あたしにはいま、気になっている人がいる。
 かつての同級生や職場の同僚ではない。ときたま店に来てくれる、客の一人だ。あたしはいま、S市にある杜王町というところの喫茶店に勤めている。
 こじんまりとした造りの、古びた喫茶店だ。なにしろ三十年は昔からある。外観は煉瓦造り、なかは白い漆喰でできている。
 どっしりとした柱に、飴色に光るテーブルが並び、壁には水彩の風景画が掛けてある。カウンター席もあり、グラインダー(ミルのことだ)や水出しコーヒーの装置や、グラスが透明に輝いているのを眺めることができる。
 名曲喫茶ではないが、店にはいつも邪魔にならない程度にクラシックが流れていた。店の主人が音大を出ていて、レコードやCDが大量に置いてあるのだ。音楽が流れても、店は寝静まった朝のようにしずかな空気が漂っている。

 建物にも、家具にも、食器にも、時代がコーヒーの香りとともに染みついているような、そんな店だ。人々のほうにも、それを感じる。ここを訪れる人々にしろ、店をきりまわす人々にしろ。
 なにしろ客層はあたしよりずっと上だ。近くに住む老夫婦や、退職したばかりの人たち、それからぐっと、というほどでもないが、若くなってサラリーマンたち。あたしがたぶんもっとも若いだろう。だから客にも店の人々にも、かわいがってもらっていた。
 いわゆる、観光客のおしよせるような、はやりの喫茶店ではない(みんなが行くのはカフェ・ドゥ・マゴのような、もっと洒落た店だ)。まえに一度、ローカルなガイドブックに載ったことがあるらしいが、それだけだ。でもあたしはこの店が気にいっている。控えめなレースがついた白いエプロンも、かわいくて好きだ。

 あたしが気になっている人は、ときどき夕方を過ぎてから、店にやってくる。
 サラリーマンなのだろうと思う。いつもスーツを着て、革の鞄を提げている。たいてい窓際か、店の奥の、ちいさな暖炉(いまでは使われていない)のまえに座る。
 注文は必ずコーヒーだ。あたしはいつもミルクピッチャーに生クリームをたっぷり入れて持っていく。あの人は本を読み、一時間ばかりそうやって過ごしてから、帰っていく。
 あの人はいつもきちんと整えられた格好をしている。スーツは折り目正しく、髪もていねいに――だがぺったりと押しつけるようにではなく――撫でつけられている。やわらかそうな髪の毛だ。
 頬骨は高く、細面で、顔立ちは端整と言っていい。色素の薄いような人だ。見てみたら、瞼も薄かった。
 なぜそんなことまで知っているのかというと、いつもあたしが注文を受け、コーヒーを運ぶからだ。だれかに言われたわけでもないが、あの人がこの店に来て三回目くらいから、そう決まっていた。
 あの人もその暗黙の規則みたいなものに気がついたのか、注文を受けにいくと、目をあげて微笑んでくれるようになった。やわらかく穏やかな微笑みだ。コーヒーを持って行ったときも、会釈してくれる。いい人だ、とあたしは思う。

 少し気になることがある。あの人はあたしに微笑みかけ、会釈をすると、視線を落とす。そしてなにか、別のものに視線と意識を向けているように感じられる。まるで遠い場所から来るなにかを夢見ているように。
 とはいえ、不思議には思うけれど、あの人がいい人だということには変わりない。
 あの人は、いつもものしずかに本を読んでいる。きっと、店の雰囲気を気にいってくれているのだろう。この店自体が、頭からしずけさの靄をかぶっているようなのだ。そしてあたしは、そうやって読書をして過ごすあの人を眺めているだけで、ふうわりと幸せな心地になる。

 きょうもコーヒーを運んだ。あの人はまた遠くを見るような目をして、それから我にかえったようにこちらを見た。
「いまかかっている曲、グレン・グールドのバッハかな?」
 はじめて話しかけられて、驚いてしまう。だがわりあい、おちついた声で答えることができた。
「そうです、フランス組曲」
 クラシックには明るくないが、答えることができたのは、あたしが自分の手でCDをセットしたからだ。あの人は満足そうに言った。
「やっぱり。好きなんですよ、この曲」
 あの人は声もやわらかかった。店が空いているのを機に、思いきって話しかける。
 クラシック、お好きなんですか?
 あの人は微笑んでほっそりした指先を組みあわせ、「好きですよ。とくにグールドのピアノはいい。あなたはクラシック、お好きですか?」
 あまり詳しくなくて。でも、好きです。ときどき眠くなってしまうけれど。
 あの人は小さな声を立てて笑う。あたしの指先やつま先が、まるで電気が流れたように痺れる。ずっとそこに残ってやわらかくふるえているような、そんな痺れだ。

 あの人はあたしの目を見て、注文を追加してもかまわないかな、と言う。
「ラムレーズンのアイスクリームを」
 珍しい、と言うほどあの人のことを知っているわけではないが、コーヒー以外のものを注文するなんてはじめてのことだ。
「男がアイスクリームを頼むなんて、おかしいかな」
 あたしはあわてて首をふる。
「うちのラムレーズンは、男性のお客様にもよく注文していただいています」
 あたしもこの店のラムレーズンが好きだ。生クリームをたっぷり使ったアイスクリームに、少しきつめのラム酒に漬けこんだ自家製レーズンが、よく合っている。
「では、それを」
 そう言ったあの人は、また夢見るような目をしていた。あたしの胸元を見ていた。名札があればあるいはそうかもしれないと思うが、あたしはつけていない。注文を伝票に書きつけ、空になったコーヒーカップを下げると、あの人の視線がいっしょに動いた。
 この人はあたしの手を見ていたのだと、それでわかった。

 グールドのバッハは続き、あの人はていねいにアイスクリームを食べた。あたしはグラスを拭きながら、カウンターの向こうでその姿を眺める。きょうはなにか、いいことがあったのだろうか。どこか愉しそうな姿を見ていると、あたしも幸せな心地になる。
 あの人はいつもより三十分は長居して、熱心に本を読んでいた。帰るとき、あたしに伝票を手渡しながら、「おいしかったよ」と言う。
「いい店だ。また来ます」
 ありがとうございます、とあたしは言い、お釣りを返す。指先があの人の掌に触れ、喉に声がからまる。おおげさだが、少しだけ死んでもいいような気分になった。
 それからは客がたくさんやって来て(この店はなぜか夜になると混むのだ)、あの人のことはしばらく忘れた。

 仕事が終わると九時も半ばをまわっている。戸締まりを手伝ってから、あたしは店のみんなと別れて帰路についた。今夜は月が明るい。
 夜は冷える。さすがに秋なのだ。カーディガンのまえを合わせ、それでもまだ寒いと思いながら長く伸びた道を歩く。大通りから住宅街につながる小道へ入り、まっすぐに駅を目指す。
 この時間になるとバスも走っていないから不便だ。最寄りの駅まではまだ少しあった。ブーツの踵が硬い小石を踏む音がぼんやりとひびく。

 なんだか、だれかがついてきているような気がする。
 ふりむくが、だれもいない。もしかしたら電柱のうしろに隠れているのだろうか。しかし、ひき返して確かめる勇気はない。
 アスファルトを踏む足音が、もうひとつ余分に聞こえるような気がするのだ。
 だが、きっと気のせいだろう。疲れているからそんなふうに感じるのだ。小道を横に曲がる。大通りに出ようかと思うが、こちらの道のほうが駅に近い。街灯だってある。
 そう、きっと大丈夫だ。なにしろ今夜はこんなに月が明るいのだから。

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