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「#学園」のBL小説を読む
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03


「まぁかわいい! それはジョゼのセーターね!」
 鳥の囀りのような明るい声が響き、思わず何も考えずに振り向いてしまった。
 直後、後悔と共に右足に痛みが走る。大きな怪我をしたことがないせいで、身体を労わりながら動く方法がまだわからない。
 春の風のように駆け込んできたのは、ワンピースの白人女性だった。ブロンドヘアは緩いパーマで柔らかくうねり、顎の下あたりで切りそろえられている。彼女が歩くたびに、軽やかなブロンドは美しいリボンの束のように揺れた。
 アニータはスヴェンの妻で、多忙な医者と寡黙な家主の代わりになにかと世話を焼いてくれる人物だ。
 顔を顰めた様子を見た彼女は、大きな紙袋を抱えたまま、少々大げさに眉を落とす。妖精か女神に例えてもいい程美しいアニータであったが、女神と呼ぶには少々そそっかしく、そして大雑把で快活だった。
「ごめんなさいイージー。わたし、またアナタをびっくりさせちゃったわ。考える前に言葉が口からでちゃうの、スヴェンにもよく注意されちゃう。キミの声は少し大きすぎるよって、昨日も言われたのに」
「……ちょっと考えごとしてただけだよ。気にしないで」
 右半身を労わりながら首を傾げると、悲しい顔をしていた美女は、花がほころぶ様に笑顔になった。
 元々、名前というものに執着があるわけではない。
 今の名前も与えられたものであって、親が付けた名前ではないことを知っている。それならば何と呼ばれても今までと大差ない、という結論に至った李は、自分の名前は『イージー』だと認識することにした。
 李がイージーになってから、一週間が経とうとしていた。
 一週間前に、見知らぬ白人男性の家の窓から飛び降りた。
 自殺に失敗し、自分を買った男性の名とこの国の事を知った。そして身元が分からずに怪我をした異国人を、ジョゼは個人的に保護している、という事実も知った。
 イージーに知識を与えてくれたのは、ジョゼの聞き取れないノルウェー語ではなく、スヴェンとアニータの英語だった。
 小太りで濃い髭を口の周りに生やしたスヴェンは、ひどく柔らかく笑い自己紹介をした。
 背が高くほとんど笑わないジョゼと並ぶと、まるで舞台の上のコメディアンやパフォーマーのようだ。アニータもジョゼ程ではないが、女性にしては背が高い。イージーを見上げたスヴェンは、『俺の周りは巨人族ばっかりに違いない』と苦笑していた。
 スヴェンは滑らかできっちりとした英語を話す。ジョゼは静かなノルウェー語を話す。ジョゼの声は気持ちのいい程度に低く冷たく、とても落ち着いて聞くことができる。
 しかしジョゼはあまり饒舌ではない。
 どうせ聞き取れないのだから話しても無駄だ、と思っているようだ。猫を飼っていたと聞いたが、恐らく小動物に話しかけるような人間ではなかったのだろう。
 ペットのような感覚なのかもしれない。
 そう思うと、ジョゼの態度はとてもしっくりくる。
 厄介者だと罵られても何の反論もできない、と思っているイージーとしては、客人扱いされるよりも動物のように接してくれる方がありがたかった。
 何より、イージーも喋りたくない。
 通じない英語を、彼に向って吐き出すのはとても疲れるし、空しいと思う。感情を表すには小さな一声だけでも充分だ。
 成り行き上他にどうしようもなかっただけだが、求めていた暖かい寝床を手に入れてしまった。勿論この家はジョゼのもので、自分は怪我が治るまでの居候だということは承知している。それでも、外で震えている時はあれだけ死にたいと思った感情も、今はぼんやりと薄れてしまった。
 では生きて何がしたいかと言えば、思い浮かぶ答えはない。
 この一週間ひたすら考えていたが、イージーはただ無駄に日々を消費する以外に、できることがなかった。一刻も早く死にたい、と思っていた時の方がまだ、時の流れが速かったような気がする。
 ぼんやりと過ごす無駄な時間は、大概は窓の外を眺める事で過ぎていく。
