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15


 夏の日陰に、甲高い声が響いた。
「ずるい!」
 暖かいとは言い難い気温ではあるが、ノルウェーのトロムソではこれでも夏真っ盛りだ。涼しく過ごしやすい短い夏は、北極圏のトロムソを沈まない太陽で照らし出す。
 肌を焦がす事はない遠い太陽に四六時中見張られる白夜にまだ慣れず、イージーは目を擦りながら苦笑した。先ほどの声は白いドレスで頬を膨らましたアニータではなく、その対面で白い手袋を握りしめるスヴェンだった。
「ずるいぞアニータ! ジョゼは俺に譲ってくれる約束だったじゃないか! この期に及んでやっぱり渡せないなんて、キミはいつからそんな酷い詐欺師みたいな人になってしまったんだ!」
「……言いすぎじゃないかスヴェン。落ち着け。結婚式当日に別れるカップルみたいになってるぞ」
 彼の隣には、額を抑えるジョゼが居る。彼は珍しく髪の毛をきっちりとセットし、イージーの好きなかっちりとしたベストを身に着けていた。
「これが落ち着いていられるか、キミからも言ってくれジョゼ! アニータにはイージーがいるじゃないか!」
「あら、だってわたし、キルステンとロレンツが来るなんて知らなかったわ。あなたばっかりお友達がたくさんいてズルいじゃない!」
「彼らの仕事がたまたま空いたんだ、祝福してくれる友人を追い返す俺なんてキミだって嫌だろう。キミの方だってマーリットが駆け付けてくれているじゃないか」
「彼女は職場でよくしてくれる素敵な人よ。でも、わたしの友人代表じゃないわ」
「だからイージーがいるだろう! ひどいぞ、横暴だ! ジョゼは俺に譲ってくれ!」
「嫌よ、ねぇイージー、あなただって恋人と離れたくないでしょう?」
 急に腕を引かれ、真剣な顔のアニータに詰め寄られ、イージーは苦笑いをすることしかできない。テーブルで会食をするような、きちんとした式ではないのだから、正直なところイージーは自分がどちらの招待を受けて出席していようが、どうでもいい。恐らくそれはジョゼも同じ意見だろう。
 夫婦に挟まれたジョゼは、頭が痛そうにため息を吐いた。
「いい加減にしてくれ二人とも……どうして新郎新婦が僕を巡って争っているのか、さっぱりわからない。もうどちらでもいいから、さっさと式の準備をしてくれ」
「まぁ、大事な話なのよ、ジョゼ。だって一生で一回の素敵な機会に、大好きなお友達には隣に居てほしいじゃないの。イージーもジョゼと一緒がいいでしょ? ね? ね?」
「ぼくは、えーと……でもほら、ここで別れても家に帰ればいつでも一緒に居れるし……アニータ、だってジョゼはスヴェンの親友なんでしょ? ぼくは、彼が待ってくれる道をアニータと歩きたいな」
 親類を一切呼んでいない小さな挙式は、新郎新婦に寄り添う役目も友人が担う事になっていた。アニータはイージーと共に歩いて祭壇まで行くことになっている。スヴェンの隣にジョゼがいてくれたら嬉しい、と言ったイージーに対し、スヴェンは親指を立てて『いい子だ』と口を動かした。
 全く大げさで人騒がせで愛おしい夫婦だ。
 そしてイージーは、この大げさで人騒がせで愛おしい夫婦の挙式に参列できる事が嬉しくて仕方がないし、そこに大好きな人が居る現実がまだ飲み込めず、まるで夢のような気持ちでいた。
 イージーがトロムソに帰ってきてから、二か月が経った。帰国した時、ささやかな春はすでに終わり、太陽の沈まない季節が始まりかけていた。結局イージーはノルウェーの春を経験しなかった。
 春だからと言って特別何があるわけじゃないし、来年だって嫌でも春は訪れる、といつものカウンターの中でジョゼは言った。確かにその通りだ。これから季節は夏になり、イージーの経験したことのない季節を通り過ぎると、二度目の冬が来る。
