「赤子が泣いて居る」


岩融が徐に呟く。小さな川の河原の横の荒れた道の真ん中で、私たちは足を止めた。薬研の噂通りであるならばそろそろ聞こえてくる頃合いかと思っていたが、あまりにも突然岩融が呟くものだからとっさに息を殺しながら、足を止めて辺りに耳を澄ませた。


「…そうか?」

「あ、ぼくもきこえます」

「………」

「まさか聞こえぬのか?こんなに大泣きしておるのに」

「煩い」


事実、藤乃の耳に赤子の声は聞こえていなかった。横に居る今剣でさえ、おぎゃあおぎゃっていってますよなんて真顔で言ってくるものだから聞こえないのが悔しいったらありゃしない。恍けたようにこちらの顔を覗き込みながら言う岩融から顔を背けそっぽを向けば、ゲラゲラと笑われた。本当に聞こえないのだから仕方ないだろうが、とあからさまに不機嫌な顔をしてやった。
しかし妙だ。普通であれば聞こえる筈のモノが聞こえない。職業柄霊感やらそう言った類が抜けているとも限らない。ならばどうしてこの2人には聞こえて私には聞こえないのか。違いがあるとすれば、人かそうでない者かの違いぐらいだろうか。

聞こえないのであれば仕方がない。彼らの耳を頼りに此方は気配を追うとしよう。そう思い袖の中に手を入れたその時である。


「おぉっとぉ?」


ガシリ。まさにそんな音がしそうな勢いでいきなり岩融の足首が川から伸びてきた真っ黒い大きな手によって捕えられる。しかし彼は慌てる素振りも無くニヤリと笑みを浮かべると、その大きな手もなにかを悟ったのかサッと岩融の足から手を離した。
岩融の足から離れて行った手はスルスルと川の方へと戻って行く。その行き先を目で追えば、そこには川から此方を覗く大きな黒い塊があった。黄色に光る2つの円が恐らく眼だろうという事が分かるぐらいで、形は大きくて丸い。否、形が無いようにも見えた。


「何者だ」

「…………」

「応えよ、何者だ」

「…………」


川の中からジッと河原に立つ此方を見つめているソレは何を発するでも無く、只々此方を見ていた。隣の今剣に静かに問うと、どうやら赤子の泣き声は止んだらしい。この正体不明の黒い物体が姿を現した途端、急に泣き止んだという。なら、可能性は一つだ。


「"川赤子"」

「ッ!!!」


名を呼ぶ。刹那、黄色の眼が見開いたように見えた。真っ直ぐに此方を見て驚いたような、その名を呼ぶなと言うような何とも言えない動きで蠢いては徐々に此方に近づいてきている。川赤子の名に反応を示すという事は、少なからず川赤子と関係があるモノ、と見ても間違いない筈だ。
もう言った類の者は自分の名が明かされると素直に正体を現すものだがどうもこの黒い生き物は川赤子の正体には見えない。もう一度名を呼ぼうと口を開き掛けた瞬間、斜め後ろで岩融がザリッと河原の砂利を踏みしめる音が聞こえた。


「下がれ、藤乃!」

「ゥ、ウウゥ…ギャアアアアアアアアアアアアアア!!!!!」


怪しく蠢めいていたその黒いモノは河原まで這い上がってくるといきなり大口を開け、叫び声をあげた。その叫び声は大きな見えない波となって藤乃達に襲い掛かった。逸早く反応した岩融が藤乃と今剣を守るように腰に手を回してくれたお陰で2人は倒れる事は無かったが、かなりの威力だった。


「っ!!うるさい、です…!」

「おいおい、随分と元気だなぁ…」


耳を劈くようなその声に、思わず耳を塞ぐ今剣の横で藤乃は岩融の腕の中で静かに手を合わせ、息を吐く。これも致し方ない…念のため、だ。


「岩融、今剣、戦闘許可!……殺すなよ」

「「承知・しょうち!!」」


叫び声を上げながら此方にその黒くて大きな体から幾つもの黒い手を此方に伸ばしてくるのが見えた。瞬間、藤乃の目の前にフワリと何処からか現れた風が壁になり黒い手を弾く。風の膜があっという間に3人を包み、風の膜が晴れる頃には2人はすっかり武器を携え相手との臨戦態勢に入っていた。
ニカッと歯を見せて得物を構えた2人の姿は命令を下せばすぐに目の前の黒いモノを切り裂くだろう。だが、今回はそう簡単なモノでは無い。手を合わせたまま相手を見回す。まずはヤツの正体を暴かなければ。叩き斬るのは本当に最終手段だ。


