せなかあわせの続き
なんでこうなってしまうのか。自分はバカだと常々から知ってはいたけれど、この前例の後輩のクセに生意気なシューター君に「本当に先輩はバカですね」だなんて真顔で言われてしまったのは正直堪えた。「知ってるわ!」と返した虚しさとあの哀れむ視線ったらないわ。つまり私はバカなのだ。成績の話ではなく、いや成績も決していいとは言えないけれど。だから今日もこうして夏季長期休暇中である筈の学校までわざわざ補習を受けに未だ残暑厳しい中やって来たのだけど。
「先輩がバカって今更じゃないっすか?」
「よし高尾、お前表に出ろ」
一年生のクセに生意気なもう片割れが、やはり生意気にも失礼なことを抜かしやがる。ケラケラと笑いながら前の席から椅子を反対向きに座ることで、私と会話をしている。因みに彼も補習組の一人だ。学年が違うけれど、今は自習の時間なので空き教室まで私が引っ張ってきた。
「普通に話せばいいじゃないですか」
「それが出来れば苦労しないしね」
今日はラッキーだった。しかしとてつもなく最悪だった。ラッキーであることに変わりはないけれど、私がそれを活かせなかったのだ。やはり私がバカらしい。
というのも、今朝は偶々練習前の宮地に出会したのだ。時々、部活に差し入れという名目で顔を合わせることはあったけれど。毎日という訳にもいかず、今日は本当に久しぶりだった。正直すごく嬉しかったのだ。
「なんで挨拶より先に悪態なんですか」
「久しぶりすぎてテンパって……き、緊張しちゃって」
「不器用どころじゃないっすね」
「こんなんじゃ、嫌われて当然だよね」
「いや、それは」
「いいよ、気使わないで」
埋まらないプリントに突っ伏す。がん、とおでこが硬い机にぶつかった。地味に痛い。
不意に頭を撫でられる。ぽんぽん、とまるで子供をあやすかのように。そうされるのは嫌ではないが、如何せん生意気な後輩からのそれであるために釈然としない。
「なにしてんの」
あれ、私声に出しただろうか。いや、今正にそう言おうとしていたけれど未遂である。聞き覚えのある、というか聞き間違える筈のないその声は矢鱈と冷たくて、まるで、あいつの声じゃないみたいで驚いた。
だから反射的に顔を上げた訳なのだけれど、汗の所為でプリントがおでこに張り付いたままで前が見えない。いや、私なんて間抜けなの。
「あー、じゃあ俺部活に行くんで」
「え、ちょ、たか」
いつもの調子は何処へ、ていうかこの状態で私を一人に――いや、あいつと二人きりにするだなんて、気を回してるつもりなのか。いやじゃあフォローくらいしていけ――真っ白な視界が落下して、やはり飛び込んできたのは、
「みや、じ」
声が震えたのは緊張の所為ではない。いや緊張ではあるのだけど、今朝感じたものとは別の恐怖からの緊張だった。だって宮地、すごく怖い顔してるんだもん。棘のある言葉を笑顔で突き刺す宮地を怖いと思わないこともないけど、それよりも怖さが別格だった。
ようやくそそくさと教室を後にした高尾の心理を理解した。これは関わりたくはないだろう。けれど、私を置いて行くとは薄情者め。というか、横を通り過ぎて教室を出る高尾をスルーして、未だに怖い顔をしているということは、私か。私なのか。私に怒ってるんですか。何をしたのだ、私。
宮地はしっかりと私を見据えていて、やはり私に用らしい。ここで重要なのは睨んでいる訳ではなく見据えている、というところだ。あからさまに怒っているときとは段違いに怖いです。いや、今だって充分あからさまに怒っているのだけど。やばい泣きたい。怖いんですけど。怒らせる理由は多々あるけど、毎度喧嘩してるけど、こんなに宮地を怖いと思うのは初めてだった。
すると宮地は一直線に私に近付いて来る。あまりにも真っ直ぐ進むものだから机の角に何度もぶつかっているのだけど、ていうか机倒れるんじゃないの。私の目の前で止まった宮地は不機嫌さを隠しもせずに音を立てて机に手をついた。反射的に肩が大きく揺れる。それすらも気に入らないらしい宮地は眉間の皺を更に深くした。