 マダムがどう手をまわしたのか、どこまで何をしたのか、イージーにはわからない。しかし彼は去年の冬に正式にIDカードとパスポートを使ってノルウェーに入国したことになっており、警察の逮捕は誤認だった、という事になっていた。イージーの逮捕時に関わり、また彼の失踪を知っているトロムソの警官の中には首を捻る人間も数人いたらしい。しかし、圧力があったのかそれともそんな事はどうでもいい程多忙なのか、結局誰も彼もがその件そのものを忘れていった。
 トーネの父親はたまに娘と買い物に来る。たまたま品出しを手伝っているイージーと目が合っても、にこりと笑って世間話をしてくれる。
 マダム・リリーは吐きそうな程の感情と引き換えに、魔法使いのようにイージーをノルウェーに返してくれた。あの日、香港の屋敷での一連の行為の後、マダムは本当に吐いて倒れて、そのままイージーは彼女に会う事無くまた幽閉され、そして出国の日を迎えた。
 彼女にはきっと吐くほどのトラウマがあったのだろう。しかし今は、それを聞き出す術はない。イージーは一生、ジョゼが居る限りはノルウェーから出て行くことはないと思う。香港に帰ることは、もうない。
 何もかもが元通りになったわけではない。
 居候だったイージーは、自分にもできることを、と思い仕事を始めた。本当は身体能力を生かし、経験のあるスタント業に募集はないものかとテレビ局や映画会社に電話をしたのだが、面接の結果あれよあれよと俳優でのデビューが決まってしまった。
 ノルウェー語を巧みに操り、その上若く大概のアクションをこなせてしまうアジア人は、思いのほか貴重だったらしい。テレビ局のディレクターに気に入られたイージーは、来月からテレビドラマの端役の撮影が決まっている。同じ国と言ってもノルウェーは縦に長い。オスロのスタジオでの撮影中は、数日はそちらに滞在することになるだろう。
 イージーの就職を喜んだジョゼだったが、長く会えない時間があることに関しては少々不満があるようだ。オスロまでは飛行機で二時間だ。イージーは恐らく彼が勝手に店を休んでオスロに駆けつけないように、毎日電話をしなくてはいけないのだろうなと思い、存外に嫉妬深くかわいい恋人に思いを馳せて一人でにやけた。
 ようやくアニータが諦めたのか、夫婦の些細なジョゼの取り合いはひと段落ついたらしい。ジョゼが本当に嫌そうにため息をつくのが面白い。彼はなんだかんだと言ってもスヴェンとアニータの事を愛しているから、本当は自分を奪い合ってもらえてうれしいのだということを、イージーは知っている。
「うるさい夫婦で耳が痛い。……アニータは式の間、ちゃんと口を噤んでいられるのか? ドレスにひっかかってキミまで転ばないように、僕は冷や冷や見守ることになりそうだよ」
「アニータが転んだって、誰も笑う人はいないからいいじゃない。きっとみんな優しく助けてくれるよ。あの人たちは素敵すぎるから、周りに集まるのもみんな、素敵な人だ。ええと、ぼくもそうだとは言えないけど」
「謙虚なところは愛おしいがもう少し自信を持ってもいいんじゃないか? キミは大変キュートで愛おしくけなげで格好良い。まったく、来月からが気が気じゃない。やっぱり僕は家を売ってキミを攫って隠居すべきだったんだ」
「でもぼくは、あの店のカウンターに座って、しかめっ面で外を眺めてセーターを編んでいるあなたが好きだよ」
「……最近キミは、すっかり僕の扱いに慣れてきたな。僕と言ったら、まだキミが隣に居る幸福に慣れないよ。毎日、朝起きる度に世界に感謝する毎日だ。朝目が覚めてキミの美しい髪の毛を梳く瞬間が最高に……ああ、そういえば、最近は毎朝キミの新しい上司を呪うことも忘れない」
 シャツにジャケットを羽織ったイージーの髪の毛は、テレビドラマの役作りの為に随分と短くなっていた。それでも髪留めでまとめて縛ることができるのだから、短髪というわけでもないし、そこまでイメージが変わったとは思えない。
 しかしジョゼは、イージーの髪の毛を数センチでも切ったディレクターが憎くてたまらないらしく、事あるごとに顔も知らない人を呪った。
「まったく、キミの美しい髪を切るなんてどうかしている。解釈違いも甚だしい。もっと長くたっていいくらいだ」
「サスペンスドラマだっていうからね。捜査する職員の仲間が長髪だと、やっぱりちょっと変なんじゃない? 髪の毛はまた伸びるよ。髪の毛の短いぼくは嫌い?」
