天使に居場所がバレてしまった芥辺事務所 ――最悪だ。 佐隈りん子はそう思った。いくら何でもこの状況は最悪過ぎる、と。目の前の状況に彼女は本能的に危機感を覚えていた。それは絶望に近い程の。実際、佐隈の足元にいたアザゼルは、顔を蒼白にしたまま佐隈の足に懸命にしがみつき、ガタガタと震えていた。 「どうして…こんな時に限って」 ぽつりと佐隈の口から落胆の言葉が零れ落ちた。よりによってこんな時に、と。手に握り締めている携帯に思わず力が入ってしまう。目の前には真っ白に覆いつくされた群れが佇んでいて。 そう、そこには数え切れない程の天使の姿があったのだ。 膨大な情報の漏洩 遡ること数時間前。 佐隈は普段通りに芥辺事務所に来て、バイトの事務仕事や雑務をこなしていた。珍しいことに雇い主である芥辺の姿はなく、事務所に来た際にテーブルの上には一枚のメモ用紙が置いてあり、一言『グリモア』と書いてあった。 「アクタベさん、またグリモア回収にでも出掛けたのかな」 そのメモ用紙を見た佐隈はそう理解する。過去にも何回か出張という形でグリモア回収に出掛けていた芥辺だ。今回もそうなのだろうと、そう深くも考えなかった。数時間も経てば芥辺は帰って来ないにせよ、何だかんだで堂珍が学校から帰ってくる。 だから、いつものようにアザゼルを召喚し、事務所の掃除をさせていたのだ。一応、召喚前にベルゼブブにも連絡を入れたが、どうやら芥辺と一緒にいるという。それを聞いて「やっぱりそうか」と佐隈は思ったが、先に連絡を入れていてもいいではないか、と小さく愚痴を零した。ちなみにアザゼルを喚んだ瞬間、セクハラをされそうになった佐隈が、手にしたグリモアを頭に叩き込んだのは言うまでもない。 そんなこんなでおとなしく掃除をするアザゼルを眺めながら、事務仕事を消化することに佐隈は専念していた。今日の晩御飯の献立は何にしようかな、などと呑気なことを考えて。その時、手元に置いていた携帯が鳴り響いた。ディスプレイには“アクタベ”の文字。ランプの色からしてそれはメールではなく電話で。 いつもならば、メールはすれど電話を掛けてくるなど滅多にしない芥辺のことを考えると緊急の連絡なのだろう、と佐隈は理解した。携帯を手に取り、通話のボタンを押す。 「はい、さくまです――」 「アクタベさん、どうしたんですか?」と続けようとした言葉は遮られ、代わりにいつもなら聞くことはない怒鳴りつけるような芥辺の声が受話器から響き渡ったのだ。 『――逃げろっ!』 「え、」 驚きの声を上げつつも、突然の雇い主のその言葉に不穏な陰を感じた佐隈だったが、すぐにそれを理解するハメとなった。 事務所の窓ガラスが突如割れたのだ。ガシャーン、と盛大な音を立てて窓ガラスであったものは粉々に砕け散ってしまっていた。突然の出来事に反応することが出来ず、その場に立ち尽くしていた佐隈の身体は、大量の砕け散ったガラスの破片を浴びることになる。大きな怪我はしなくても、その小さな破片は佐隈に襲い掛かり、大量の傷痕を作ると共に血を舞わせた。 「…っ!」 「さ、さくぅっ!」 『さくまさん!?』 アザゼルと芥辺の声が重なる。佐隈の白い肌は引っ掻き傷のような紅い線が幾重にも重なり、服にもジワリと紅い色が滲んでいた。服は所々破けてしまっている。 (……嗚呼、この服結構お気に入りだったのに) 頭のすみで佐隈は冷静にそんなことを考えた。受話器からは未だに怒鳴り声を上げる芥辺の声と周りをワタワタと走り回るアザゼルの姿があった。 そして、ゆっくりと目の前の状況を見ようとした佐隈の前に、白い羽を持つ群れ…大量の天使の姿があったのである。 ◇ ◇ ◇ 『…ッチ、間に合わなかったか。さくまさん、今状況はどうなってる』 「最悪です、アクタベさん」 天使と睨み合いを続ける中、携帯の受話器越しに芥辺と連絡を取り合う。何ともシュールな光景ではあるが、今はこうするしかない、と佐隈は思った。どういう形にせよ、芥辺と連絡を取れているということだけは今の佐隈にとって唯一の希望でもあった。もちろん不安ではあるが、それでもその携帯だけは頼りに思える。 天使たちはというと、いきなり事務所の窓ガラスを割り侵入してくるという大胆な行動をとった割には動く気配が感じられない。こちらと同じで様子を伺っているのだろうか。足元では未だにアザゼルがガタガタと震えていた。 それもそうだろう、これだけの数の天使。佐隈ですら天使を見たのは一人二人くらいのものである。それが外の視界を白く染めてしまう程の数。アザゼルがビビってしまうのも仕方のないことで。いくらグリモアの力により完全に死ぬことはないにしろ、天使はグリモアを回収し、悪魔を殺す敵なのだ。