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01




眠れなかった翌日は、当たり前のように気が滅入った。


「ご覧の通りわりと荷物残ってるんですよ。いやぁね、何度も連絡してみたんだけど携帯なんて通じたためしがないし、今は固定電話持ってる人の方が珍しいくらいでしょう? うちは敷金礼金ゼロだから、こういう事が結構あるし、だからね、最初にきちんとご説明するんですけどね。面倒なんですよね、ほら、裁判所とかで色々してもらって、それから色々……大変なんですよ、本当」
「それはまた、お疲れ様でした。ではこちらは全て破棄してよろしいんですね」
「はぁ、そうですね、そういう事になりましたね。きちんと裁判所から手続きしましたし、うちも道楽じゃないから次の住居人入れたいんですよ。ほら、ここ、繁華街に近いでしょ? 女の子とか、結構ね、お部屋空いてませんかって来てくれるから。壁とかはそんなに汚れてはないと思うんですけどね、荷物もまあ、少ないし、愛人さんのお宅とかだったんですかねぇ」
「世の中、小説より奇なりと言いますか、ドラマみたいな事もありますからね。ではすべて破棄いたしますので、よろしくお願いいたします」

まだ喋り足りなそうな小太りの中年女性をすっ、すっ、とドアの向こうに追いやった巴さんは、くるりと向きを変えると何事もなかったかのようにいつも通りの笑顔を浮かべた。

巴さんはいつも、どんな時でも緩やかな笑顔を崩さない。もうすぐ定年の爺ですよというのが口癖で、俺の隣のカズさんが何度か壁を蹴りそうになるたびにチラリとこちらを振り向き苦笑いをした。

「……個人情報の概念から説明しないとヤバそうなババアでしたね」

俺の隣から、腹から響くような低い声が聞こえてくる。
まあまあ、と笑う巴さんは腕まくりをしながらもため息をつくようなことはしない。

「つっけんどんな人よりはいいじゃないの。世の中いろんな人がいるからねぇ本当にさ。初対面なのに急に王様みたいな態度取る人もいるんだから、世間話好きのおばちゃんなんかマシな方だよねって思っておくと人生はとても楽です」
「巴さんは甘いんですよ。私はそこまで他人に優しくなれないんでもうちょっとで壁とは言わずババアの精神をぼこぼこにするところでした」
「カズさんそれは落ち着いて〜会社の方にクレームいっちゃうから〜落ち着いて〜」
「落ち着いてるから壁もババアの精神も無事なんです」

なんとか壁を蹴る事を我慢した様子のカズさんは、まるで巴さんに対抗するように笑わない。
恐らく年齢は中年に差し掛かる頃なのだろう、と思う。先ほどの太った大家と同じ年ごろかもしれないけれど、カズさんはスッと背筋が伸びた痩せ型の女性だ。
平均身長よりもかなり高いはずの俺が、そこまで見下ろしている感がない。たぶん、女性の中ではかなりデカい部類なんだろう。他人の外見やその中身にすらあまり興味のない俺でも、流石にほとんど毎日一緒に居る人間くらいは、観察することもある。

どちらも俺が先月入社したヨコヤマライトクリーンの先輩であり、同僚だった。

ハウスクリーニングを主な仕事として掲げるこの中堅会社は、一般家庭の清掃サービスから企業の定期清掃まで掃除と名のつくものならば大概行っているらしい。その中で俺が配属されたのは、主にアパートの退去時や入室時の清掃業務だった。

この部署の人数は少なく、俺を含め六人しかいないし、アットホームとも言い難い。
巴さんはいつもにこにことしているが、うるさく喋るタイプでもないので笑ってお茶を飲んでいるだけだ。カズさんはいつも何かしら苛立っているように見える。他のメンバーもほとんど喋ることはない。

この職場なら少しは続けられるかもしれない。
何より女性がほとんど居ない部署だったのがありがたい。一か月ももたなかった前の職場の騒ぎを思い出し、寝起きから続いている不快感が増した気がした。

