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11



「キラってさ、幾つだっけ」

茹だる様に暑い午後、飽きる事無くスケッチブックを広げるヒカルはクレヨンを手にしたまま、ほんの少しだけエリックを見た。

今日の彼の獲物は、アリジゴクらしい。
砂地になっている縁側の下を覗きこむ位置に草履を置く為の台を置き、そこに腰を降ろして懸命にクレヨンを動かしている。
対するエリックは、ヒカルの斜向かいにあたる縁側に腰掛け、庭の奥に咲いている三本のひまわりを描きなぐっていた。

「キラちゃん?」
「そう、あー……制服って、ハイスクールまで? ジュニアハイスクールまで? どっちだっけか。大学生、じゃねーよな。ヒカルは、いくつだっけか」
「……十歳。キラちゃんは、十四歳」
「ふぉーてぃーん……」

もうスケッチブックには同じひまわりの絵が五枚もある。アサガオも、グラジオラスも描き飽きた。マエザワ邸の庭に植えてある花はほとんど描き飽きてしまったが、だからと言って帽子をかぶって外に行く程の気力はない。

この国に来た当初は、家に居るのも窮屈に思えてとにかくふらふらと散歩を繰り返していたが、最近は家の外に出る事の方が窮屈に思えた。
外に出ると視線を感じる。別に、びくびくされるのはどうでもいいが、エリックが外に出ようとするとヒカルが付いて来ようとする。すると、不躾な大人たちの視線を受けるヒカルがどうも不憫に感じ、エリックの足はマエザワの家から離れることはなくなった。

すっかり懐かれた、とケイは笑う。
けれど、懐いているのは自分の方だということを、エリックは理解している。
家主である老夫婦は相変わらず特別エリックに構うことも、放置することもない。夕飯になれば呼ばれるし、夕刻前には麦茶を出されるし、けれどエリックが何をしようが咎める事も無く好きに絵を描かせてくれた。
豆腐屋の手伝いが無い日はすっかり、ヒカルと並んで絵を描くことが日課になった。

ヒカルの隣は心地いい。言葉が少なくともヒカルは気にしないし、彼の絵は力強く繊細で、エリックの興味を引いた。
キラは最近やたらとこちらを見てくるくせに、視線が合うとにやにや笑って逃げてしまう。あまり良い気分ではない。
ケイは、相変わらず同居している大人という位置からエリックを見ているようだった。今ではすっかりエリックの通訳として、仕事の面倒まで見てくれているケイに、心を許していないわけではない。それどころか、最近は何をしていてもケイがどこにいるのか気になる。

ケイの隣は、気が休まらない。
その理由に心当たりがあるからこそ、エリックは無意識にケイを探し、意識的に避けてしまうという作業を繰り返してしまっていた。

ケイが気になるせいで、最近やたらとケイにまとわりついているキラにも目が行ってしまう。
……もしかしてキラが自分の事をちらちらと意識しているのは、エリックのケイに対する微妙な関心がばれているからではないか。
日本人は見た目が若く、その上エリックにはまだ、顔の見分けもうまくできない。すっかり子供だと認識していたが、十四歳といえばそれなりに恋愛に過敏になってもいい歳だ。

「キラってさー、好きな奴いたりすんのかな」

スケッチブックに向かい手を動かしていると、口がどうもおろそかになる。

本能のままに言葉が零れ、はた、と今の発言はどうかと気がついたのはヒカルがうろんげな目でこちらを見上げていたからだ。

「……いや、あー、違う。別に、俺がキラのこと好きとかキラが気になる、とかじゃなくて。そうじゃなくてさ、あー……最近、ほら、ちょっと帰り遅いじゃんキラ。日本って、何歳くらいから恋人いたりすんのかなーとか。なんつーか、異文化コミュニケーションっていうか、えー……」
「…………キラちゃん、好きな先輩がいるとか、言ってたけど」
「あー、そっか。へえ。先輩。そう。……先輩」

それは学校の先輩ということだろうか。万が一にもケイのことじゃないだろうな、と思っていた事がヒカルにバレていたということはないだろうが、微妙な反応なエリックにも構わず縁側の下を凝視するヒカルは言葉を続ける。

