった。きっと、本人はそう思っていたことだろう。
しかしイージーは、彼女の白い頬がいつも以上に青ざめ、そして瞳の端がきらきらと輝いている事に気が付いた。
彼女はいつも、一階のジョゼに挨拶してから、外付けではなく室内の階段を登ってくる。あまり目の良くないらしいジョゼは、気が付かなったかもしれない。けれどイージーは、嫌になるほど視力がいい。
「泣いたの?」
素早く立ち上がったイージーは、彼女が息を吸い込む前に言葉を放つ事に成功した。
最初の一言を奪われたアニータは、そのまま言葉を詰まらせた。笑顔のまま固まり、そしてぼろりと涙を零す。笑いながら泣く彼女は、声を忘れた様に音もなく涙を零した。
涙は、見慣れたものだった。イージーの周りの女たちは、とてもよく泣いた。幼少を劣悪な環境で過ごしたイージーは長じてからの生活に満足しており、むしろ様々な人に感謝すらしていた。だから泣かなかった。外に出ることが出来なくても、日替わりで売られても、寝床と食事があって愛がもらえるなら素晴らしいと思っていた。人間らしい生活を知らなかったから、泣く事も知らなかった。
涙の意味が分からないイージーは、泣いている女たちにいつもどう接していいかわからなかった。共感できない。だから、何もできない。そう思っていた。
今もどうしていいかわからない。しかしその当惑の理由は、彼女が泣いている理由がわからず、どういう言葉をかけたら泣き止んでくれるのかわからないからだった。
棒立ちでぼろぼろと泣くアニータは、そのうち床に崩れ落ちてしまった。動く事を止めた人形のようで、痛々しい。
「どうしたのアニータ。どこかで転んだ? 大事な洋服が汚れた? スヴェンが浮気した? それともこの国は、寒さで涙が止まらないなんてことがある?」
アニータの隣に座り込み、彼女の肩に手を掛ける。泣き続けている美しい人は、両手の中に顔を埋めて首を横に振った。
「違うわ、違う。わたしはしょっちゅう転ぶけれど、もうそんなくらいじゃ泣かないわ。洋服よりも大事なものがたくさんあるから、服が汚れたくらいじゃ泣かないわ。スヴェンは浮気なんかしない、本当よ。それにわたしは、この国の冬を、寒い季節を愛しているわ」
冬に出会ったの、とアニータは泣きながら言葉を繋げる。
「寒い冬だった。ノルウェーは北極なのに暖かい、なんて誰も彼もが言うけれど、雪の降らない場所しか知らないわたしにはとても寒くて怖い場所だったの。だって息が白く凍るの。ねぇ、びっくりしたわ。人の息は水なのねってその時初めてわかったの。わたしは馬鹿で、学がなくて、ただ与えられるだけの人生を生きている二十五歳で、そしてあの人は三十二歳のお医者様だった」
「……トロムソに、アニータは何をしに来たの?」
「親戚の、遠い親戚のそのまた友人を頼って辿り着いたんだわ。マカオから、長い旅をして。わたしはね、赤ちゃんを殺しに来たの」
アニータの瞳から、またぼろりと涙がこぼれる。
ああ、と、イージーの口からため息が零れた。英語の訛り方が、妙に耳に馴染むと思っていた。マカオから来たという人間はたくさん見た。彼らは皆広東語を話し、中国訛りの英語を話した。
「あなたは、マカオの人なんだね」
「そうよ。マカオの娼婦だった。あの小さな街は、カジノと売春が合法なの。わたしは毎日サウナに立って、わたしを毎日売ったわ。ちゃんとお薬は飲んでいたのに、妊娠してしまって、どうしていいかわからないうちにおなかが膨らんでしまった。お金はなかった。わたしは家族に借金の代わりに売られたから、どんなに仕事をしてもわたしにお金は入らなかった。お医者様にもいけなくて、でもどうしようもなくて、伝手を辿って、頼って、泣いて、縋って、とても寒い街に来て、泣きながら病院の扉を叩いたの」
「そしてスヴェンに出会った?」
「――彼は言葉で表せない程優しい人で、そして強い人だったわ。もう手術をして堕胎をするしかないし、とても危険なことだから、頑張って産もうとわたしを説得した。わたし、びっくりしたわ。みんな当たり前のように降ろしていたから、わたしも赤ちゃんを殺すしかないものだと思っていた。ただ自分の体が女の子じゃなくなるのが怖くて泣いていただけだった。産むなんて考えもしなかったの。でもね、安心したからかしら。わたしのおなかの中の人は、その日のうちに勝手に死んでしまったの」