昨日は何時に寝たのかわらかない。
気が付いたら朝で、珍しく自分の部屋に居た。記憶が飛んだ後は、大概路上か駅で目を覚ますのに。明日は仕事だから、という理性が働いたのかもしれない。そんなものが、俺に存在していたらの話だけれど。

ふいにこぼれそうになる欠伸を堪え、じりじりと頭を押されるような頭痛に耐えながら俺は、支度をする二人に続いて部屋に足を踏み入れた。

友人などと呼べる人間はいないので、部屋と言えば自分の部屋くらしかわからない。それでもこの一か月で『よくある間取りの部屋』くらいはなんとなく、傾向がわかってきたように思える。
典型的なよくある一人暮らし用のアパートだった。大家の女性が言っていたように、確かに壁や床に汚れはない。それどころか、極端に私物が少ないように思えた。

「夜逃げしたんでしたっけね」

内履きでこんこんと床を鳴らしながら、カズさんが腕を組む。

「夜逃げかどうかはわからないけれどね、まー逃げちゃったというか放置しちゃったというか。愛人さんのお家だったんじゃないの疑惑があるのもまあ、頷ける荷物の少なさね。持って行っちゃっただけかもしれないけれどね。こういうの、カズさん初めてじゃないでしょ?」
「はぁ。まあ、そうですけど。この前の猫屋敷に比べたら相当マシですね。マジああいうのは衛生面でもヤバいんで特殊の方に持って行けよってあれほど文句言ってるんですけどね」
「特殊さんも小忙しいからね〜これなら早めに終わるでしょう。はい、それじゃあ始めましょう。セツくん、はいはい、こっちに来てね。きみは我が部署の貴重な若手かつ男手だからね。容赦なく私は使っていきますよセツくんを。というわけできみは体力仕事です」
「はい」

俺が職場で口にする言葉の大半はこの言葉だった。
巴さんの指示は的確で丁寧だったので、わからないという事がほとんどない。カズさんにしても口は悪いし少々怖いと思わせる人ではあるが、仕事の指示はわかりやすくすべて先回りするように教えてくれる。
聞き返すことも稀な程きちんと先に説明されてしまうので、俺は壊れた機械のようにただ『はい』と『おわりました』を繰り返すだけでよかった。

あまり、言葉がうまくないと言われる。
二十五歳を過ぎた筈なのに、十代の少年のように扱われることが多いのは、俺の言葉や精神が幼く見えてしまうのだろう。自覚もある。確かに俺なんて、高校生くらいの頭しかないし、実際あの頃から何も成長なんてしていないと思う。

それでもせめてひっそりと、誰の目にも触れずにただ生活できればと。
そう思うのに、たったそれだけの事がうまくいかない。下を向くと頭が痛い。雑巾を絞るように頭を絞られているような気がする。

切るのが面倒で伸びっぱなしになっている髪の毛を結び直し、会社のロゴが入ったキャップを被り直した。

身体を動かしている時は余計な事を考えなくていい。
仕事をしている時もそうだ。
だから俺は目の前の事に集中するふりをして、いつも身体のどこかでわだかまっている『嫌な問題』を棚上げして意識を逸らした。

考えたって仕方がない。今はとりあえず、生きる事だ。とりあえずそれでいい。そう言ってくれた人もいた。その言葉に縋るわけではないけれど、そういう気持ちの方向性もありなんだと思ったから俺はもう一度、仕事をしてみようと思えた。

憂鬱な事ばかりではない。そう思えば頭痛も堪えられる気がする。

奥の方でカズさんが巴さんを呼ぶ声がする。くぐもって反響しているから、バスルームかもしれない。これは酷いと言う巴さんの声が聞こえた。部屋は一見綺麗だが、水回りはあまり管理されていなかったのだろうか。賃貸主が女性なら、排水のパイプからごっそり髪の毛が、という事もあるようだ。

荷物の残りを見ても、元の宿主がどんな人間なのかわからない。
パイプベッドの上には布団もマットレスもなかったし、カーテンは当たり障りない茶色で、家具と言えるものはパソコン用のデスクくらいしかない。
おかげであっさりと部屋のゴミは片付いた。駐車場に停めたトラックに荷物を運び込み、部屋に戻った俺は巴さんに手招きされてクローゼットの前に立った。