「夏祭りに、浴衣着て行くって、楽しそうに言ってた。来週の、夜の……先輩も来る、って」
「へー。……夏祭り。ヒカルはいかねーの?」
「人がいっぱいいるところは、あんまり、好きじゃない」
「だろうな。まー、俺もそうだったな」

今もそんなに人混みは好きではない。好きではないが、家に居たくなくて、街に出る事を覚えた。都会の喧騒の中では、エリック個人の事など誰も見向きもしない。しかしこんな田舎の集合体では一歩外に出るだけで視線に晒される。

突然ヒカルが立ち上がり、パンパンと洋服の尻を叩いた。
どうやら、絵が完成したらしい。ずるずると台座を元の位置に戻したヒカルは、エリックの隣にちょこんと腰かけて絵を見せてくる。
強いタッチで描かれたアリジゴクの絵はリアルで、虫が嫌いな人間には見せられない程の生命力に溢れている。エリックはひとしきりヒカルの絵を堪能した後に、彼の了解を得て虫の絵の後ろに背景を描き足し始めた。

クレヨンで塗って指で伸ばす。この描き方をするせいで、絵を描いた後のエリックの右手は酷い色になったが、エリックはクレヨンが好きだった。

茶色と黄土色のクレヨンを親指で伸ばしながら、エリックはヒカルに麦茶飲まないと倒れるぞと声をかける。
縁側に居ると、いつもケイがそうやって声をかけることをエリックは知っている。

「水分補給と塩分補給だっけ? ヒカルさ、飯あんまくわねーだろ。ちゃんと水くらいのんどかないと、外で絵描かせてもらえなくなんじゃねーの。……これ、赤と黄緑どっちがいい?」
「……赤」
「おーけい。……なあ、ヒカルは、あー……ケイの事好き?」

好き、という単語を言う時に、少しだけ動揺した。ヒカルは、足をぷらぷらとさせながら、いつもの無表情をほんのすこしだけ和らげる。

「好き。ケイちゃん、時々怖いけど、ちゃんと話きいてくれるから」
「……怖い?」
「うん。怒ると怖い。ちゃんと謝れば、いいよって言ってくれるけど。お母さんとお父さんが、あんまり怒らないから、ケイちゃんが怒るの、すごく怖いけど」
「あー……まあ、怖い、よな……」

ケイは正しい。とても正しい大人だから、子供に対してきちんと怒ってくれる。それは人格がまだ形成されていない子供にとっては、ひたすらに怖いものだろう。けれど、ケイは正しいから何が悪いかを理解して謝れば許してくれる。
エリックがケイを怒らせたのは、エリックが馬鹿だったからだと今なら反省できる。あのお仕置きはどうかと思うしまだ恨んではいるが、馬鹿な外人のガキをよくぞ許してくれたものだと思わずにはいられない。

確かにケイは怒ると怖い。でも、謝れば許してくれる。
怒っていないケイは、きちんと話を聞いてくれる。そして、思いもよらない感性で言葉を返してくれる。エリックはこの国に来てから、随分と衝撃を受けていたが、その出どころの大半はケイだった。

真剣に豆腐を作っている姿も、近所の老人達に囲まれて苦笑いしている姿も、ヒカルの絵を嬉しそうに見ている姿も、そしてふとした瞬間に笑う姿も、思い出そうと思わなくても脳裏にふとよぎってしまう。

特に最近は帰って来てからケイはシャワーを浴びる。半分濡れたような状態でそこら辺を歩いている姿は最悪なほど目に毒で、良からぬ感情を持て余しているエリックは何度か我慢できずにケイを人気のない場所に誘った。
何も言わずにキスを受けてくれる。何も言わずに腰を抱いてくる。その意図は何か、言わない自分も悪いが、ケイの思っていることがわからなくてこのところは寝不足になる程だった。

好みじゃないと言ってた気がする。
手を出す気はない、と言われたことは覚えている。
じゃあなんでキスを許してくれるのかはわからない。空気を読んでるの? と聞いたら読んでると答えられる。それはつまりエリックの欲望に気が付いているということなのか、その上でキスを返してくれているのか。どこまで本音かどこからが言葉遊びなのか。
他人の感情などエリックがどう考えてもわかる筈もなく、暑さが和らいでいく日が暮れる縁側で、苛立ちをぶつけるようにクレヨンをぼかした。