「何してたわけ」
「え、なに……?」
「高尾と、二人で、何してたんだよ」
ご丁寧にも文節ごとに区切って説明して下さったけれど、よく分からない。なんでそんな怒ってるの。「補習…?」と蚊の鳴く様な声で返せば眉がぴくりと動いた。どうやら返答がお気に召さなかったらしい。
すると急に宮地の手が私の頭に伸びる。え、ちょ、まさかこれは頭撫で……
「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!」
しまった相手はあの宮地だったというのに警戒を怠っていた。宮地の手は私の頭を鷲掴みにして、孫悟空の緊箍児ばりに頭を締め付ける。
「お前」
「ちょっと、離して!」
なんで毎度こうなってしまうのか、痛みからとは別の意味で涙が出そうになる。思ってることなんてこれっぽっちも言えなくて、むしろその逆で、なんでこんなんなんだろう。私は、どうして。
「離せよバカ宮地!」
ヒステリーのように半分叫んだような声はすごくみっともなくて、なんだか恥ずかしくて嫌すぎた。手を離した宮地は、そんな私に目を丸くして驚くと。らしくなく眉をハの字に下げる。
今度は私が驚く番だった。そんな顔の宮地なんて見たことがなかった。なんで、そんな悲しそうな顔。
「なあ」そんな呼び掛けと、共に伸ばされた掌にあからさまにびくりと震えた。そのまま固まった宮地の掌は私に届くこともなく、空気を掴んで固く握られるだけだった。
胸の辺りが酷く重たくて苦しくて泣いてしまいたかった。頭は妙に焦っていて、違う、違うと心の中だけで繰り返していた。そうじゃなくて、違くて、触れてほしくて、本当は嬉しくて、声に出来ない臆病すぎる自分を心底軽蔑した。
「そんなに俺が嫌か」
背筋が凍るようだった。血の気が引くようだった。咄嗟に声が出なかった。泣いてしまいたかった。
反射的に宮地を見れば俯いて未だ拳を固く握っており、表情を伺うことは出来ない。違うと言いたくてすぐにでも言いたくて、でも喉は詰まったようにひゅと空気が漏れるだけだった。
「え、おい……何泣いてんだよ」
言われて漸くぼたぼたと零れる涙に気が付いた。泣いて誤魔化すなんて一番したくなくて、泣きたいのは本当だったけど泣いたら負けな気がして。この期に及んでまだ負け云々考えてる自分もヤで。だけどやっぱり声は出なくて。
勢いよく立ち上がると宮地は「うおっ」と声を上げて、宮地が驚いている隙に私は文字通り教室から逃げ出した。
しかしながら、これまでに無いほどの瞬発力で走り出したのも束の間、やはり現役体育会系男子との追いかけっこで勝てる筈もなく。廊下に出て間もなく捕まった。なんて間抜けな、などと考えてる余裕はないのだが。逃がすまいと捕まれた腕が痛い。
「ごめ、ちょ、見ないで」
「は?何」
「泣いてんの、なさけない」
今更すぎることでも、私のくだらないプライドだった。頑なに宮地と反対を向く私に届いたのは大きく響く舌打ちだった。びくりと揺れた肩を抱き込むように掴まれ、無理矢理向かい合わされる。
息が詰まった。ぐしゃりと歪む宮地の顔を、見てらないと思いつつも目が逸らせない。
「悪い、後で好きなだけ殴っていいから」
言い切らないうちに引き寄せられ、言葉の意味も分からないまま唇を塞がれた。触れて軽く啄むようにして離れた唇に、ぽかんと口をあける私は大層間抜けな顔をしているのだろう。「なんで」やっとのことで絞り出した声は震えていて、心許ない。
「なんで、とか。言わなくても分かんだろ」
「分……かんないよ、全然……」
「分かれよ」
宮地は私をすっぽりと抱きすくめると「頼むから分かって」と耳元で震えた声で懇願するように言う。じわりと沸き上がってくるひとつの答えはずっと求めてた願望で。どちらかと言えば希望に近いそれを上手く受け止められない。ゆっくりと宮地の腰に腕を回せば、更にきつく抱き締められた。
「そんなの、言わないと分かんないし」
「多分正解だからいいだろ」
「なにそれ」
返す言葉は既に涙声で、それでもすごく幸せで、やっぱり涙が出た。