好き、だからキスしたい


 喉の奥に違和感。体が重い。だるい。
 今朝から感じていた数々の症状。それは、昼休みを過ぎた辺りから次第にひどくなり、帰る頃には鼻水が止まらくなっていた。

 ――完璧に、風邪をひいた。

 自己管理がなってない。自省しつつ立ち上がる。一瞬視界がくらっと揺れた。

「――那津?」

 近くまで来ていた泰裕が、俺の肘の辺りを掴んで支えてくれる。お礼を言わなければ。重苦しい頭をゆっくり動かして泰裕の顔を見れば、泰裕はひどく心配そうな面持ちで俺を見ていた。

「那津、風邪ひいた?」
「………そうみたい。……あ、ごめん、ありがと」
「それはいいけど……大丈夫?」
「大丈夫」
「とてもそうは見えないよ」

 即答した俺に、泰裕は苦く笑うと、俺の背中に手を添えた。
 ……大丈夫かな。
 泰裕とこういう関係になってから、俺は、教室でのスキンシップにひどく敏感になっていた。
 どこまでが、友達の範囲内か。どこからが、友達の範囲外か。
 思わず、まだ生徒がたくさん残っている教室を目だけで見回す。泰裕はそんな俺の様子に再び苦笑して、机の上に置きっぱなしだった俺の鞄を手に取った。

「平気だよ、これくらい。――それより、本当に大丈夫? 顔、真っ赤だけど? 病院とか――」
「……大丈夫。風邪は気力で治すから」

 病院は嫌いだ。
 父さんも、じいちゃんもばあちゃんも、最後を迎えたのは病院の白いベッドの上。
 俺にとって病院は鬼門だ。あそこは、死の匂いがする。
 だから行きたくない。

 泰裕から視線を外して俯き、唇をきゅっと噛みしめる。
 俺の言葉をどうとったのか、泰裕は、三度目の苦笑を漏らすと、いつものように俺を誘った。

「それじゃ、俺んち、来る?」
「――え?」
「そんな状態の那津を、ひとりでなんて帰せないよ。だから、俺んち、おいで」
「でも――」

 迷惑になるんじゃないだろうか。
 心で思ったことが、モロに顔に出てしまったらしい。
 泰裕は、俺のと自分の鞄をひとまとめにして左手で持つと、右手で、俺の肩を抱くようにして出入り口の扉へと促した。

「それに、大切な那津をこんな状態で放って置いたなんて知れたら、俺が母さんに怒られるからね」
「泰裕――……」

 おばさんを引き合いに出して、俺が断れないように仕向けるなんて、ずるい。
 でも――。

「だから、おいで。――ね?」
「……………うん」

 その優しさが、本当はありがたかった。



* * *



 俺の様子を見るなりおばさんは、「まるで風邪ひきさんの見本ね」と笑いながらも、かいがいしく世話を焼いてくれた。
 薬を飲み、泰裕のパジャマを借りて着替え、俺のために用意された布団に横になる。
 頭の下には氷枕。ひんやりしていて、気持ちいい。そう感じるってことは、自分が思った以上に熱があるのかもしれない。

「……すいません、迷惑かけて」

 いよいよ掠れてきた声で謝れば、おばさんは、さっきの泰裕と同じように、目を細めて笑った。

「子供はそんなこと気にしないものよ」

 そこで、腋の下に挟んでいた体温計が小さな電子音を立てた。
 おばさんに渡す前に自分でデジタル表示を見る。示されていた「39.3」の数字に、3の倍数だけだなぁ、なんて、どうでもいいことを考えた。

「……少し眠りなさい。大丈夫、すぐによくなるわよ」

 掌が額に当てられる。細い指先。少し冷たい体温。前髪を払い、ゆっくりと頭を撫でる。
 ――母さんが生きていたら、こんな感じなんだろうか。
 優しい手に促されるように、俺はすぐに深い眠りの渦へと落ちていった。



* * *



 額に乗せられた掌。でも今度は大きく、あたたかな感触。
 ふっと目を開けると、泰裕が上から俺を覗き込んでいた。

「ヤ、ス……ヒロ……?」
「熱、少しは下がったみたいだね」
「ん………」

 確かに、この家に着いた頃に感じていたひどい寒気はなくなっていた。
 それでも、体のだるさや鼻や喉の症状がそう簡単に消えるはずもなく。

「喉、渇いたんじゃないかと思って。……どうぞ」

 コップを差し出され、泰裕に背中を支えられながら上半身を起こす。中身の液体に色がなかったから水かと思ったけど……違った。

「レモンとハチミツ。母さんがね」
「そっか……。ありがと……」
「それ、元気になったら母さんに直接言って。俺は運んできただけだから」
「うん……」

 甘くて、酸っぱくて、優しい味。心のこもった、優しい、味。
 時間を掛けながらも全部飲み干して、泰裕にコップを返す。受け取った泰裕は、なぜだか俺の傍らに座ったまま。

「泰裕……?」

 不思議に思って呼びかけると、伸びてきた手が頬を撫で、指先が唇を撫で、そして――。
 唇が触れ合う寸前で、かろうじて顔を逸らした。

「………だめ」
「どうして?」
「だって……」
「俺は那津が好き。だからキスしたい」

 気持ちが嬉しい。言葉が嬉しい。でも今は。

「……俺も泰裕が好き。だから、したくない」

 うつしたく、ないんだ。
 伝わるようにとまっすぐに見つめながらそう返せば、泰裕は真剣だった表情をふっと緩めた。

「……わかった。もう少し寝てていいよ。夕飯になったら起こすから」
「うん……」
「母さん、おかゆを作るもの上手いよ」
「うん………」
「早くよくなるといいね」
「うん…………」
「元気になったら、キス、したいな」
「うん―――……」

 優しく響く声。優しい言葉。
 泰裕がそばにいる。俺のそばに、泰裕が。俺は一人じゃない――。

 そうして俺は再び深い眠りに落ちていった。

END

2008/10/04


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