01
満たされてから死のうと思った。
生憎酒は手に入らなかった。世の中の自殺者がどのような手順で死ぬのか、そんなことすら知らなかったが、それでも酔っていれば苦痛は少ないような気がした。
酒と麻薬は慣れ親しんだ友人のようなものだ。彼らは理性を叩きのめし眠らせ、本能を揺さぶり起こす。そのついでのように、痛覚や悲しみもマヒさせた。
李雨沢はまだ若い青年だ。李には年齢を指折り数えてくれる家族などいなかったので、正確な歳はわからない。おそらく二十二歳か三歳か、そのあたりだろう。
その短くも無知な人生の中で、前途の甘美な友人たちの優秀さはすっかり身体に染みついた。
身体は当たり前のように冷え切っていた。心など、いつから死んでいたのかもわからない。本来ならまだ涼しい季節の筈なのに、この国の秋はあまりにも冷たい。
雪が降る手前のような底冷えする寒さの中、安物のジャケットすら持っていないのだから、凍え死んでもおかしくない。それなのに、結局寒さは死を招いてはくれなかった。
目が覚めることなく死にますように、と祈りながら眠りにつく事がもう嫌になったのだ。
死のう、と思ったのは簡単な事で、いざ死ぬ事も簡単だ。一審の苦痛に耐えるだけで、これから待ち受けているすべての絶望から解放される。ただ、酒か麻薬が必要だと思った。寒さに凍えたまま命を絶つのは、あまりにも自分が可哀そうだった。
食料品店に押し入り、二週間ぶりに腹を満たしてから手首を切ろうか。それとも、酒場でたらふく酒を飲んでからトイレで首を吊ろうか。どちらも思案した先から却下し、結局は冷たい街角に立つことを選んだ。
身体ではなく、心を満たそうと思った。
誰かに抱きしめられてから、死のう。
愛を囁いてほしいとまでは言わない。勿論できることならば、甘い言葉を耳に吹き込まれたい。貴方だけよとほほ笑んだ人々の声を思い出す度に、李はもう枯れた涙を思い出しそうになる。そしてそんな過去が遠いものだという事を思い知り、せめて誰かの体温だけでもと縋るような気持ちでプラカードを抱え直した。
ゴミ捨て場から拾ってきたプラスチックの板に、錆の浮いた鉄で書いた文字は英語だ。『寂しい私を買ってください』という言葉を、翻訳することができなかった。
英語と広東語しか話せない李には、この寒い土地の住人が口にする吐き捨てるような響きの言葉が、ほとんどわからない。英語が通じる人間がいない訳ではない。しかしそういう人間程くたびれた李の服装を見て眉を顰め、言葉が聞こえる程近くには寄ってきてくれない。
親切な老人が差し出す親切な申し出は、全て異国の言葉だった。
誰も知らない場所に行こうと、彼女は言った。
誰も知らない場所に行こうと、李は応えた。
その願いは確かに、現実のものとなった。明るい筈だった未来が寒く冷たい絶望に染まっているのは、隣に彼女がいないからに違いない。何が悪かったのか、など、もう考えることは止めた。考えた所で、人間の感情などわからないという事に気が付いた。
所詮自分は人形だったのだ。人形は、たった一人のご主人様に放り出された。初めて自分で選んだ主に、捨てられた。一人で生きていくことを知らない人形は、たとえここが北極の異国でなくとも、どうせ野垂れ死ぬ運命になっただろう。
風が吹いた。思わず肩をすくめ、白い息を長く吐く。寒くて寒くて、もう皮膚に感覚がない。耳が痛くて、常に耳鳴りがしているような気がする。時折記憶が飛ぶようになった。早く命を消したい。一刻も早く死にたい。満たされて終わりたい。
そんなことを考えていたせいか、それとも注意力というものが全くなくなっていたせいか。李が自分の前に立つ男に気が付いた時、彼は驚く程近くに居た。
背の高い白人の男だった。
これほど背の高い男は、アジア人ではめったにいない。薄暗い夜に紛れ、その瞳は深いグレーに見えた。暗い色の上着の中に、黒いシャツが見える。足元の靴まで真っ黒だった。
