10
「お夕飯にすっからね」
タキに声を掛けられたのは、敬輔が帰宅してシャワーで汗を流した後だった。
たまたま台所前を通ると、顔を覗かせたタキに輝流とエリックを呼んでくるように言われる。家じゅうにちらかっている団扇で仰ぎつつ、敬輔はいつものように前澤家の縁側に足を向けた。
もう七時前だが、夏の日の入りは遅い。まだ暗くなる気配もない庭に、エリックと光流は大概並んでスケッチブックを広げている。
二人が使うのはクレヨンだ。輝流はこの新しい画材にまだ慣れないらしく、エリックが言葉少なにあれそれと教えているのが悔しいことに微笑ましく、そして更に悔しいことに羨ましい。
俺にはあんな能天気な顔見せないくせに、などと子供相手に張り合っている自分を自覚する度に、敬輔は大豆を煮込む鍋に埋まりたくなる。
全くもって大人になれない。興味が無い、だなんて嘘はもう自分ですら騙せない。エリックの一挙一動が気になる。つい目で追って、汗の浮いたうなじに欲情しそうになり、母親に覚えさせられた正信偈をぶつぶつと唱えて理性を保つことになる。
敬輔の挙動不審さはエリックにどう思われているのだろうか。
相手が日本人の十九歳ならばまだ、想像のしようもあるが、人種も国籍も違えば考え方も文化も違う。日本人のようなじりじりと詰め寄り生ぬるい好意を小出しにしていく恋愛過程は、アメリカの人間には縁のないものだろうということはなんとなく理解している。
最初の頃のような無関心さも、お仕置き後のような敵意も、敬輔は感じない。多分それなりに好かれている筈だ。
ただ、それが本気の好意なのかただの遊びなのか、懐かれているだけなのか、わからない。確証がなければ口説けないなんてヘタレすぎると敬輔自身も思う。けれど、みのりから預かっている子供に手を出すわけにはいかないという言い訳と、結局アメリカに帰るんだからという事実に、走りだしそうな感情は抑えられていた。
お湯で上がった体温と同じく熱い息を溜息にして吐きだす。
敬輔のささやかな溜息は、今日もまだ煩く鳴く蝉の声でかき消された。
「おら、芸術家ども、飯だってよ」
いつもの声を心がけながら、敬輔はことさら大げさに団扇を仰ぐ。
首から下げたままのタオルで首の汗を拭う敬輔を見上げた二人は、素直にスケッチブックを閉じた。輝流は元々素直な子供だが、最近はエリックも文句を言う事が少なくなった。特に輝流と一緒に居ると、エリックは出来の良い兄のようになる。
「あー、ちょ、ほらヒカル、無理矢理詰めたらクレヨン折れんだろ……ちょっと貸してみろって。ほら、端から詰めてきゃちゃんと収まる」
「…………ありがとう」
「ウン。手洗ってけよ。いつものとこに片づけとくから」
「うん」
素直に頷いた輝流の頭を、エリックがわしゃりと撫でる。
あーあーもうすっかり懐きやがってお互いに、という敬輔の子供のような嫉妬の視線に気がついたエリックは、なんだよと眉を寄せた。
「……別にいじめてねーだろ。なんか不満?」
「いやー仲良くなりやがってちくしょう、みたいな? やっぱ同じ趣味だと違うのかね」
「あんたとヒカルも仲良いじゃん。オレとあんたが一緒に声かけたらさ、ヒカルはそっち行くだろ。……子供に好かれんのってそんなにステータスになる?」
「ってわけじゃないけどさ。輝流がエリックに懐いてんのもアレだけど、お前が輝流に懐いてんのもコンチクショウっていう話」
ほんのちょっとの悪戯心と大人げない大人のジョークじみた気持ちで目を細めて口説くように笑いかける。まったくもってずるいし駄目な大人だ。正攻法じゃない。こんなからかうような態度ばかり取るから嫌われるんだ、とわかっているが、エリックが一瞬言葉に詰まり動揺したような様子をみせると、敬輔はお手軽にテンションが上がった。
何とも言えない表情をしたエリックは、無言で敬輔の手を取ると縁側から納屋の方に回り込む。慌てて庭先のサンダルをはいた所為で右と左を間違えた。それを直す間もなく、母屋と納屋の隙間に引きずり込まれ、口を開く前に唇が重なった。