「あのね、セツくんちょっと、いいかな、ちょっと……うーん、これ、前に開くタイプだよね?」

巴さんが指さすクローゼットは、ごく普通の備え付けの前開きクローゼットに見えた。先日同じタイプの扉をどこかで見た。間違いないだろう。就職して一か月の俺なんかより、何年と勤めている巴さんの方が詳しいに違いないのに、その巴さんはおかしいなぁと首を捻っている。

「……何がですか」
「いやぁね、うーん、鍵がかかったみたいに、開かないんだよね。勿論クローゼットなんて、外からの鍵なんかないんだけど。硬くなっちゃってるだけかな。私も衰えたかなぁ……」
「中で、何か引っかかっている、とかは……」
「あー。そうかな。どうしよう、死体とか出て来ないよね?」
「………………」
「あ、ごめんねセツくん、ホラーな話は苦手だったかな。ごめんごめん、いやないよ大丈夫、いくらクローゼットが密封されてるとはいえね、死体があったら多少でも絶対に臭いがするからね。そういうもんです。だからまあ、人間も動物も死んでない筈だしそういうホラーな嫌ぁな展開はないとは思うけど爺にはちょっとしんどいので、ちょっとセツくん、ごめんねぐぐいっと、開けてもらっていいかな」
「……はい」

横にずれた巴さんに変わり、軍手をした両手でクローゼットの取っ手を掴んだ。

確かに、固く閉ざされ開く気配がない。何度かゴトゴトと前後に動かしてみたが、木がきしむような嫌な手ごたえがあっただけだ。

「……あの、これ、壊したらまずいですよね。力づくでやると、扉が、壊れそうなんですが」
「うーん。そりゃまずいなぁ。カズさんちょっとーカズさん鍵とか開けるの得意な人でしょちょっとー」
「人聞きの悪い呼び方すんのやめてください。鍵開け屋に居ただけですから。壊れたクローゼットの開け方なんか知りませんよ。つか巴さんが出来ない事を私ができるわけないじゃないですか。いいんじゃないですか破壊しちゃっても、前の住人のせいにしとけば。扉一枚くらいならウチの会社の保証でもなんとかなるんじゃないですか知らんですけど」
「また適当な事言ってー。いやでも、開かないのは確かに困るし、セツくんもうちょっとこう、テクニカルな感じに壊れない程度にガタガタやってもらっていい? 壊れない程度に。私ちょっと大家さんに元々壊れてなかったか確認してくるから」
「テクニカルな感じ……」
「巴さんの言葉の七割くらいは適当に流していい奴ですよ。セツさん、代わりますか?」
「……いえ、なんか、ちょっとさっき下の方が浮いたような気が――」

ガタン、と中で何かが外れたような音がした。

瞬間、勢いよく開いたクローゼットの中から押し寄せるように雪崩落ちたものが、顔面にぶつかりその勢いで倒れ込んでしまった。

「――――……っ!?」

目の前に赤が広がった。

それが何か最初はわからず、大量の紙のようなモノだと気が付いたのはしばらくしてからだった。
赤い色がちらつく。見てはいけない、と思うのは本能だ。それでも目が行ってしまう。そして赤が目に入る。頭が痛い。器官になにか飲み込んでしまったかのように息が苦しい。

写真だった。
赤いのは、血だった。
血が付着しているのではない。乾いた血はこんな鮮血のような色にはならない。
血まみれの女性を写した、写真だ。

それは、クローゼットから溢れる程大量の、頭から絵の具を被ったかのように真っ赤に濡れた全裸の女性の写真の束だった。

赤が目に焼き付くように痛い。
頭が痛い。目が痛い。耳が痛い。
吐き気がする。

「なんだ、これ……」

カズさんの声が聞こえた後、俺はこみ上げる吐き気に耐える事が出来ず胃の中の物を一気にぶちまけていた。



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