 三階の部屋はすっかりイージーに明け渡されていて、ジョゼすらほとんど上がってこない。彼とイージーが顔を合わせるのは食事の時と、一つしかないベッドで共に寝る時くらいだ。
 この部屋に一番長く滞在する客人はアニータで、その次が二日おきに様子を見に来るスヴェンだった。
 現在のイージーの世界は、この三人でできている。そしてこの三人が居なければ、イージーは命すら保証されない事を理解していた。
 私物など一つもなかった。くたびれた財布の一つも持っておらず、数枚のドル札が押し込まれていたのはポケットだ。バッグもなければ、勿論パスポートも身分が証明できるものもない。
 正真正銘、その身一つだった。
 自殺に失敗した日の夜、初めて会ったアニータに、『あなたはどこから来たの?』と訊かれた。当然、彼らが尋ねるべき事だった。
 イージーは正直に『恋人と共に密入国した』と言うことができず、曖昧にわからないと答えた。
 いままでどこで暮らしていたのか。
 どうやって生きていたのか。
 なぜこの国に来たのか。
 一緒に居た恋人はどうしたのか。
 それらすべての問いに向き合う力が残っていなかった。答えたくなかったし考えたくなかった。
 考え始めると、温まった身体がまた冷え、咄嗟に窓に駆け寄りたくなった。
 だからイージーは、記憶喪失を装った。
 どうせ死ぬ気だったのだから、洗いざらいすべて話して路上に放りだされても問題などない筈なのに、ベッドの柔らかさと部屋の暖かさがイージーに嘘を吐かせた。
 名前以外の記憶がぼんやりとしている。自分がどうしてここにいるのかわからない。イージーの告白を真剣な顔で聞き終えたアニータは、ひどく心を痛めた様子でジョゼに通訳をした。
 実際、どうやってノルウェーに入国したのかイージーはわからないし説明できない。限られた箱庭で生きてきたイージーは、同行者の女性が何をして、どういう手順で国を超え、電車とバスに乗り、食料を買い、宿を手配したのか、隣で見ていてもさっぱり理解できなかった。
 イージーには教養がなく、世間と言うものをほとんど知らない。
 できる事と言えば息をして物を食べて寝る事と、そしてセックスくらいだろう。ダンスも曲芸も殺陣も得意だが、それは生活に必要なものではない。
 ぼんやりと過去に思いを馳せそうになり、慌てて思考を遮断した。
 ジョゼは、イージーの怪我が治るまで面倒をみる、と説明した。足の痛みが引くまでは、と、イージーは都合の良すぎる現実の終わりを先延ばしにする。
 考えたくない事を見ないように、イージーは目の前の美女の方に意識を切り替えた。
「あなたはとてもかっこいい身体をしているけれど、ジョゼのセーターはやっぱり大きいのね。彼はびっくりするくらい背が高いから! イージーに合うサイズの服も探さなきゃ。あとは髪を括るゴムもやっぱり必要だわ。綺麗な黒髪がちょっとだけ邪魔そう……ああ、ごめんなさい、わたしあなたに湿布を届けに来たんだったわ!」
 アニータはふわふわとした蝶のような美人だというのに、どうも落ち着きがない。思考が散漫としているようで、いつもくるくると動いているし喋っている。
 忙しないアニータは抱えていた荷物をベッドに置くと、ぽいぽいと中身をより分け始めた。
「ノルウェーには慣れた?」
 ベッドの上に小物をぶちまけながら、アニータはにっこりと笑う。立っていても足が痛いだけなので、いつものように窓際に置いた椅子に座り、イージーはどうかなと零した。
「ぼくは、この家の二階と三階しか知らないから。それがノルウェーの全てじゃないでしょ?」
「そりゃ、もちろん! わたしたちの愛するトロムソだって、ノルウェーの全てではないわ。でも、この場所が気に入っているのなら、ここがノルウェーの全てだって思ってもらってもいいのよ。わたしはスヴェンとジョゼが好き。だからこの街が好き。ノルウェーの事も好き。好きな国と好きな友達を褒められるのは、嬉しいわ」
「あなたはこの国の人じゃないの?」
「アニータよって毎回言ってるのに! そうよ、わたしは別の場所で生まれて別の場所で生きた外国人。だからイージーと一緒ね」
「……アニータは、ジョゼの事が好き?」
 少し悩んでから口にした問いかけに、アニータは目を細める。まるで子供のようにふるまうのに、この女性は何故かとても聡い雰囲気を纏うときがあった。