流産だったとアニータは自らの腹部を摩った。一晩スヴェンの勤務する病院に入院することになったアニータの異変に、看護師が気づいた。すぐに手術が行われた。目を覚ました時、アニータの膨らんだ腹部はすっかり縮んだ風船のようだったと、彼女は涙と共に零した。
「悲しかったわ。でも、悲しんでいる場合ではなかった。わたしは外国人で、ちゃんとした旅行保険なんかにも入っていなかった。だから医療費もとても高くて、ただでさえお金がないわたしにはどうしようもなくて、、頭を下げてスヴェンに頼んだの。何でもするから、雇ってくださいって。絶対お金は返しますからって」
かわいそうだから助けてあげよう、というわけにはいかない。病院は平等でなくてはいけない。
アニータの申し出を、スヴェンは一度受けた。彼女のビザがどういう種類のものかによるが、短期就労が可能であればという話だった。しかし数日後、今度はスヴェンがアニータに頭を下げた。
「あなたと結婚したい、って言うのよ。ねえ、びっくりして、生まれて初めて言葉を失ったわ。わたしは考えるのが不得意で、いつだって思ったことをすぐに話してしまうのに。同情じゃない、何事も愛する真面目なあなたに恋をしただなんて言うのだから、わたし、その時もう一度、生まれて初めての体験をしたの。――恋をしたの。わたしとスヴェンの結婚が、誰にも祝福されないってことは、知っていたのに」
「でも、アニータとスヴェンは幸せなんでしょ?」
「……自分たちがよければそれでいいじゃない、って、わたしも最初は思ってたのよ。迷惑をかけなければ、大丈夫って。でも、世間ってそうじゃないのね。わたしの若さが露見する度、別の国の言葉を話す度、嫌な噂は耳から入ってちくちくと心臓を刺すの。わたしが売春婦だったことは事実だから、違うとも言えない。わたしは幸せでも、スヴェンはきっと、とても、苦労をしていると思う」
わたしは馬鹿な女だから。
アニータはようやく泣き止んだようだったが、その顔に張り付いた笑顔はひどく寂しく、イージーを不安にさせた。
「わたし、自分がどれだけ馬鹿に見えるか知ってるわ。だってわたしは馬鹿だもの。物を知らないし、人も知らない。感情なんてものを考えるようになったのは、スヴェンと出会ってからなの。あの人は優しかった。いいよと笑うだけじゃなくて、それは駄目だよと叱ってくれた。だからわたしは、あの人がいないととても不安になる」
「それで、泣いてたの?」
「……ごめんなさい、イージー。あなたを困らすつもりなんてこれっぽっちもなかったの。普段は大丈夫なの。本当よ? 一人の夜だって怖くないって言い聞かせてれば平気。嫌な事が重なっただけよ。悪口って、とても明確な重さで心の中に溜まるのね。そしてそれは、軽くなって消えるまでにとても時間がかかるから、どんどん積み重なっていく間に、わたしの容量がオーバーしちゃったの」
大丈夫だとアニータは笑うが、その微笑みは弱々しい。何を誰に言われたのか、結局アニータは告白しなかった。それでも生い立ちを吐き出し言葉にすることで、随分と彼女の心は軽くなったようだ。
背中を少し叩いてから、彼女の前に左手を出す。素直にイージーの手に捕まったアニータを抱き起しながら、イージーは幼少の頃の自分を思い出していた。
何をしても罵倒され、何をしても奇異の目で見られた。存在しているだけで憎まれるだなんて、そんな辛いことがあるものかと世界を呪った。
あの時の自分は誰かに、『きみは悪くないよ』と言ってほしかった。
「……あなたは悪くないよ。きっとあなたが綺麗だから、みんな嫉妬しているんだ。スヴェンはあなたを愛しているし、ジョゼも、あなたは今日どんな話をしたかなんて、ぼくに聞いてくる。自分で言えばいいのにね。それにええと、ぼくも、あなたが好きだ」
「……アニータよ、イージー」
