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「#年下攻め」のBL小説を読む
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01




キキキキ…、キキキキ…、と、警報機のような音が響く。


何もしていなくてもじっとりと汗が滲む。熱いお湯の中に居るような不快感の中、日本の夏は辛いとこぼしていた叔父の顔が頭に浮かんだ。

毎年、叔父のカイルは妻の故郷である日本に数日滞在するらしい。それは『お盆』という伝統行事の為だと説明されたような気がしないでもなかったが、エリックにはどうでも良いことだった。

まさか自分が日本に来ることになるとは思ってもいなかった。
叔父の嫁であるみのりは、エリックにとって珍しく好ましい大人だったが、その故郷にまで興味があるわけでもない。
遠い日本の文化などどうでもよかったし、日本語を覚えたのも国に興味があったわけでもなく、ただ単にみのりが楽しそうに教えてくれたからだ。知識欲とコミュニケーションの一種であって、実際に活用する予定などなかった。

そもそも、日本語は発音が難しく、単語を聞き取ることはどうにかできるが喋るのは苦手だ。
その程度の言語力で意志の疎通ができるとも思えない。カイルの話では、都会では英語も通じるが、みのりの実家がある田舎地方では挨拶程度しか理解されないらしい。

ハローとコンニチワが通じたところで、会話は成り立たない事くらいは知っている。
一応携帯端末に翻訳辞書を入れてはきたが、積極的に活用しようとは思って居なかった。

一ヶ月、どうにかやり過ごせばいい話だ。

日本人は真面目な人種だと聞いていたし、大学で見かける日本人はいつも堅い表情をしてきっちりと始業時間を守るようなやつらばかりだったから、多少の不安はあった。
自分の生活態度はほめられたものではない、という自覚はある。全部が全部、大学の日本人のように他人にも時間厳守を命じるような国民性だとしたら、この夏は監獄に入れられたようなものになるだろう。

けれども今日空港に迎えに来た男女は非常に堅い笑顔で挨拶をしてから、くつろいでくださいと辿々しい英語を言い放ったっきり、気まずそうに口を閉ざしたままだ。

英語がしゃべれないならば話しかけてくる必要もないが、二人もいるのだから勝手に喋っていたらいいだろうに。エリックがそう思う程、迎えの車内は緊張と無言に満ちていて、ああそうか自分は腫れ物扱いをされているのかと気がついた。

こんなにびくびくとされては、元々乗り気でなかったエリックでなくても声をかける気をなくすだろう。

しかし姿勢を正せ、時間は厳守だ、と小うるさく指示されるよりはよっぽどマシではあった。
この調子なら一夏、適当に一人で時間をつぶせばいいだけかもしれない。それならば、あの家に居るよりは断然良い。

最初に日本行きを言い渡された時は、絶望的な気分になった。ただ、家に軟禁されるよりはマシだということも理解していた。エリックは、見た目程馬鹿ではない。それは、みのりにもカイルにもよく言われる。
きみは頭がいいのに、そのずる賢い頭脳を全部反抗期に費やしているんだねぇ。……そう笑う二人が今回両親に代わってエリックに与えた罰が、日本での農業体験ステイだった。

そもそもの話はみのりの実家からの要望だったらしい。
あんな小さな島国でも、田舎の過疎化というものは進んでいるという話で、どうにか集落を活性化させたい、という試みの一環が外国人の田舎ステイ体験企画だった。

ただ、まだ計画は実用段階にまでは行っていないらしい。
とりあえず誰か身内で日本に来て様子を見てくれる人間が居ないか。そう泣きついてきた日本人にみのりが差し出したのが、夫の兄の息子であるエリックだった。

海外で一夏、一人で過ごす。
お目付け役はみのりの親戚一同がいる。
これを期に、エリックも心を入れ替えるかもしれない。

金切り声をあげて反対する母親と、渡航費は滞在費はと金の話しかしない父親を説得した叔父夫婦の言葉が蘇る。
心を入れ替えるも何も、今の自分に心などない。そんなものはすべて、あの両親がひねりつぶしてしまった。