「ええ、好きよ。彼はとても愛情深い人で、かわいい人だもの。わたし、ジョゼの事がとても好き。イージーは、ジョゼの事が苦手?」
「そういうわけじゃ、ないけど」
 一晩の相手に選ぶには最高の男だった。けれど、明るいリビングで向かい合わせに座ると、厳めしい眉間の皴が目についてしまう。
 怒っているわけではないし不機嫌なわけではない、と理解していても、自分から近づこうとは思えない。
 親切なのだから愛情深い人なのだろうということはわかる。けれど、アニータが言う彼の可愛さは、イージーにはよくわからなかった。
「それよりもジョゼったら、あなたをまだこの家の上半分に閉じ込めているのね。もうだいぶ歩けるのだから、お店の方に降りてきたっていい筈なのに」
 シミの無い白い頬を膨らませ、アニータは階下に視線を馳せた様子だ。すっかり外は暗いがまだ時刻は四時過ぎだ。一階にいるジョゼは、店じまいを始める時間だった。
 あと二時間もすれば、夕飯ができたと声をかけられる。アニータも夕飯の準備に帰ってしまうので、それまでまた一人で窓の外を眺める時間が続く。
「ぼくが居ても邪魔なだけじゃないかな。怪しいアジア人なんて、何をするかわからないし、きっと街の人もびっくりする」
「そんなことないわ、とは言い切れないけれど……でも、この辺だって観光客は多いのよ。トロムソはオーロラと白夜の街だから。アジア人だって珍しくはない。英語が全く喋れない、なんて人も最近はお年寄りとジョゼくらいのものよ」
「本当に、まったくわからないの?」
「そりゃ、動物の名前とか、フルーツの名前とか、そういうものを言われたらなんとなくわからなくはないでしょうけど、覚える気がないからてんで喋れないのね。彼は、頭がいいのにやりたくないと全然、手をつけようともしないの。わたし、彼とはまだ二年のお付き合いだけど、とても偏屈でそれなのに優しくて、面白くて目が離せない人だと思う」
「スヴェンより先に出会ったら、ジョゼに恋をしてた?」
「……していたかも。でも、きっと悲恋になっちゃうわ。わたしは彼の友人にしかなれないから」
 言葉の端の微妙なニュアンスが引っかかった。
 数秒考えて、そうかジョゼは誰でも抱けるのではなく、男としかセックスをしないのだと気が付いた。
「彼は、カミングアウトしているの?」
 主語の無いイージーの言葉にも、アニータは優しく笑う。
「――友人にはとてもオープンで誠実な人だから。そのほかの人には秘密よ。やっぱりジョゼはあなたにも打ち明けていたのね。ねえ、わたしね、イージーはこの家に必要だと思うの」
「…………必要?」
「そうよ。ジョゼが住むこの家に、あなたはきっと、必要なの」
 イージーの座る椅子の前までステップを踏んだアニータは、床に膝を付けて見上げてくる。きらきらとした薄い瞳が眩しく、思わず視線を逸らしてしまいそうになる。
 しかしアニータは、たじろぐイージーの心中など察してくれない。
 ぎゅっと両の手を握られ、イージーは身体を硬直させた。
 毎日シャワーは浴びているし身体もしっかり洗っているから、もう臭うことはないだろうが、こんな近くに美人が寄ってくるとどうにも動揺してしまう。
「ジョゼは人が好きじゃないわけじゃないの。彼は誰かを愛して、誰かに愛してもらうべきだわ。……いえ、違うのよイージー。彼と恋人になれ、なんてそんな事は言わない。あなたにも意思と人生があることはわたしも知っているの。でも、この家にいる間は、彼を温めてほしいの。きっとあなたたちは仲良くなれるわ」
「……言葉も通じないのに?」
「そう、それよね。一つずつ解決していきましょ? ジョゼが怖いって思うのも、彼が喋らないからだし、彼が喋らないのは通じない言葉は無意味だと思っているから。それじゃあやることは簡単ね!」
 美女はきらきらと笑う。
 イージーは上半身をできるだけ反らしながら、嫌な予感に備えた。
 昔から勘は良い。特に、嫌な予感はとてもよく当たる。
「彼と仲良くなるために、そしてあなたのために。言葉と料理を覚えましょう!」
 朗らかに宣言した女性に握られた手を振り解けないまま、イージーは首を傾げることしかできなかった。