「(しかし、見た事も無い異形だな…だが、川赤子の名に反応したのを見れば恐らく本体は川赤子…なら、本体を覆うほどのこれは一体…)」


前回のお化け電車といい、この黒い影のようなものは一体何だというのだ。妖本体の姿形を覆うほどのソレは近くに居るだけでも瘴気が濃い事が分かる。それもかなり悪い瘴気だ。普通の人間なら良くて気絶、最悪は死んでいるだろう。
そんな瘴気の塊から次々と此方に伸びてくる手を今剣と岩融が藤乃に近づけさせまいと薙ぎ払い、切払う。しかし相手に疲労の色が見えない上に埒が明かないのは誰が見ても明らかだった。このままではヘタをしたら此方がやられる。その前にどうにかして―…


「…クル、シ…」

「 ?! 」



蠢く黒い靄の塊の奥、何かが見えた。刹那頭の中に直接響いてくるような声に藤乃は息を飲んだ。あれ、は―…


「藤乃!」


岩融に名を呼ばれた瞬間、いつの間にか目の前に黒い手が迫ったのが見えたのを最後にバッと視界が暗闇に覆われる。あの黒い靄に飲まれたのだと理解するのにそう時間は掛からなかった。
幾つもの手で岩融と今剣を翻弄している内に本命である此方に手を伸ばすとは。どうやらこの黒い塊はそこまで考える脳が無いわけではないらしい。地に足が着いている感覚も無く、自分が今目を開いているのか開いていないのかも分からない。瘴気の波に襲われ、気持ちが悪い。

だが、フと視界にぼんやりと灯りのような点が見えた。何とも言えぬ息苦しさを憶えながらそちらに近づこうと動かせているのか分からない足をそちらに向ける。瘴気で霞む視界の中、ジッと目を凝らしてみればぼんやりと浮かぶ灯りの中に小さな何かが蹲っているように見えた。


「(…川赤子、なのか…?)」

「……クル、シィ…ヨ…タスケ、テ…」


先ほどまでのあの歪な叫び声では無い。微かではあるがしっかりとした言葉を話している。苦しんでいる。助けを求めている。あの黒い靄とは明らかに別の存在。蹲るように確かにそこに居る存在に、藤乃は目を奪われた。そして、


「…ソデ、ヒ、キ…」


その一言に確信した。息苦しさの中その存在に手を伸ばそうとするが届かない。否、身体が動かない。マズい。長い事この瘴気の満ちた空間に居過ぎたか。視界がまた霞み始め、このままでは意識を失うのは目に見えていた。その前に脱出しなければ。意識を失ってしまえば終わりだ。このまま靄に飲まれて、何も出来ないまま消えてしまう…そう思った矢先。


「藤乃!!!」


鼓膜が破れるんじゃないかと思うほど唐突に自分の名を呼ぶ声が聞こえ、同時に二の腕を大きな手で掴まれた。そのまま物凄い勢いで体を引かれ、ズルズルと変に纏わりつく靄の中を掻き分け、そうしばらくしない内にスッと身体全体に解放された感覚が広がる。


「ぷはぁっ!!は、はっ!」

「藤乃、無事か?!大事ないか?!」

「大丈、夫っ!だから…離せっての!!」


息苦しさから解放され、新鮮な空気を肺に取り込んでいればいきなりガシリとその大きな両手で両頬を挟まれ無事を確認される。此方を心配してくれているのは分かるが、息をつく間もなく体を揺するモノだから自分を引き摺り出してくれた岩融を無理矢理引きはがす。と、彼も彼で気づいたらしく「す、すまん…」と零しながら深呼吸を繰り返す私の背中をさすってくれた。


「…して、こやつは祓うのか?祓わぬのか?」

「おさえておくにもげんどがありますよ!」


呼吸も落ち着き、相手を見る。依然として動きは鈍くなっていないし伸びている手も減る様子も見られない。私を引き吊り出した岩融とは別に今剣が1人で何とか靄の手を振り払っているが、このままでは本当に埒が明かないのは目に見えている。
祓うなら祓うでさっさと祓ってしまわないと更に凶暴化する恐れがある。まぁ何にせよ面倒にならない内にケリをつけたい。


