04
新垣豆腐店の閉店時間は夕方の五時だ。
これを決めたのは主であり、現在はぎっくり腰で入院中の敬輔の父親だ。ほぼ一人で切り盛りしている豆腐店の朝は早い。仕込みの為に早朝から店に出ている父親は、夕飯の買い物が終わる頃には毎日容赦なくシャッターを閉めていた。
敬輔はほとんど配達要員と言った扱いだった為、一人で店に立つのはこの夏が初めてだ。
一人暮らしも長かったのに、どうも生活能力が無い。
料理は出来ない事はない。けれど、一人だとそうめんだけで生きようとしてしまう。かろうじて摂取している豆腐とおからでなんとか生きていたら、看病で隣町に泊まり込んでいる母親にバレて前沢家への居候が決まってしまった。
二十五歳にもなって他人の家に世話になるなんて恥だ。とは思うが、実際問題食生活はまだしも、洗濯や掃除まで手が回らない。
初めて一人だけで回す仕事は驚くほど忙しい。
コンビニもないような田舎だからこそ、新垣豆腐店は地元の主婦たちに重宝されていた。
夏は台所に立つのも暑く辛い。軽い煮ものと酢のものに、あとは冷ややっこを出しておけばそれでいい、というのが敬輔の父親のうたい文句だ。これが妙に定着してしまい、夏の豆腐の売上が半端ない。つまるところ、敬輔は死ぬほど忙しい。
早朝店に出て、豆腐を作る。
冷たい豆腐を切り分ける頃には学生が登校する時間になる。早々と店を開ければ、顔なじみの老人たちが早くも世間話ついでに来店する。
暇をみつけて駅前のささやかな商店街に走り、弁当屋におからと豆腐を届け、肉屋に寄ってコロッケと一緒に挙げてもらった豆腐饅頭を受け取る。崩した豆腐にヒジキを混ぜて揚げた新垣豆腐店の豆腐饅頭は敬輔の母の自慢料理だったが、彼女が不在である今は馴染みの肉屋のおかみさんに作ってもらっていた。
自分で出来ればいいのだが、どうも油と相性が悪い。
温度を見るのが苦手で、ぐちゃっと油を吸った豆腐の塊が出来てしまうので、もう諦めることにした。豆腐を作るのは好きだ。けれど、それ以外が劇的に下手糞だ。
器用な方だと思って生きていたんだけどなぁ、と、田舎に帰ってきてから思う。
それなりに人望はあったような気がするし、うまい事生きてきた。けれどいざ一人で店を背負うと、出来ない事ばかりで笑いが出る。
もう、二十五歳だと思っていた。けれどきっと、まだ二十五歳なのだろう。
これからぎっちり、どうにか一人できりもりできるようにこなしていこう。
そう心に決め、今日も一日の反省をして五時にシャッターを下ろしたところで、キィー、と自転車のブレーキ音が響く。オイルなんてすっかり落ちたようなサビた音と共に敬輔の横に止まったのは、居候先の前沢家の少女だった。
ジャージ姿で自転車にまたがったままの少女に、敬輔は気さくに笑顔を零す。
「おー綺羅。今帰りか? つか学校ってまだやってんの?」
「もう夏休みだけどぶーかーつー。夏休み明けに大会あんの。今猛練習なう」
「今となうって同じ意味だろ被ってんぞ現役中学生。つかバドミントンって大会とかあんのな……」
「おっ、おっ、ケイちゃん今バドをバカにしたね? きちんとしたスポーツですよ? うちの学校わりとバド強いんですよ? 期待のエース綺羅ちゃんなんですよってのはどうでもいいや、帰りに豆腐もらって来いってばあちゃんに言われてたの思い出して寄ったんだけどもう締めちゃった?」
「あ、豆腐は持ってる。丁度いい具合に売れ残ったからタキさんになんかこう、うまい具合に料理してもらおうと企んで。後片付けしたら帰るけど、乗ってくか?」
「いいよ別にそんな遠くないじゃん。自転車つむの面倒だしー。豆腐だけ先に持って帰るーケイちゃんの豆腐味が濃いから食べやすくて好きー」
「……褒めても豆腐しかでねーよ」
それでも、美味しいと言われれば嬉しい。
まだ父の製法をただ真似るだけの商売だけれど、自分なりに模索して新しい商品を作っていきたいと思わせる。それもすべては両親が帰って来てからの話になってしまうだろう。
今は本当に、店を回すだけでいっぱいいっぱいだ。
「そういや輝流は今日も家?」
豆腐の包みを渡しつつ、世間話に綺羅の弟の話題を振ると、活発な少女は困った様に笑う。比較的仲のいい姉弟だけれど、運動が得意な綺羅と絵をかくのが好きな輝流は、お互いわかりあえない部分が多いようだ。
「そう、家。外に出てさー、写生とかしたらいいのにね? まー、ばあちゃんは家事があるしじいちゃんは仕事あるし、誰も一緒に見ててくれる人がいないから遠出もできないのはわかるんだよーわかるんだけど。おとーさんもおかーさんも、こっちで仕事してくれらいいのに」
「あー。良子さんなぁ……専業主婦! みたいな見た目なのにばりっばりのキャリアウーマンだからなぁ……こっち帰って来たところで結局仕事してそうだけどな。つか今こそ暇な奴がいるじゃん前澤家」