「どんなキミだって最高に愛している」
「ありが、ちょ……ジョゼ、落ち着いて、ぼくたちの結婚式じゃないから、家まで待って」
「…………まったくだ。ちょっと頭を冷やそう。そろそろキミはアニータと一緒にウォーキングする準備をする時間じゃないか?」
 ほんの少しの時間離れるだけなのに、ジョゼは名残惜しそうに頬を撫でてから、愛おしい雨の名前の青年に触れるだけのキスを落とした。
 ジョゼはイージーが好きな低い声で、『Jeg er forelsket i deg.』と囁く。私はあなたに恋をしています、というこの国の言葉の響きが、イージーはとても好きだ。
 行っておいでと言われて、アニータと共にイージーは廊下を進んだ。白いドレスの端を汚さないように、彼女はひどく動きにくそうだ。これでは本当に転んでしまうかもしれないが、その時はイージーが支えてあげればいい。
「ジョゼを、スヴェンに取られちゃったわ」
 先ほどの些細な言い合いをまだ気にしているらしい。頬を膨らませたアニータは愛おしく、イージーは自然と声を上げて笑った。
「いつまでも膨れていたら、白いドレスがもったいないよ、アニータ。今日のあなたは最高に綺麗なんだから。あとで写真を頂戴ね。ぼくのパスポートに挟んでおくんだ」
「いやぁね、イージー、それじゃあ遺品みたい。これからもっと楽しい事がたくさんあるんだら、せめてアルバムの一ページ目とかに挟んで頂戴。……やだ、あなた泣いてるの?」
「……ちょっと。なんだか、ジョゼと離れたら気が緩んじゃって……ぼくはさ、本当に感情ってものを知らなかったから、彼の書斎で映画を眺めていても、結婚式で泣く人たちの気持ちが全然わからなかったの。想像もできなかった。なんで泣くんだろう、楽しい幸せな事なのにって。でもさ、今日知ったの。……友達が、幸せになるのが、ぼくは泣くほど嬉しいんだ」
 おめでとう、と額にキスを落とすと、アニータは綺麗な化粧を歪ませて涙をこらえた。
「大好きよ、イージー。あなたと、ジョゼの幸せを、わたしずっと祈っているわ。今日は本当に素敵な日ね。素敵な日だから、ねえ、わたしが知っているちょっと素敵な話をしましょう、イージー」
「なに?」
「恋の言葉の話よ」
 アニータはふわふわと笑う。彼女は今も少し散漫で、急に話始める。けれどそんな彼女を、イージーは愛おしく思う。最高の友達で、素晴らしい親友だ。
「恋をしていますって、ノルウェーの言葉でこう言うでしょ? Jeg er forelsket i deg.」
「え、うん。違うの?」
「合っているわ。でも、フォレルスケットってね、直訳するとラブでもライクでもないのよ。逆に『愛』を直訳してノルウェー語にするなら、シャーリヘイトゥーになる」
「じゃあ、フォレルスケットってどんな意味がある言葉なの?」
「わたしはノルウェーの人ではないから、ニュアンスとかはちょっと違うのかもしれないし、きっとこの言葉は他のどの言語にも訳せないのだとは思うのだけれど。あえて意味がわかるように表すなら、『恋で胸がいっぱいになるほど幸せな気持ち』なんですって」
 素敵な言葉ね。
 アニータがそう笑う声を、イージーは胸が詰まる思いで聞いていた。耳元で囁かれた、先ほどのジョゼの声が蘇る。フォレルスケットと発音したあの言葉が、意味を持ってイージーの胸を満たした。
「わたしはいつも、スヴェンにこの気持ちをもらっているわ。だって初恋だったんだもの。あなたも、きっと、この言葉を大切に思う筈よ」
 暗い廊下で彼女を腕を組み、そして滲んだ世界で扉が開かれる。小さな教会の明るい庭の先には、少しだけ固い表情のスヴェンと、いつもと同じ顔をしたあの人が待っていた。
 この先もずっと、いつまでも同じ毎日が続くとは言い切れないけれど、きっとイージーはジョゼと毎日恋をするのだろう。彼が愛を囁いてくれるように、その耳に、全身に、愛おしい愛の言葉を返したいと思った。


 Joses og regnet blir forelsket.
 これは、ジョゼと雨の恋の話。




end