「…………エリックは、好きじゃないの?」

しかし、ヒカルの問いかけにエリックの手は面白いように止まってしまう。
こんな一言で馬鹿みたいに動揺する自分が、本当に馬鹿のようで悔しくて嫌だ。

「……ケイのこと?」
「うん。嫌い?」
「…………嫌い、というわけじゃ」
「好き?」

口に出してしまいたくない。
ただそれだけのプライドでぐうと言葉を飲みこみ見上げるヒカルの視線に耐えていると、急に耳の横から声がした。

「誰が誰に愛の告白?」
「っ、ひぃ……!?」
「ちょ、失礼じゃんそんなびびんなくてもいいだろ。あ、ヒカルただいま。タキさんが呼んでたぞ。おからの味見しろってさ」
「ん」

じろり、と耳を押さえながら振り返ると、にやりと笑うケイの顔がすぐそこにある。しゃがみ込んで笑う男が憎らしく何か言ってやりたいが、耳に残る声色がまだ心臓あたりをくすぐっている。
うまく声が出ない。悔しい。

ケイに言われたヒカルは素直に頷いて、クレヨンを仕舞ってから台所の方に駆けて行った。ヒカルがきちんと整理整頓が出来る子供なのは、老夫婦と、そしてケイの教育なのではないかと思う。
スケッチブックを閉じ、苛立ちを隠さずに手の汚れを叩く。擦って落ちる汚れではないが、なんとなくそうしてしまう。

「……なんだよ愛の告白って」
「スキとか嫌いとか聞こえたから。聞き間違えじゃないっしょ? なんだよ甘酸っぱい少年の相談だった混ぜろ混ぜろーと思ったけどヒカルが虫以外に惚れることなんてちょっと今のところ思い浮かばないからキラかなんかの噂話?」
「別に。関係ないだろ」
「えー。おにーさんも混ぜてよ楽しい話に。気になるじゃん」
「なんで。……まさかアンタロリコン?」
「ゲイだっつってんだろ。キラの恋愛事情なんて筒抜けだし別に今更根掘り葉掘りきかなくてもいいけどエリックとヒカルが楽しそうにお喋りしてたらまーぜてーって思うじゃんか。で、誰が誰の事好きだって?」
「…………ぜってー聞こえてただろ……」
「ないない。全然。今来たばっかりだし。『嫌いじゃない』の後の言葉は何かなーとか、思ってるだけだから」
「聞こえてんじゃねーか……」

耳を押さえたまま立ち上がろうとして、ケイに肩を押さえられて倒れそうになって縁側に手を付いた。一瞬の隙に、耳の下にキスをされる。ぞくり、とした甘い感覚が腰まで響いて、思わず崩れ落ちそうになった。

「大人最悪……」
「うん。俺もそう思う。あー……エリック明日暇だろ? ヒカル連れてちょっと遠出しようかなーって思ってんだけど、一緒に来るだろ」
「遠出ってどこ」
「ちょっとお滝さんまで。日本の名水何選みたいなのに選ばれてたような気がするけど、まあ普通の水場だよ。涼しいし、ザ・日本の夏みたいな風景をちょっと満喫するのもいいじゃんって思ってさ。ヒカルの好きな虫もいっぱいいるだろ」
「……まあ、留守番してても、別にやることないし……」
「さんきゅー。お前が居てくれるとヒカルが楽しそうだし、子守労力も半分でいいし、助かるよ。じゃあ朝出発な。キラは部活かなーなけりゃ誘うけど、別にいいだろ?」
「別にオレが連れてくわけじゃないし、アンタが決めたらいいじゃん」
「いやなんか、最近お前キラのことちらっちら見てるから、なんか気になることでもあるのかなーと思って」
「……アンタがべたべたしてっからだろクソ野郎」

言い捨てて逃げるつもりだった。それなのに、腰を浮かした瞬間ケイにつかまって引き戻されてしまう。
空気を読めよ、と本気で思う。
死ぬほど気まずい思いでケイの手を振り払おうともがくが、割合強い力で掴まれていてうまくいかず、足を思い切り踏んでやった。いたい、という声と共に解放される。
思い切り逃げるエリックの背中に、ケイの少しだけ硬い声が降って来た。

「エリック、その話、明日するから!」

……そんな事を言われてしまえば、余計に今夜、寝れなくなりそうだった。



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