「――……アニータが、好きだよ」
まるで親友にするように、抱き合って額をつけた。イージーはこのところアニータに対して、異性に対する興奮や興味のようなものを一切覚えない事に気が付いていた。
彼女は美人だが、スヴェンの妻で、ジョゼの友人で、そしてイージーの友人だった。
勿論この感情は、アニータには伝わっていた。二人はいつの間にか、とても仲の良い姉妹のような、兄弟のような、そんな関係になっていた。
「わたしもよ、イージー。わたし、あなたのことが好きよ」
悪戯をする子供のようにアニータは笑った。この後二人は額をぶつけた後に笑い転げる筈だった。涙で濡れた頬を拭い、何故あんなに暗い気持ちになったのか! と全てを冬のせいにするつもりだった。
そうならなかったのは、アニータが開けっぱなしにしていたドアの向こうに佇む人に気が付いたからだ。
最初に気が付いたのはアニータだった。小さな悲鳴を上げた彼女の後に、イージーは思い切り息を飲む。
階段から上がったところでこちらを見つめ、なんとも言い難い困惑した表情を浮かべていたのは、ジョゼだった。いつからそこに居たのだろう。盗み聞きするような人ではない筈だ。では今、階段を上がって来たばかりではないだろうか。
二人と目が合うと、彼はぎこちない動作で踵を返した。そのまま階段を降りようとする背中を、思わず反射で追いかける。
「待って、ジョセ、アニータごめん、ちょっと……っ」
「ああ、いやだイージーそれは英語よ、落ち着いて、わたしはいいの、ごめんなさい早く追いかけて!」
わたしは大丈夫と何度も繰り返す声を背中に受けながら、イージーは心臓から全身が凍り付いたような感覚に恐怖すら感じていた。
この気持ちはなんだろう。どうして自分は、言い訳をしなくてはと思っているのだろう。アニータは彼の友人の妻だからだろうか。そんなもの、自分には関係のない事なのに。
ジョゼと目が合った時、イージーは心臓が止まったかと思う程驚いた。それは涙を流して崩れ落ちるアニータを見た時よりも激しい動揺で、彼女とジョゼがどう違うのか、そんなことすらわからない自分自身に腹が立った。
「待って、ジョゼ、違うの、違う、ええと……ぼくは、彼女の話を聞いていて……彼女、ちょっと辛いことがあって泣いていたんだ! だから、話を……」
慌てて話していて、それが英語であることにやっと気が付く。
階段の下でジョゼに追いついたイージーは、その長い腕に抱きつきながら、頭の中で必死にノルウェー語を探した。
彼女は泣いていた。自分は話を聞いた。彼女は泣き止んだ。それが自分は嬉しかった。彼女は大切な友人だと思った。そのことを伝えた。それだけだ。
たどたどしい言葉で必死に訴えるイージーの言葉は伝わったのだろうか。それとも最初からジョゼは何も感じていなかったのかもしれない。
特別動揺した様子もない彼は、ふいにイージーを抱えるように抱きしめると、宥めるようなリズムで背中を叩いた。
焦りで興奮していた身体が、今度は別の熱を持つ。どうしてこんなに顔が熱いのか、イージーにはわからない。
「……誤解はしていないよ。アニータは僕にだっていつも同じように好きだと臆面もなく告げてくる。彼女の友情の証の言葉だから。彼女はよき妻だ。そしてキミは真面目な隣人だから、決して二人を疑ったりはしない」
とんとんと、叩く手の感触は心地よい。けれどどうしてか、安心よりも別の感情が浮きあがる。それは時折、なんの意図かもわからずに唐突に始まるジョゼのキスを受けている時の感覚と似ている。
熱くてふわふわする。安心して泣きそうになる。恥ずかしくて嫌になる。
「取り込み中だったみたいだから、タイミングが悪いかと思って出直そうと思っただけだ。決して不貞を疑ったわけじゃない」
「……本当?」
「本当に。もっと簡単な言葉で言う?」
「……いい。ちゃんと、わかった。ちゃんと伝わってるなら、平気」
とくとくと煩い自分の心音を聞きながら、この湧きあがるような熱は、『幸せ』というものなのかもしれないと思った。
それは、一番自分と縁のない感情で、イージーが最も理解しがたいものだった。