「何かの瘴気に当てられただけなのかもしれない」


だが、コイツを祓うにはまだ早い。今、闇の中で見たのだ。あの闇の中でたった独り、苦しみ助けを求めていた。


「まだ、川赤子の意識がある」


確かにあの闇の中に居た存在は袖引きの名を呼んでいた。自分でもきっとこの黒い靄を制御しきれていない。自分の意識とは関係無くこの靄の部分が暴れ回っているのだろう。しかしまだ意識があった。ならばまだ私のように引き吊り出す事も出来るかもしれない。否、この靄の部分だけ祓えれば…。


「2人とも、援護を」

「「いわれなくとも!!」」


息を整え、真っ直ぐに相手を見る。一度様子見に黒い靄から距離を取っていた今剣と岩融が藤乃の呼びかけに力強く地面を蹴って飛び出して行った。そんな2人の背を見送りながら、藤乃は静かに手を組み意識を相手全体に集中させる。


「(何か、何かある筈だ…まだ意識が残っているのなら、どこかに綻びが…)」


何でも良い、消えかけでもまだ確かに残っている意識の欠片がある点を見分けられれば。数本にも分かれ伸びる手を振りはらう岩融と今剣の合間から目を凝らし、彼を探す。思わずザリッと河原の砂利を踏みしめ、しっかりと自分の体を支えるように立ち組んだ手に力が籠る。刹那、


「見えた!」


僅かに見えた綻び。黒い靄の中心よりもやや下のあたりに何かの存在を微かに感じ取る。瞬間藤乃が動く。袖口から一枚の札を取り出すとピッと自身の指先をその札で切り、僅かに出た鮮血を札にしみこませる。と、何も書いていなかったように見えた札に赤黒い文字のようなモノがスッと浮かび上がった。と、そのまま藤乃は持っていた札を飛ばす。
応戦する岩融と今剣の間をすり抜けて飛んで行った札はペタリと黒い靄の中心よりやや下…つまり彼の存在を感じた部分に綺麗に貼りついた。それを確認し藤乃が人差し指と中指を立てると、彼女の様子に岩融も今剣も即座に靄から離れた。


「このモノの体を返し、邪気は消えよ!!」

「オオ、オ、オオオオオオオ!!!」

「名も無き怨念、悪霊、魑魅魍魎…貴様等はこの世に居るべきものでは無い!!!」


ヒュッと風を切るように腕を振るい、何もかもを振り払うかのように、そして退かせるように声を高らかに叫ぶように吐き捨てると黒い靄の化け物は見るからに苦しみだした。バチバチと靄に貼りついた札が僅かに閃光を走らせ、火花を散らしている。嗚呼、効いている。なら、さっさと仕上げだ。


「 解 」


短い一言と共に立てた人差し指と中指の形を崩す事無く空を切る。すると札から僅かに走っていた閃光が一気に弾けだし、靄の体のあちこちで火花が散り始める。


「オオオ、オオオオオッオオ、オオオ!!!!」

「ッ!川赤子!!!袖引きがお前を待ってるぞ!!!」

「オオオオオオオッ!!!!」

「己を失うな!!戻れ!!!」

「グ、ォ、ォオオオオオオオオオ!!!」


苦しみながらも此方に迫ろうとするヤツに藤乃も負けじと札に意識を集中させながら距離を一定に保つ。しかし相手も相手で消えたくないのだろう此方に向かってくるのが見え、慌てて2人を呼んだ。


「岩融!今剣!!」

「応!」

「はいはーい!」


一時距離を置いていた2人が、スッと藤乃の前に出て彼女が何も言わずとも時を合わせ、その閃光の散る黒い靄に向かって駆けて行く。フッと藤乃が息を込め仕上げに取りかかると同時に岩融と今剣は大きく自身の得物を振りかぶった。
刹那、辺りが一瞬の内にまばゆい光に覆われ何も見えなくなる。微かに聞こえた呻き声は一瞬にして無くなり、フワリと心地のいい風が頬を撫でていく。翳していた指先からフッと札が役目を終え消えた感覚を憶えつつ遠くから聞こえてくる新しい声に耳を澄ませた。


「おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ…」

「…ハハ、泣いてる泣いてる」


眩い光が徐々に消えフワリと何もかもを掻っ攫って行ってくれた風の後、河原の傍に転がる1つの布の塊…否、布に包まれた状態の存在。そして、先ほどまで聞こえていなかった声で泣いているその存在に思わず口元が綻んだ。





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