キスだ。
夜、河原で蛍を見たあの日から、エリックは事あるごとにキスをしかけてくる。
その度に敬輔は言葉を返す代わりに舌を絡めて息を奪うようにキスに応じた。
みのりに合わせる顔がない、と頭の隅で考えながら、エリックの骨ばった腰を抱いている自分が居る。エリックの肌は敏感で、汗ばむ手のひらにくすぐる様に爪を立てるだけで、彼の身体は快感に震え甘い息が零れた。
こんなキスをしていては、本格的に押し倒すのも時間の問題だ。
キスをしている時のエリックは順応で、敬輔の欲望に火が灯りそうになる。内腿を摩りあげただけで足を開いてねだってきそうだ。勿論、そんなことはできない。それくらいの理性はまだ残っている。
もう少し暑い季節だったら、頭がイカれて何もかも忘れて貪っていたかもしれないなぁ、などと頭の悪い事を考えながら唇を離すと、濡れた唇を無造作に拭ったエリックが視線を外しながら小さく呟く。
「…………日本人ってやつはさ、空気を読むってのがうまいんじゃねーの?」
「最大限読んでるつもりだけど」
「……あっそ」
それだけ言って、赤い顔の青年は大股で母屋に帰って行った。
その後の敬輔は、ただひたすらかわいさと愛おしさと中途半端になった欲望を持て余し、深呼吸をするしかない。
すう、と吸い、はぁーと吐いている最中にガタンと納屋の壁が音を立て、本気で死ぬほど驚いた。
慌てて納屋の方に顔を出すと、自転車を引いた綺羅と目が合う。
どうやら、部活から帰って来た所らしい。綺羅はガサツで適当なところがあって、何をするにもよくぶつかって扉という扉を壊しまくっていた。
男子のように元気で、こいつは本当は男子なんじゃないかと敬輔は常々心配していたが、中学に上がり制服を着ると途端に普通の女の子になった。
足癖は悪いが、髪の毛に気を配り、スカートを履くようになった綺羅はすっかり女子だ。
そして女子というものは、他人の恋路になぜか首を突っ込まずにいられない人間が多い、ということを敬輔は失念していた。綺羅が、多少無神経であることも。
綺羅が敬輔とエリックの少々熱を孕んだキスシーンを目撃していたのは明らかだ。少女の頬は真っ赤で明らかに興奮している。それは暑さと自転車での運動のせいではないだろう。
言葉を探す敬輔に、綺羅は言葉など選ばずに興奮を隠すこともなかった。
「キス!! キス!? ぎゃああああケイちゃんえっちだ!! エリックとケイちゃんいつの間に!? てかケイちゃんの好みって年下だったのうっそー!?」
「……待て待て、待て、綺羅、お前、ツッコミどころまずそこなのかよ、まずその、ほもっていう所はいいのか綺羅」
「だってケイちゃんがおほもの人だってみんな噂してるしー。あたしはさー、最初はびっくりしたしそんな気持ち悪いこと言わないでよ! って思ったけどよく考えたらケイちゃんが隠してる事をさ、周りが勝手に噂して勝手にきもちわるいとか言ってる方がめっちゃ気持ち悪いじゃんって気が付いてー。あとやっぱりほもってどうなのかなーって思ってたんだけどケイちゃんとエリックのちゅーがすごくなんかもうすごかったからどうでもよくなった! わんもあぷりーず!」
「いやしないから……。つか、なんかところどころ人権感的にどうかなっていう発言があったような気がするけど、それは、まあ、後でいいわとりあえず綺羅いいか誰にも言うな。エリックにも言うな」
「おーけーおーけー秘密の恋人だね! きゃあああときめく! ちょっとまじヤバい! ラブロマンスじゃん!?」
「……らぶろま……いや、なんか、もうなんでもいいけど、お前の口の軽さほんと不安しかないな……」
「で、どっちから告ったの!? ケイちゃん!? エリック!? どっちが先に恋しちゃったのー!?」
「落ちつけ少女漫画の読み過ぎだ」
綺羅をなだめつつ、この田舎で育った割合無垢な少女にどこまで事実を打ち明けるべきか、敬輔は久しぶりに頭を悩ませた。
