男の声が夜の海に似たひびきを立ててこだまする。例えば飼っていた鳥を猫に食い殺されたとする。その猫が道端で野垂れ死んでいるのを見つけたような目でオレを見る、とデッドマンは思う。死んでなお会いたいとはな。光栄だ。男の目を見返す。自分の顔の半分がひき攣っていることにデッドマンは気がついていない。
「わたしのことを覚えていますか」
 荒野のように乾いた声で男が言う。デッドマンの額に汗が滲んだ。
「……いいや」
「でしょうね」
 自分が殺した人間をまえに、なにか思うところがあってもよさそうなものだが(例えばすまなかった、やはり許せない、あるいは気味が悪い)、デッドマンの胸にはなんの波もたたなかった。人物の部分だけ黒く塗り潰されてしまった絵を眺めるような感覚に襲われる。感情移入のしようがないのだ。それに興味もわかない。もし男が首から、「わたしはかつて吉良吉影という男に包丁でめった刺しにされて殺されました」という札を提げていたとしても、彼の心は絶命した人間の心電図みたいに真っ平らだろう。
 男の腹に開いた穴から、なまぬるい風が吹いてくる。デッドマンは、ふと気になって尋ねた。
「その腹の穴、痛かったか?」
 我ながら間の抜けて無神経なことを口にする、と彼は呆れる。しかし男は気にしていないようだ。視線が少しばかり虚空をさまよい、ほんとうは知っている答えを求めておし黙る。
「……いいや、一瞬だったから痛みを感じる暇もなかった」
「そうか、それはなによりだ」
「あんたはどうなんだ」
 デッドマンが片眉を上げると、男は遠い思い出でも眺めるような目つきで言った。
「死んだとき」
 デッドマンはなにも覚えていなかった。彼にとっては自分の死すら塗り潰された絵である。なにが描かれていたのか確かめるすべはない。

 道の向こうからざわめきが聞こえてきた。二人の間に時の流れが戻ってきたような気がして、デッドマンはかなたに目をやる。向こうから、男たちが何人か固まって歩いてくるのが見えた。若者もいるが、ほとんどは中年のころだ。みんなスーツに身を包み、革の鞄を持ち、黒い靴をはいている。彼らは酔っているようだ。まだ蒸し暑い空気のなかに、アルコールの匂いが刷毛で引かれたようにふり撒かれる。話をしながら賑やかに歩く。いつのまにか夜が更けていた。月が巨大な目玉のように空に浮いている。彼らはデッドマンと男のほうへやってくる。幽霊たちは生者を避け、行列を見守る。ところが彼らのすぐ脇で、男たちのうちの一人が突然、電柱に寄りかかってうずくまった。
 デッドマンは眉をひそめる。彼は美しいものを好んでいるし、特別そう断らずとも、不愉快な醜態は見たくない。やがてため息のような声が聞こえ、うずくまっていた男は仲間たちに支えられて、よろめきながら歩き去っていった。星が彼らを見送る。デッドマンはため息をつく。生者をうらやむこともある。生きているということは、勝ち目のない特権であるように、ときに思う。しかし彼らはたいてい美しくなく、いつもどこか苦しんでいる。そして必ず衰えと死の影を引きずっている。すでに死んでいる自分がそんなことを言うのはおかしい、と思いながら、彼は生者たちの頼りなげによろめく影を見つめた。

 あたりはふたたびしんとする。男は無言だ。だが、その爪はしっかりと自分の肉に食いこんでいる、とデッドマンは感じる。こういう人間がもっとも厄介なのだ。不満や恨み言や泣き言は言わない。激烈な罵りも吐かない。しかし自分自身や、大切にしているものを貶めた相手にしっかり食らいついて、魂に届くまで歯をたてるのを止めない人間。
 かつて殺したらしい男に向かい、デッドマンは痺れた頭で考える。自分がやったことを引き受けていかねばならぬのは道理だ。しかしわたしの過去はなにも語らないし、そんなもの、背中に負っていることにも気がつかない。くちびるを舐め、観念して男に言う。
「わたしを待っていた、と言ったな」
「待っていた。もう一度殺されたくて」
 絶望することに慣れきってしまったような口ぶりで、男がしずかに答える。デッドマンは眉を上げる。
「殺されたい?なぜだ?そういう趣味か?幽霊を殺したことなどない」
「殺せますよ。そんな気がする。一度殺せたのだから今度も上手くいくはずだ」
 次の瞬間、男の顔が左右非対称に歪んだ。くちびるがめくれている。デッドマンは驚愕する。男は微笑んだのだ。凍った釘のような目をしたままで。骨が凍てつくほど忌まわしく、そして悲愴なものを見た気がして、デッドマンの平静が揺らぐ。
「なぜだ」
 男は振りかえり、暗く溶けていく家並を眺める。橙色の明かりが黒い闇に沿って一列に並んでいる。そのなかの、あの家を見ているのだ、とデッドマンは直感する。妻と息子が住んでいる、あの家。
「ずっと見ている」と男は呟く。
「くる日もくる日も。風が通り抜けて体が塵になってしまうほどに」
 男の声のいびつさがわずかに増したのを、デッドマンはまるで自分のことのように感じる。気の毒なことをした、とちらりと思う。しかし次に男は、彼には意味のわからぬ言葉を口にした。
「自分が必要とされていないというのは、悲しいものだ」
 男はデッドマンに向きなおると、芝居の台本をなぞるがごとく呟く。
「眺めつづけることに疲れてしまった。どこにも帰る場所はないし、行きたいところもない。思いだしてほしい相手のなかにはもう、自分はいない。懐かしがられるたびに、自分は必要がないのだと思い知らされる。生きていたときなら耐えられても、いまはただそれがつらい」
 男がナイフを差し出した。悪魔を殺すという銀の弾丸よりも、神聖に見える。けれどもデッドマンの手のなかに入ると、それは街灯の光を反射して、まるで玩具のように光るのだ。

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