黒く背の高い白人は、低い声で何かを言ったが、それはやはり李の知らない言葉だった。
寒い空気に、白い息が舞った。それは酷く酒臭く、人間の匂いがした。
男は李の抱えたプレートを指さし、一言一言ゆっくりと声を出す。けれど、どんなにゆっくりと話してもらっても、李にはまったく理解できない。
「英語で、お願い」
李のしばらく使っていなかった声帯は、まだ声を忘れていなかった。
Englishとpleaseくらいは、ほとんどの人が理解してくれる。震える声の英語を聞いた男は、酒臭い息をゆっくりと吐いた。
「…………金？」
拙い発音だが、確かに彼は『money』と言った。恐らく、いくらか？ という質問なのだろうと気が付いた李は、首を横に振ろうとしてから思い直し、指を二本立てた。
自分の看板に対して男性が立ち止まる事を考えていなかったが、抱きしめて満たしてくれるのならば誰でもいい。そうかこの国でも、男は男を買うのかと思った程度の事だ。
無料で閨を共にしてほしい、などというアジア人は、とんでもなく怪しいのではないかと思ったので、指を立てた。
正直通貨の単位など知らないが、適当に勘違いしてくれた値段でいい。金を稼ぎたいわけではない。その金は恐らく何にも姿を変えることはなく、李の数少ない所持金として、遺体と共に回収される筈なのだから。
案の定勝手に思案を始めた男は、しばらく後に決意したかのように、李の手を取った。
彼の手は暖かく、凍えた李には熱い程だった。
しばらく無言で歩き、たどり着いた家は、他の家と同様やけにカラフルで、縦長い。一階は四枚の硝子扉がしっかりと閉まり、二階に上がる階段が外付けされていた。
何かを考える事も面倒で、李はひたすらにおとなしく、彼の後をついていった。言葉が通じれば何か会話をしたのかもしれない。しかし生憎この男には李の英語は通じず、そして李には彼の言葉が通じない。ボディーランゲージを用いてまで話したい事は一つもない。言葉などいらない。愛などいらない。そんなものは見たくない。必要なのは誰かの体温だけだ。
階段を上がってドアを開けた男が靴を脱いだので、李も同じように靴を脱いだ。部屋の中は冷えていた。しん、と静まった闇が、ガラス窓から侵入していた。それでも、外よりはマシだ。スイッチ一つで灯った室内照明はオレンジ色で、見ているだけでも暖かそうに思えた。
手を引かれた李は、シャワールームに入れられた。鏡のない簡素なガラス張りのシャワールームでは、自分がどんなみすぼらしい恰好をしているのかはわからなくても、臭いくらいはわかる。
すっかり傷んで絡む髪にお湯をぶちまけ、少々適当に身体を清める。ゆっくりと泡を堪能している間に、彼が心変わりをしてしまったら困ると思ったからだった。
ふかふかではないが、清潔なタオルで身体を拭いた。垢が取れたかはわからない。けれど臭いはマシになっただろうと思う。着ていた服に袖を通し直す気にはなれなかったので、そのまま全裸で男を探した。
部屋はすっかり温まっていた。裸で動いても、寒さはあまり感じない。故郷の冬の室内の方が、よっぽど寒いと思える。
男はジャケットを脱いでソファーの上で項垂れていた。何かに酷く悲しんでいるか、それとも疲れているような様子だった。例え言葉が通じても、『何かあったの？』と声をかけるような関係ではないので、李はただ黙って彼が顔を上げる時を待った。
男はやはり黒いシャツに黒いパンツで、まるで葬式帰りのようだと思う。誰か親しい人間が亡くなったのかもしれない。そうだとしたら、大切なものを無くした人間同士、体温を求めあうのは自然なことのように感じた。