「えー……あの外人おにーちゃん、なんか、とっつきにくいしー……最近はあんまり家に居ないし」
「は? あいつ一人でどこ出かけてんの?」
「知らなーい。ケイちゃん聞いといてよ。夕飯にもあんまり居ないし、家庭内引きこもりが二人に増えたって感じ。外人さんってもっとこう、ガツガツコミュニケーション取ってくるもんだと思ってたんだけどなー」
唇を尖らせながら、不満を垂らした綺羅は自転車のカゴに豆腐を積む。
コミュニケーション云々は個人の性格もあるだろうが、確かにエリックは他人が干渉し辛い雰囲気を意図的に作っている節がある。日本に来た経緯を知っている敬輔としては、それでも暴れないだけマシだとは思っているが、ホームステイだと思っている人間からしてみれば『あいつは一体何をしに日本に来たんだ』となってもおかしくはないだろう。
新しい観光のスタイルだ、などと銘打って結局放置している村側にも問題はあるが、もちろんエリックにも問題はある。
数日、同じ家で生活して、エリックは顔が良いだけのガキだと感じていた。
性格はまだ分からないが少なくとも温和ではないし、付き合い安くもない。顔は好みだし体つきも好きだが、性格的には絶対に付き合いたくないという判断を下した。
同じ空間に居ても、惚れる事は無いと断言できる。
あんな子供に入れあげる暇があるなら、豆腐料理の勉強をした方が建設的だ。
今は敬輔が手いっぱいで相手をしている場合ではないが、少し余裕ができたら豆腐屋の仕事を手伝わせた方がいいのかもしれない。あまり一緒の空間に居たくは無いのだが、放置しているわけにもいかないだろう。
一度通訳を請け負ってしまってから、どうも雰囲気的にエリックのお守役を押しつけられている気がする。幼馴染のみのりにはお世話になったし、今も頭が上がらない。みのりに言われた監視はしてもいいが、朝から晩までエリックの世話を焼くつもりなど無かったが、どうもそうは言っていられなさそうだ。
憂鬱な気分が募る。
夏の暑さは今年も厳しく、身体が慣れるまではどうも苛立ち気味になる。そこに来てこの面倒事だ。
さっさと夏が終わり、エリックはアメリカに、そして両親は家に帰ってほしい。
いつになく夏の終わりが恋しいなどと思いつつ、綺羅と別れ洗い物と掃除を済ませた頃にはすっかり日が陰っていた。
夏の日は長い。冬ならばすっかり真っ暗な時間でも、まだ、うっすらと明るい。
軽トラに乗り込み、慣れた田舎道をとろとろと走る。
車の運転は好きだし得意だが、いつ老人が飛び出してくるとも限らないので、村の中では極力自転車程度の速度で走ることにしていた。
ご老体はもれなく道路に危険などないと信じ込んでいるのではないか、という程軽率に道を横断する。こつんとぶつかっただけでも死んでしまいそうな高齢者が腰を曲げてよぼよぼと歩いている村だ。急ぐことも無いので、ゆっくりと窓の外の風景を楽しみつつ、神社裏の林に差し掛かったときだった。
古い神社は季節の祭事以外では訪れる人も少ない。
時折子供たちが木陰で遊んでいるくらいで、まるで公園のような扱いだった。薄暗い森のような木々は鬱蒼としていて少し気味が悪い。そういえばここでよくみのりに怪談話聞かされたなぁと思いを馳せていると、森の中に人影を見つけた。
一瞬幽霊か何かかと思ってぞわりとしたが、それが誰か分かると別の意味で眉を寄せてしまった。
「……エリック……?」
それは確かに、今同じ家で居候している外国人青年だった。
今日も薄手のタンクトップに、白い肌が目立つ。
一人でこんなところまで散歩か何かか、と目を眇めると、もう一人の人影にも気がついた。
エリックが手を引くようにしているのは、あれは喫茶店の若奥さんじゃないだろうか。二年前に急に洒落たロハス喫茶店を開いた少し派手めな人だ。こんなところでエコも何もないだろうにと思っていたが、案の定特別流行ることもなかったが、特別交流があるわけでもなかったので敬輔は喫茶店の奥さんの事をよく知らない。
この辺には似あわない奇麗な人だったような気がしないでもない。
基本的に女性が恋愛対象ではないので、まじまじと観察することも稀だった。
こんなところで二人で何をしているんだろうか、などと頭を捻るような馬鹿ではない。
溜息を飲みこんで、車を止めた敬輔は特に足音を隠すでもなくざくざくと二人の後を追いかけた。
さびれた神社の隣には、物置小屋がある。祭りの際には舞手の控室などに使われるが、普段は何もなく子供たちのかくれんぼの道具くらいにしか活用されていない。
まさかこんないかにもという場所で、よからぬ行為に及ぶつもりだったのか。想像してあまりにも官能小説すぎて頭が痛くなった。