空いた心の穴は、すっかり欲で埋まってしまった。
肉欲、食欲、ありとあらゆる欲。

セックスも酒もクスリも好きだ。愛している。着飾るのも好きだしピアスも好きだ。去年右肩に入れたトライバルも気に入っている。この夏に左側にも使術する予定だったのに、予定も金もなくなってしまった。

日本に来る前に手持ちの金はすべてみのりに預けさせられた。正直、両親に渡すよりは数倍マシだったので文句は言えない。そもそもこんな田舎に、ドルを円に換えられる場所が存在しているとも思えない。

段々と道は細くなり、景色に四角い升目状に並んだ緑が目立つようになる。
花か何かかと思っていたが、そういえば米が主食だったことを思い出した。ならばあれは稲穂というやつだ。

稲ばかりの景色にやがて、平たい森が混じってくる。
視界は驚くほどの緑だ。枯れ草も平原もない。瑞々しい緑と青い空が広がり目にまぶしい。

水の国だとみのりが言っていた。水と神様の国。
けれども今、エリックが居るこの国は、じっとりとした暑さと稲の国だとしか思えない。
その上耳に痛い音が、どこからともなく響いてくる。動物の鳴き声か、それとも虫か。理性はそう結論づけて無視を決め込もうとするのに、あまりにも大音量すぎて思考から排除することができない。

数時間無言で車に揺られ、やっとおろされた時も、キキキキ、キキキキ、と、その音は遠くから響いていた。

耳に痛い程響くこの音はなんだと、それだけ訊いてみてもよかったが、口を開くのも億劫でやめた。
暑くてだるい。日差しはもうしずみかけているのに、どうしてこんなに暑いのか。空気全部がドライヤーの熱風のようだ。

古めかしい家の前に立たされたまま、目の前でなにやら揉めだした男女をぼんやりと眺めた。
どうやら漏れ聞こえてくる日本語からするに、どうやって家に案内したらいいのか、正式な英語がわからないらしい。
そんなもの、とりあえず単語でわめいておけばいいのに。どうも、日本人というのは面倒くさいのかもしれない。

さりとて助け船を出してやるのも面倒で、適当に聞こえないふりをしながらあたりを見回した。
すごい。見事に何もない。それも叔父一家が暮らすカナダの平原のような何も無さとは別物だ。

道はある。坂もある。小さな川も、稲の植えられた畑もある。山もある。けれど、人が住めそうな家というものがあまり見あたらない。
平原ではないので見渡しが悪いせいもあるかもしれない。とにかく狭苦しい自然の中で見える家はほとんど無く、閉じこめられているような気さえした。

それにしても暑い。
じっとりとティーシャツに汗が滲み始めた。いつ、自分は家に招き入れられるのだろう。
愛想もなくただ訝しげに立っていると、バタバタと数人の大人が駆けつけてくるのが見えた。

どこからわいてでたのか。
思ったよりも、人は住んでいるのかもしれない。

年輩と思われる数人の男の真ん中には、少し目を引く男前な青年が居た。皆、ぐいぐいと彼を前に出す。

暫く何事か抵抗していたように見えたが、そのうちあきらめたようにため息をついて、男前は頭に巻いていたタオルを取った。はらり、と、黒いまっすぐな髪が額に落ちる。

みのりに似た、艶やかで綺麗な髪だ。

黒髪の男は、若干苦笑気味で、握手を求めてきた。握り返してやる義理は無かったが、髪の毛に見とれていたエリックはうっかり、反射的に握ってしまった。
悔しいことに身長はあまり変わらない。日本人は小さい、という先入観があったが、どうやらそういうわけでもないらしい。

「あー。ごめんな、すっごい放置されたでしょ。気分を害していたらすいません。はじめまして、俺はニイガキ、ケイスケ。呼びにくいだろうからケイでいいよ。えーと、エリックって呼んでもいい?」

