疾走する青い春



 未だに指先に残る冷たさや頬を掠める風も寒くて、そんな現在三月一日が卒業式だなんて信じられない。卒業って涙と笑顔と期待と色んな感情を満開の桜が見送ってくれるものなんじゃないのか。蕾を付けているのかすら怪しい桜たちは私の感傷的な心情すらもどうとでもいいというようにただそこに佇んでいるだけであった。
 しかしながら、恐らくこの桜が満開だったとして、小さな花を枝いっぱいに綻ばせていたとしても、私の気持ちはやはり晴れないのだろう。私は今にも溢れそうな何かを、主に涙を、歯を食いしばることで必死に堪えている。

「堪えられてないからな」
「だって、かさ、まっせんぱっ」
「早川より酷いことになってんぞ」

 そう言いながら、呆れたように溜め息を吐く笠松先輩はいつも通り過ぎて、いやいつもよりなんか優しいけど。兎にも角にも、涙が止まらない。涙どころか鼻水とか色んなものでぐしょぐしょな酷い顔をしている筈だ。しかも泣いているのは今日からではない。昨日の時点で既に耐え切れなかった私はわんわん泣き始め今朝の段階で目の晴れ具合は人様に見せられるものではなかった。特に尊敬する先輩の前でなんて尚更だ。明日から先輩が学校にいない。来ない、ではなくてもういないという事実、当たり前すぎるそれを受け止めきれないのだ。

「笠松せんぱっ、卒業しないでっ」
「無茶言うなあほ」

 言いつつ小突く力がやっぱり優しくて、顔だって苦笑いしつつも柔らかい。既に決壊崩壊荒れ放題な私の涙腺を更に刺激する。子供の駄々と大差無いものであるとは分かっていても、願わずにはいられない。だって今までの日常がそうでなくなるだなんて、ありふれた表現ではあるが正にぽっかりと穴が空いてしまったような。この風穴にまだ春の遠い冷たい風は辛すぎる。

「笠松先輩今日優しい!泣く!」
「なんでだよ!?」
「だっていつもは思いっきりぶつもん!」
「ぶたれたいのかよ……」
「そっ、じゃない、けど」

 すんすんと鼻を啜りながら言葉を紡ごうとするが嗚咽が邪魔をする。何か伝えなければ、そんな焦燥に似た何かに迫られている気がする。しかし、冷静とは言い難い今の状態ではどんな思いも声には成らなかった。
 再びぴいぴいと泣き始める私を見かねてか、笠松先輩は自分の頭をがしがしと掻いて、一つ細く息を吐く。そのまま伸びてきた手によって今度は私の後頭部を掴まれ、引き込まれるように笠松先輩の胸元に収まった。一瞬理解が出来ずに涙が引っ込む。先輩を見上げると私から目線を外すようにそっぽを向いていて顔を赤らめており、焦れたというよりあれは恐らく照れを振り切る為だったのかと思い至った。
 目前には卒業生に付けられた花飾りと「卒業おめでとう」の文字、均等にレタリングされたそれに眉が下がる。祝いたくない訳ではないのだ、折角の門出なのだから出来れば笑顔で見送りたい。それでもその文字列にある種の憎しみのようなものを感じてしまうのは、やはり私が幼い故なのだろうか。

「やっぱ、先輩いないと、いやです」
「嫌も何も、卒業だろうが」
「やだ」
「ガキか」

 やっと此方を向いた先輩の見下ろす目が優しげで、しかも頭を撫でたりなんかするなんて、酷い。まるで、もう終わりだからとでも言うような、最後だからとでも言いたげなそれが胸に刺さる。唇を噛んで耐えてみれば「血、出るぞ」と硬い親指で目元を拭われた。それでも留まらない涙に「酷ぇ顔」って笑われる。なんてデリカシーのないだなんて言える余裕は当然のように無かった。
 不意に緩められた力に気を抜けば、今度はおでこ同士をこつんと合わせる。力加減が出来ていなくて少しひりひりするおでこは不満よりも先にああ先輩だ、と安堵してしまった。先輩の様子を覗こうとして心臓が跳ねた。距離的なものもそうだが、伏目がちな先輩の瞳に薄く張られた膜に気付いてしまったからだ。

「大人しく、待ってろ」

 至近距離で落とされた言葉は唐突過ぎて目が回った。咄嗟に「私が行く!」だなんて訳も分からないままに返せば、きょとんとしてからやはり小さく笑われた。離れていく温もりに切なさともどかしさが込み上げる。それでも溢れる愛しさの方が何倍も強くて、というかこんなに泣いてるのだって愛しいからなんだけど。

「先輩、今のプロポーズですかっ!」

 睫毛も乾かないまま渾身の笑顔を向ければ、いつものようなうんざりしたような顔で叩かれた。ああ、やっぱり、だめだ。泣きながら笑うという荒業は先程よりも酷いと思われる。
 それでもさっきまでと違うのは、これから先にあるらしいものへの願い。


title by 獣
ご卒業おめでとうございます



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