敬輔はゲイだ。これは正直に肯定してもいい。事実だ。それに、今更村で話題になったところで、噂は本当だったのかと思われるだけだろう。事実敬輔が学生の頃から、ほもだゲイだと噂されることはあった。親と仲のいい友人にはカミングアウトしている。老人達が白い目で見てくるかもしれないが、その時はその時だといつでも覚悟は決めていた。
だが、エリックと敬輔は恋人ではない。綺羅の口は軽い。羽のように軽い。言われて困る話があるなら、本当に困ると頼みこむくらいしか手はない。
うきうきしたコイバナだと思ったままでは綺羅はエリックに何事かふきこむかもしれない。ただでさえ微妙な関係だというのに、綺羅が勝手に首を突っ込んでくるのは非常に困る。
結局敬輔は『エリックとは恋人じゃない』という事実をそのまま伝えることとなった。
「……え。じゃあセフレ?」
「おま、女子中学生がとんでもない言葉使うなよ父ちゃん母ちゃんが泣くぞ……セフレでもない」
「じゃあ時々えっちなキスする関係?」
「……まあ、あー……正確に描写すると、そうなる、か?」
「え。でもケイちゃんはエリックのこと好きなんでしょ?」
首を傾げて言い切った綺羅に、敬輔の言葉が詰まる。
どうにか『なんで』とだけ捻りだすが、無邪気かつ無神経な少女は敬輔の些細なプライドや言い訳を一網打尽にするだけだ。
「だってここんとこいっつもエリックの方見てたじゃんー。そんなに心配なのかなーって思ってたけど、あれは恋だったわけだねあぁーたまらんケイちゃん片思いかよー! じゃあ絶賛口説き途中でちゅーまではおっけーになったってことでしょ!?」
「…………まぁ。そう、かな?」
そうだろうか。言われてみれば、そういう状況なのかもしれない。
うだうだと言い訳ばかりしてきたが、確かに敬輔はエリックに興味がある。というか欲情しているし、エリックがかわいいと思う。キスをすれば胸が鳴る。見つめられれば居心地悪く熱があがる。
そして恋をしていると認めてしまえば、時折キスをしかけてくるエリックに思わせぶりな態度で応じる敬輔は、彼を口説いている最中と言えるのかもしれない。
「あーもう最近面倒な恋愛相談に巻き込まれてばっかりで鬱だったんだけどー、こんな身近に超ラブロマンス転がってんじゃんー。やばいうきうきしてきた! そんでそんで? ケイちゃん的にはどうやってあのアメリカンイケメン落とす気なの? やっぱ身体から、痛い!」
「不遜な言葉使うな俺が教えたとか思われたら困るだろ馬鹿娘。いいから、放っておいてください。俺とエリックがどうしようがどうなろうが、綺羅は何もしなくていい。つか何もすんな。お願いだから何もすんな。エリックにも何も言うな。まじで。お願いします」
「えー……おもしろそうなのに」
「綺羅」
「はい?」
「人の事情を面白がんな。俺は不倫してるわけでもないし未成年に手をだしているわけでもない。わりと真面目なんだよ。……相談したい時はするから。俺が放っておいてくれって言うのは、綺羅にそうしてほしいってお願いしてるんだよ」
「…………ごめんなさい」
しゅんとした口調は少し震えている。敬輔はあまり怒ったりしないので、時折綺羅にモノ申す時にはいつも泣かせてしまう。
とはいえ今回は敬輔も悪い。そもそも、自分がきちんと考えて行動していなかったのでエリックとの関係がよくわからなくなった。開き直って真面目に考えるべきだ。そうしないと、みのりも、前澤家も巻き込む事になる。
遊びで手を出すなとエリックに言ったのは自分だ。
その事を思い出し、敬輔は綺羅の頭をぐりぐりと撫でた。
「……俺も言い過ぎだよ。俺なー恋愛っていつもうまくいかなくて苦手なの。だから、綺羅はにやにやしながら見守ってろよ、な? 協力とかそういうのはいいからさ」
「うー……」
泣きそうな綺羅をあやしながら、敬輔は暮れはじめた空を見上げて浅い息をつく。
言葉にしてしまうと自覚する。好きかな、ではなく好きだなと思うから、これからエリックとどう向き合うべきか問いつつ、カナカナと夕暮れを知らせる蝉の声を聞いた。
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