朝の光のなかで、彼女の髪は絹糸のように淡く輝いていた。長い髪の毛が白い首筋にかかって胸元へ流れているのが、なぜだかわたしの記憶に焼きついていくのがわかる。
 スタンド能力を手に入れた猫の化物に攻撃されてから、彼女は意識をとり戻していない。ソファに寝かせると、力の抜けた腕がだらりと下へ垂れた。手を掴み、胸のうえへ置く。指が彼女の肌に沈み、その感触がわたしの手にしっくりとなじむ。掴んだ親指の下にちょうど動脈が走っていたらしい。規則的なリズムがかすかに伝わってくる。わたしの指の腹をくすぐるように打つ。
 わたしは彼女の手を眺める。わずかに指のふしが目立っているため、全体の均衡が損なわれていた。それさえなければ美しい手だ。きめの細かい、やわらかい肌、小ぶりで、指はほっそりとし、爪はなめらかに光って飴のようだ。
 わたしは目を逸らす。彼女の手は不完全だ。だからあと一歩のところで、彼女を「選ぶ」ことはないだろう。しかしその手を眺めているうちに、いつ、手近なところで欲望を充たしたいという、あらがいがたい思いが湧きおこらないとも限らない。彼女を殺すわけにはいかない。そうすることで、わたしの安寧がおびやかされることになるからだ。だからもう、彼女の手を眺めたり、触れたりしないようにしよう、とわたしは決意する。そう決意すると、少しこころが静まったのがわかる。

 早く目を覚まさないものかと、彼女の顔を見た。閉じた瞼は青く、貝殻のようだ。澄んだ空気を伝って、かすかに消毒薬と血の臭いがした(わたしは鼻がきくのだ)。彼女は足を怪我している。包帯を巻かれて、つま先は固くちぢこまっていた。その爪を眺めていると、こんなに薄く華奢なものなら、簡単に剥がれてしまうのは無理ないことだと思われてくる。包帯の巻き方はきれいで、彼女は器用なのかもしれない。
 タオルを水で濡らして、意識を失った彼女の額と、首筋を冷やす。くちびるから呻き声が漏れ、眉根がよせられる。しかし目は覚まさない。こめかみに青く静脈が浮いて、かすかなため息のように脈打っている。
 眠る彼女を見るのははじめてではない。わたしのほうが先に目覚めた朝、あるいは眠れない夜に彼女の横顔を眺めたことを思いだした。記憶にあるその顔と、いま目のまえにある顔はちがって見える。
 彼女はたとえようもなく美しく見え、それがわたしの胸の裏側に、指先でなぞられるような感触を残す。彼女はきれいだ。そんなことはとうにわかっている。それでもいまこのときに感じた美しさに、わたしは圧倒されている。自分が急にでくのぼうになったような気がして、足元の砂地が崩れていくようで、おちつかず不愉快だ。
 彼女は頭を少し肩のほうにかしげていて、首は目の眩むような曲線を描いて伸びている。その首を絞めたいという衝動はひとまずおさまり、自分から遠く離れて、いまは湧きおこってこない。己の本性を打ち明けたいという欲求はいつもわたしを力づける。だがいまは、急に自分が無力になったような気がした。

 いたずらに彼女の顔を眺めていることに耐えられなくなり、目を閉じる。突然、あたりのしずけさに打たれた。まわりの住人はそれぞれ仕事に出たり、学校に行ったりしているのだろう。ときたま、鳥が思いだしたように囀る。目を開ければ、窓ガラスを透かして、光が床にこぼれ落ちているのが見える。
 あたりは平穏そのもの――というよりもむしろ奇妙にしずまりかえって、よそよそしく空虚だ。いまほどしずけさが気に障ったことはなかった。横たわる彼女の存在が際立っている。彼女はわたしの胸にざらつきを残す。まるで皮膚の下がひそやかに膿んでいるような気分だ。しばらくの間、彼女の首を絞めたくなる気持ちをやり過ごす。

 時計に目をやる。出社の時刻はとうに過ぎている。もちろん、彼女を残して仕事に行くことはできない。彼女を襲った出来事の説明をし、うまく嘘をつき、不安と疑念を払わなければならない。彼女がどこかで自分の身に起こった奇妙な出来事を騒ぎたてたり、あるいはそれがきっかけで、わたしのことを疑ったりすることのないようにしなければならない。そう仕向けるのは簡単なことのように思えた。彼女は物事を追究するようなめんどうくさい女ではなく、もっと単純なタイプのはずだ。それに、きっとわたしの言うことを信じるだろうという確信があった。
 その確信をもてあそんでいると、なぜだか次々に、手にかけた女たちのことが思い浮かんでくる。どんな顔だったのか、いまとなっては思いだせない。目が覚めるまえに見る、黒くぼやけた夢のようだ。ただ、みんなきれいな顔をしていたはずだ。
 名前はなにか、どんな仕事をしているのか、趣味はなにか、どんな服やブランドを身につけ、どんなものを食べ、なにを好んでいるのか、そんなことを首を絞めるまえのわずかな時間に、彼女たちから聞きだすのは楽しかった。彼女たちについて知るにつれ、それだけいっそう、その手が生き生きと美しく充実してくるような気がした。わずかな時間に彼女たちについて知ることは、美しい手にひとつずつアクセサリーをつけてやるようなものだ。もちろんそんなことはすぐに忘れる。彼女たちはただ美しく、こころとろかす手をしていた、それだけだ。

 しのぶの白い顔がわたしの記憶にくっきりと刻まれていくのがわかる。やわらかく膨らんだ瞼にいささかの傷もついていないことが、わたしを安堵させた。そのことに気がついて、胸の奥底から、細かい泡があとからあとから、ざわめきながらたち昇ってくる気配がする。彼女は他人の女だ。そんな女を気にかけるのはおかしい。
 そもそも、わたしはだれのことも気にかけたりしない。無数の手、細い首に食いこむ指先へ伝わる弾力、終わりなく続く平穏、そんなものでわたしのなかはいっぱいだ。それで、ただただ、幸福だったのだ。
 もちろん、わたしはこれからも幸福に生きる。そのためには(まだ、いまのところ)彼女が必要だ。目だって潰れていないほうがいいに決まっている。
 しかし彼女のことはもう、考えないようにしよう。その手はわたしを誘っているように見える。

 ため息をもらして、しのぶが目を覚ます。瞼のむこうから覗く白目は、透きとおってけがれがない。瞳がわたしをとらえる。
「コーヒーをいれようか」
 呟くと、彼女は心地のいい夢から目覚めたような顔をして、微笑んだ。胸元で組んだ手が、わたしの頬を撫でているような気がした。
 その指を噛みたい。

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