李の場合は、誰かを亡くしたわけではない。ただ無くしただけだ。今彼女は何処にいるのか、生きているのかもわからない。もし死んでいたとしても、それは知らない香港人の死体でしかない。李の中の彼女はあの日別れた時に無くなった。李の中から、すっかり無くなって消えてしまった。そして自分は何に体温を求めていいのかわらかなくなった。
寒い国で、涙も感情も凍ってしまったのかもしれない。
温めれば少しくらいは泣けるかもしれない。泣いて、そうして死のう。何度かわからない決意をして、李は男を待った。
顔を上げた彼は、半分濡れたままのような李を見ても咎める様子もなく、感情の読み取れない顔でしばらく見つめた後に、立ち上がり李の腕を取り壁際まで追いつめた。荒いキスをした。壁に押し付けられるように腰を撫でられ、膝で足の間を撫で上げられる。
それはすべて李が求めていたものだ。
暖かくて熱い彼の愛撫と体温は、李を期待していた以上に満たした。荒々しく求められ、はしたなく声を上げた。一時間も過ぎた頃には、自分が叫んだ声が、広東語なのか英語なのかもわからなくなっていた。
壁に押し付けられるように一度身体を開かれ、ほとんど気絶した状態だった李は抱えられながら階段を登り、三階のベッドの上で更に気絶するほどの快感を貪った。
男は精力的で荒々しくはあったが乱暴ではなかった。腕は逞しく身体は熱く、求めているものを全て与えてくれた。言葉のないセックスは、確かに凍え切った李を満たした。
満たしたので、これで死ねると思ったら枯れた涙があふれ出た。
彼の熱から解放され、死んだように眠り、目が覚めたのは早朝だった筈だ。夜の長いこの国はまだ暗く、窓から差し込む月明かりが薄く室内を照らし出していた。
しばらく泣いた李は、暖かいベッドから抜け出した。二階まで静かに降り、昨日脱いだままの汚れた洋服を身に着けた。見つかった死体が全裸では、自分を満たしてくれた男に迷惑がかかるかもしれない。冷たい池にでも飛び込むつもりでいたが、せっかく温まった身体を再度冷やす気にはなれず、三階に戻ると窓を開いた。
死ねる高さだろうか。もしかしたら死ねないかもしれない。そうしたら今度こそ冷たい水に飛び込んだらいい。
書き残すことも言い残すことも何もない。幸せでも、不幸せでもない人生だった。ただ、寒すぎてここでは生きていけないと判断しただけだ。感情なんてものは、いつも李の一番遠いところにある。
世界にも自分の人生にも言い残す事はないが、昨日抱いてくれた男には感謝している。彼に何か、せめて申し訳ないと書き残すべきかもしれない。自分が自殺だという証拠を残すことは大切だ、と今さらながらに気が付く。
遺書が必要だった。彼が英語を理解しなくても、警察の人間は英語を知っているだろう。ペンと紙を探さなくては、と思い窓から降り返り、李は思わず息を飲んだ。
寝ていたはずの男が、李から数歩の位置に立っていた。
「Det er farlig」
相変わらず、低く聞き取りにくい声だった。そして、李には理解できない言葉だった。
何をしているんだとか、そこは危ないとか、きっとそのような意味なのだと思う。彼の顔が酷く真剣だったので、寝起きの愛の言葉やジョークではないことは分かった。そもそも、そんなものも言い合う関係ではない。
紙に書きつけている時間はない。今すぐ飛び降りなくては、命を断てない。
彼の手に捕まりベッドに戻された後、冷たい水の中に飛び込めるとは到底思えない。あのベッドは暖かすぎるし、彼の手は熱すぎた。
「ごめんなさい。迷惑をかけてしまう」
彼がまた何かを言ったが、李はどうせ聞き取れないのだからと無視をした。男が一歩踏み出す。李は背中の開いた窓の外を意識し、上体を透明な壁に預けるように後ろに倒した。
最後の言葉など考えていなかったので、何も言葉はでなかった。申し訳ないと思ったのは本当だったので口にした。頭から、落下する。不安の中に落ちるような感覚の中、李が次に感じたのは、自分の足首を掴む男の熱い手の感触だった。