あの外国人青年も馬鹿だが、こんなところで逢引をする喫茶店の奥さんも馬鹿だ。
ちょっとお話しましょう、という雰囲気ではないのは丸分かりだ。そもそも話だけならそれこそ彼女の喫茶店でしたらいい。お茶を飲みながら喋る場所だ。そこで出来ない話や行為だからこそ、こんなさびれた神社に来たのだろう。
敬輔の睨んだ通り、二人は小屋に向かって進んでいるようだ。
流石に神社の境内ではする気はないらしい。まあそうだろうなぁと苦笑してから、敬輔はことさら爽やかに声を上げた。
まずは日本語だ。エリックに声をかけるより、奥さんを蹴散らした方が早い。
「あっれ、山際さんじゃないっすかー? 今日お休みでしたっけ?」
びくり、と女性の肩が揺れる。
申し訳ないなぁとは思うが、見ないふりをするわけにはいかない。相手がエリックで無かったら、敬輔も通り過ぎていた筈だ。
「うちのエリック、最近家に居ないって聞いてたんすけど、山際さんの店に入り浸ってたんすかね。いやー、申し訳ない、こいつ愛想悪いでしょ。こんな田舎で交流できるのかって心配してたんですよねー世話してもらって有り難いです」
「あの……新垣さん、その、」
「でもこの先抜けちゃうともう国道しかないし、歩いて帰るには遠回りっすよ。旦那さん今日町内集会でしょ? もしアレなら俺、迎えに来てもらうように連絡しますけど」
「あ……歩いて、帰ります……っ」
わざとらしい分かりやすい脅しに、自分で笑いそうになってしまった。昼ドラでこんな台詞見たなぁと思う。思うが他にどうしようもなく、顔を真っ赤にしながら走り去る若奥さんの後ろ姿を眺めた。
そして、一緒に逃げようとしていたエリックの手を掴む。
「……なんだよ」
「なんだよってなんだよ、お前ね、やるならもうちょっとうまくやれよこんなガバガバなやり方じゃすぐ問題になるぞ……田舎って割と閉鎖的なんだからな。お前が村の女に手ェ出したなんてばれてみろ、前澤さんとみのりちゃんが白い目で見られるだろーが分かってんのかボケナス」
「うまくやれば良かったの?」
「そういうことじゃない。やるなっつってんだクソガキ。もっと明るい遊びを見つけろ。ここはお前が住んでたNYじゃない。日本の、クソ田舎だ。お前の街じゃないんだよ」
ぐっと力を込めると、エリックの細い眉が寄る。剣呑な表情は今すぐにでも殴り合いに発展しそうではあったが、ばつが悪いのか手を出すことはない。
抵抗しないことを確認し、敬輔はエリックを引きずるように物置小屋の中に押し込む。
英語とはいえ、あまり大声でしたい話ではない。という判断をしたのか、エリックは抵抗しなかった。その隙に、敬輔は扉を閉じてしまう。
小屋の中は特別何もないが、祭りの神輿を補修したりするため、ビニール紐やロープが端に散乱している。適当なロープを手にして、無言でエリックの両手を掴んで縛り上げる。
この時点でやっとエリックはここが密室で、そして敬輔が至極真剣で、つまりは怒っていることに気が付き口を開きかけたが、煩い黙れと一括して押し倒した。
ドン、と腰を打つ時にひじも打ったらしく、身体を丸めて痛みを逃しているエリックの縛り上げた両手を柱に括りつける。万歳するように固定された手をギシギシと動かすエリックの口を手でふさぎ、携帯を片手で操作する。
呼び出しに出た綺羅は、能天気な声でご飯できたよと笑った。
「あー綺羅? ごめんな、散歩途中のエリックと偶然出くわしたんだけどさー、なんかこいつ暑さにやられて具合悪いんだってさ。ちょっと休ませてから帰るから、夕飯間に合わないかもってタキさんに言っといて。うん。よろしく。うん? 平気平気、死ぬほどじゃないから」
日本語だったので、エリックには通じて居ない筈だ。それでも、敬輔の放つ不穏な空気に、眉を寄せるのが分かる。どうにか逃れようと動かす腕が、古い柱を軋ませる。
携帯を仕舞い、蹴られないように間合いを計りつつ近づき見下ろす。薄暗く蒸し暑い室内で見下ろす。
「ちょっとだけ覚悟しろ。まあ、自分が悪いんだから反省もしろ」
「……なに、す……」
「エロクソガキにお仕置き」
勝手にグレるのは構わない。自分の人生好きにしたらいい。
けれど、他人を巻き込むやり方は気にくわない。時と場所を選ばない馬鹿も嫌いだ。自暴自棄になるなら一人で勝手になっていろ。みのりの手筈で異国にまで来たというのに、軽率な行為しかできない子供に、苛立った。
「そんなに盛ってんなら、俺が相手してやるよ」
笑いもせずに太股の上に乗り上げる。
腰付近を封じられて足も動かせなくなったエリックが一瞬身体を引いたのが分かったが、ほだされてやるつもりは無かった。
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