その男が余りにも綺麗な英語を話すので、またエリックは思わず素直に『いいよ』と返事をしてしまった。
驚いた。こんな田舎には、通訳をつけてくるか日本語をたたき込んでこないとダメなんじゃないか、と思っていたのに。

ケイスケと自己紹介した男は、にっかりと笑ってとりあえずの説明をしてくれた。
そのほとんどは最初にみのりにたたき込まれていた生活上の知識だ。必要だったのはステイ先の人間の紹介くらいなもので、それも大して興味のないエリックは話半ばにケイスケの英語を聞いていた。

綺麗な発音、綺麗な音。でも、お手本のような白々しさはない。少しだけ独特なアクセントが入るのが癖のようで、おもしろい。

どうやら一応、言葉が通じる人間はいるらしい。
それがエリックにとって良いのか悪いのか、判断には困る。

言葉がまるで通じないのも困るが、ある程度意志の疎通ができてしまうのも困る。何を言ってるかわからないから従えない、という手段が封じられてしまう。これでは。好き勝手に過ごす、という予定が崩れそうだ。

案の定微妙な表情をしているエリックに対し、部屋の案内を終えたケイスケは、すうっと目を細めて釘を刺してきた。
他の人間が居なくなった途端、笑顔をひっこめるこの男は、案外見た目通りの好青年ではないのかもしれない。頭の良い人間はきらいじゃない。でも、今必要ではない。

「……俺は英語ができるからってんで、みのりさんに事情聞いてるけどさ」
「事情……あー。他の住人はみんな、俺がただのステイだと思ってるってこと? 本当は田舎への島流しなのに」
「妙な日本語知ってるなー……まあ、そういうこと。いい子にしてないとみのりさんにチクるシステムになってっからね。こんなど田舎で外人のにーちゃんが何かしでかしたらそれこそ大変な騒ぎになっからさ。くれぐれも、穏便に」

面倒な事に巻き込まれたくないでしょ、と笑われ、その余裕が少しだけ癪にさわった。

(穏便に、ね……)

つまりこの男は、エリックのお目付け役なのだろう。それも不本意だという事をあまり隠してはいない。
別に、騒ぎを起こすつもりはない。こんなところで有名人になりたくはないし、無事に帰ることだけが目標だ。

ただ、発覚しなければ良いだけの話だ。
ケイスケの目を盗めばいいだけならば、ある程度は自由に遊べるのではないか。特に、何があるわけでもなさそうな田舎だが、……遊びの相手くらいはいるだろう。

感情はできるだけ顔に乗せない。素知らぬ顔で、オーケーと言っておけばいい。
そんな技術は、幼少の頃からあの家庭で育っていれば嫌でも身についた。

「まあ、とりあえずよろしくエリック。俺は別にキミ専用の通訳ってわけじゃないんだけど、他の人間が英語からっきしっぽいから、まー困ったことがあったら言ってみたらいいよ。もしかしたら捕まるかもしれないから」
「……かもしれない?」
「俺にも俺の仕事があんのよ。通訳にかかりきりにはなれないからさ、ああ、これ俺の番号だけどキミの携帯から掛けると国際ローミング料金になっちゃうんだっけ? まあ、キラにでも黒電話の掛け方教わって」

さらさらと書かれたアドレスのメモを適当にしまって、それならそれで好都合だと思った。

こんなところになじむ気は無い。みのりに迷惑がかかることを考えれば、表向きはおとなしくしていたほうがいいことは分かっている。ただ、どうやらエリックが警戒すべきなのはステイ先のマエザワ家ではなく、ケイスケというこの男の方らしいことは分かった。

蒸すように暑い空気の中で。
耳に響くうるさい音はまだ消えず。
――……ああ、うるさい。この音は、なんだろう、いらいらする。

叫び出したいような苛立ちを隠してケイスケに、わかったよと心にもない言葉を投げつけた。


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