イニシャルKの症状


 それはお昼休みを半分ほど研磨とのお喋りで潰していた日のことである。孤爪研磨という自棄に引っ込み思案で、相当な人見知りの少年と会話をするに至るまで結構な時間を有したが、こうして昼休みになると一緒にご飯を食べるようになるくらい仲良くなってからの時間はそう短くもないだろう。最初に会話をしたときから割りと今も、ひたすらに私がぺちゃくちゃとよく回る口を動かし、彼がぽつりぼそりと返すというシステムであるのだが、当初よりも表情筋の硬さが抜けたのは気の所為ではないだろう。
 そして今日も今日とて他愛もない話を菓子パン片手に研磨に繰り広げていたのだ。が、私は話でも何でも、熱くなると周りが見えなくなるタイプであった。そして今日のそれも例外ではなく、話の盛り上がりと一緒に一人盛り上がっていたのだ。だから、昼休みだというのに急に静まった教室にも、研磨の精一杯の思いやりの目配せも全く気付くことが出来なかったのである。

「おい」

 取り繕ったような、いかにも優しそうな声は嫌味なほどに恐ろしく感じられた。そこでやっと彼の存在に気付いた愚鈍な私は素早く振り返り、あ、これ終わったわと己が最期を覚悟した。
 黒髪を跳ねさせた彼のそれがセットでなく寝癖だと知ったときは大層驚いたが、そんな話もお昼休みお喋りタイムで研磨から聞いた話の一つだったっけ、と頭の隅で現実逃避紛いのことをしてみる。研磨と幼馴染みだという彼、黒尾鉄朗は笑顔を携えて私の背後に立っていた訳だが、その笑顔に孕まれた禍々しいものをいくら私といえども察することができた。

「く、ろおせんぱ……い、や、やっほー」

 精一杯の無邪気さを振り絞って小さく手を振ってみたのだが、にんまりと孤を描いていた瞳を細めて見下され、余計に事態は悪化したものと思われる。ですよねーだってギャラリーからお前バカだろ的な心の声がすごい聞こえたものねーだなんて冷や汗をだらだらを背中に流しながら今度は「け、研磨に用事……?」と会話をなんとか続けようと試みた私は中々の勇者なのではないだろうか。凍りついた教室からいつ拍手喝采が巻き起こっても不思議ではない。むしろ誰か褒めてくれよ、だなんて思いつつだんまりを決め込む研磨を伺ってみる。つかお前何やってんだよ助けろよお前の幼馴染みだろなんとかしろよだなんて八つ当たりのような視線を向ける。一方の研磨は此方を見据えたまま馬鹿じゃないのだなんて目で見やがる。一言も喋ってないのに確かに伝わった失礼極まりないそれを納得するのは、黒尾先輩に再び目を向けて凶悪さが増していたことを確認してからだった。実に残念である。

 それからの黒尾先輩の行動は速かった。彼は私を一瞥したまま研磨、と一声呼び掛けるや否や私の腕を少々痛いとすら感じる強さで掴んだ。ヒィだなんて情けない悲鳴を上げつつ恐縮すればニッコリ微笑まれる。しかし完全に目は座っており、その笑顔が好意的なものなどでは決してなかった。

「こいつ借りてくわ」

 言い切るが早いか半ば無理矢理に引っ張りあげられ、その拍子に椅子がガタガタと音を立てる。しかも机の角に太股をぶつけた、地味に痛い。研磨のなんとも曖昧な了承の返事を聞いたのはもう教室を出た頃だった。
 学校の中で殆どの生徒の死角になる場所、なんてものは意外なことに結構存在するわけで。そんなものの一つが階段下である。薄暗くて清潔感に欠けるその場所で、今正に私は壁を背に立っていた。すぐ真横には掃除用具入れ、そのもう片方の顔の横すれすれには逃げを打つのを遮るように黒尾先輩の手が。所謂壁ドンというやつである。そしてあろうことかすぐ目の前には不機嫌を隠しもしない先輩の顔が。私と先輩の身長差であればいくらここまでの至近距離だとしてもここまで顔が近いだなんてことはない筈なのだが、どうやら態々屈んでいらっしゃるらしい先輩はそれでも尚私を見下ろしておられる。
 今にもチビりそうな勢いでビビり上がる私が大層気に入らないらしいと、深く刻まれた眉間の皺が物語っていた。不意に落とされた舌打ちに大袈裟なほど肩が跳ねた。瞬間、もう片方の手が私を挟み込むように突かれ、バンッと大きな音を立てる。なんだこれは壁ドン最終形態?だなんてぐるぐると混乱で白みがかった頭で考える私はやはりバカに違いない。

「鉄朗」

 なんの脈絡もなく溢されたやはり不機嫌な声は当人の下の名前であった。理解ができずに「え?うあ?」だなんて意味のない声を発する私にまた苛立ったようにもう一つ舌打ちを寄越される。いや、いりませんけどね欲しくはないですけどね。

「鉄朗って呼べ」
「え?私がですか?え?なんで?」
「ごちゃごちゃうるせえ」

 彼は低くそう言うと、壁に突いていた手を今度は此方に伸ばし片手で頬を掴んだ。「ぐえ」だなんて蛙が潰れたような声を発する私を気遣うつもりは更々ないらしい。

「いいか、“鉄朗”だ。わかったか」

 まるでカツアゲか苛めの真っ最中のような雰囲気とシチュエーションに、私が応えるべき答えは「はい」以外存在しないのである。ていうかこれ苛めと違うの?
 私がもごもごと返事をするや否や、今度は打って変わって上機嫌な様子で「よし」とだけ返すと何事もなかったかのように帰って行って当然のように私だけが取り残された次第である。

「犬の躾?」

 だなんて思い浮かんだそれを口に出したのは彼、鉄朗先輩が完全に視界から遠のいた後のことだ。

 翌日また研磨とのお昼ご飯タイムで研磨への不満を織り混ぜつつ鉄朗先輩のことを話題にしてみたのだが。何やらとても憐れんだ目で見られ、遂には「御愁傷様」だなんて労いを受けるに至ったのである。

Title by きりん街

付き合ってない



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