このままでは、アザゼルたちのグリモアが天使の手によって回収されてしまうのも時間の問題であった。 「アクタベさん」 『何だ』 「アクタベさんは、事務所に結界を張っていると言ってましたよね」 『ああ』 「なのに…侵入してきているんですが。どういうことですか、これ」 『窓ガラスが吹き飛んだんだったか?』 「はい」 『でも事務所内には入って来ていないだろう』 「今のところは……」 芥辺と淡々と会話を続ける。もちろん天使と睨み合いを続けたまま。何とも言えない感覚が佐隈を襲う。まるで常に喉元にナイフを突き付けられているような、そんな感覚。佐隈は早いところこの状況から脱出したくて堪らなかった。 『居場所を突き止めたはいいが、結界のせいで入れない。だから物理的に攻撃をしかけたまでだろう』 「……物理的に」 『さすがに物理的な攻撃は結界ではどうにもならん。結界はあくまで天使そのものに作用するようにしているからな』 その言葉に佐隈は納得をした。だから事務所には入って来ず、様子を見ているのか、と。先程窓ガラスが割れたのも天使たちが直接触れた訳ではなく、間接的に風を使って割ったものなのだと。 『……すまない』 ふと受話器越しから芥辺のそんな言葉が聞こえてきた。芥辺の口から謝罪の言葉が出ることなど滅多にない。恐らく芥辺の横にいるであろうベルゼブブはあの眠そうな目をこれでもかという程に真ん丸と見開いていることだろう。実際、佐隈の足元にしがみついていたアザゼルはつぶらな瞳をギンギンに見開いて「あ、アクタベはんが…しゃ、謝罪?」と信じられないような、聞いてはいけないものを聞いてしまった顔をして、ボソリと呟いていた。 「アクタベさん?」 『俺のせいだ。さくまさんを巻き込んだ』 「………」 あながち間違ってはいないので、佐隈は何も言わなかった。いくら雇い主で謝罪されているとはいえ「アクタベさんのせいじゃありませんよ」なんていう生易しい気持ちなど、佐隈は持ち合わせてなどいない。第一、芥辺自身もそんな返答は望んでいないだろう。 『早く情報の漏洩に気付いていれば……』 「アクタベさん」 佐隈に謝罪を続けようとする芥辺の言葉を遮る。起こってしまったことは起こってしまったことなのだ。今更謝られても逆に困ってしまう。芥辺も芥辺だ。らしくないことをしていることに本人は気が付いているのだろうか。いつもならば悪魔を恐れず足蹴にするほどで、悪魔をただの道具としか見ていなくて、悪魔に悪魔と言われる人がだ。佐隈に謝るなどと、弱気にでもなっているのだろうか。だからこそ、佐隈は芥辺に言い放った。 「情報漏洩でも何でも別にいいんですよ。それよりも今、この状況をどうやって打破するかの方が大事です。そうでしょう?アクタベさん」 『………』 「謝るくらいなら早く戻って来て下さい」 「いくら入って来れないと分かっていても結構辛いんですよ、この状況」と、そう付け加えて。 そんな佐隈の言葉に一瞬黙った芥辺だったが、すぐに受話器越しから「フッ」という笑い声が聞こえてきて。 『そうだな、さくまさん』 そう、芥辺は嬉しそうな声で笑った。佐隈の脳裏には芥辺が機嫌の良い時に見せる口角を吊り上げて楽しそうに笑う、そんな雇い主の姿がそこにはあった。今受話器越しの芥辺の顔はそうなっているに違いないだろう。そして、次の瞬間にはいつもの芥辺に戻っていて。 『急いで戻る。それまで堪えろ』 「はい、アクタベさん」 佐隈も佐隈で芥辺にそう答えた。その会話の後、通話はぷつりと切れる。 芥辺がいつ戻ってくるのかは分からない。だが『急いで戻る』と彼は言った。それだけで、佐隈には希望が見えてくる。始めに感じていた危機感はまだあるものの、ほとんど薄れてしまっていた。 情報が漏洩して天使に居場所がバレたくらいどうってことはない。物理的な攻撃は避けられないにしろ、今は芥辺の結界がある。だから、まだ大丈夫だと。 「……さく?」 心配そうに佐隈を覗き込んだアザゼルに対し、佐隈はにこりと笑った。 「大丈夫ですよ、アザゼルさん。天使にグリモアは絶対渡しませんから」 こんな状況でも芥辺が来れば何とかしてくれる、芥辺なら覆すことが到底無理な状況でも何とかしてくれる。ならば自分は自分でそれに答えるまでだ。佐隈はそう思った。 不利なのには変わらない。天使とはずっと睨み合っている状態で。いつどんな行動に出るかなど貞かではない。だが、それでもどうにかなってしまうんじゃないか、という思いが佐隈の中を駆け巡っていた。 早く、早く。 あの無口で無愛想な黒い背中が見えないかと佐隈は心を躍らせるのであった。 I trust you. So soon come back,please. (貴方となら、きっとどんな困難も。) (12/02/01) あいうえお題 配布》蘖 |