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おいしく食べました


壊れたはずの携帯電話が鳴っている。シューベルトの「魔王」。それも大音響で。
「その携帯、そろそろスマホに変えたらどうだい」
電話をとっていないのにメルの声がする。幻聴か?
呼び出し音が切れた。顔を上げると、路地の入口にタキシード姿の男が立っている。歓楽街の街灯を背負い、逆光になっているというのに、その表情がはっきりと見て取れる。日本人らしからぬ顔立ち。
メルカトル鮎がそこにいた。
「さて、身体で支払ってもらおうか」
私の意識はそこで途切れている。




季節は夏から秋、いや、夏から冬への過渡期だった。風は肌寒いが陽射しは照りつけるように熱い。薄着するにも厚着するにも難儀な天候だ。私はシャツの上に風除けのコートを羽織り、ビル風の吹き荒れる街中を歩いていた。傍目にもわかるほど浮かれた足取りだったかもしれない。なにせその日は、サラリーマンで言えば給料日――原稿料を受け取った帰りだったのだ。私も小説家の端くれだ。本業で金を貰う喜びは、アルバイトのそれとは比べ物にならない。今月は前月より本数が多かったので金額もそれに見合うものになっていることだし。せっかくだ、散々メルにいじめられた哀れなPCでも買い換えようか――。
暢気にそんなことを考えていた私は、前方から歩いてくる不審な中年男に気づかなかった。その男はまばらな群衆の中を、人にぶつからないスレスレを掠めながら歩いている。一見してただ酔っ払いのようだ。普段なら怪しんで近寄らないようにするだろうが、その時の私は十二分に浮かれていた。男からしてみれば恰好の餌食に見えたことだろう。
その男とすれ違いざま、尻に手の当たる感触があった。なんだ、新手の痴漢か?男女問わずとは――と呆れていたが、不意にズボンの尻ポケットに原稿料の入った封筒を入れていたことを思い出した。慌てて確かめてみる。もちろん、そこに封筒は影も形もなかった。しまった、あの男はスリか、と振り返るも、既に現場から十分は歩いている。走って戻っても男が見つかるかは怪しい。
警察に行って被害届を出すか?いや、警察が何の役に立つ?警察が男を捕まえたとして、私の金が戻ってくる保証はない。
メルに頼むしかない。
依頼料を要求されたら、適当に肉体労働で支払えばいいだろう。財布の中身を確認したが、小銭(それも一桁の額だ)が数枚しかない。もっともこれはスリにやられたわけではないが。それにメルへの依頼料は紙幣の数枚で足りる額ではなく、私が支払えるはずもない。
そう考え、メルの事務所に行った。幸い歩いて行ける範囲内だった。
メルは私の(事実を多少脚色した)話を聞いたあと、
「それで君は、私にそのスリから君のお金を取り返せと言うのかい?この銘探偵にそんなつまらない依頼をすると?言っておくが、友達割引なんて期待するだけ無駄だよ」
「依頼というわけじゃない。ただちょっと、手を貸してほしいと……」
「私はボランティアをしているんじゃないんだよ。ただ働きはしないし、依頼料の値引きもしない」
クソッ。私は心の中で悪態をついた。わかってはいたが、この男には人の心というものがない。
こうなったらヤケクソだ。
「わかったよ。手伝ってくれたら――僕のことを好きに使っていい」
今までメルにされてきた仕打ちを思い返しながら、意を決して言った。だというのに、メルの反応はといえば、こらえきれなかったように噴き出して、
「本気で言っているのかい?体で支払おうなんて大層な自惚れだね。君の奉仕なんて、一生分を使い果たしても一件の依頼料には遠く及ばないよ。第一、君のことは散々無償で助けてあげてるじゃないか。小説のネタを提供したりい、嫌疑を晴らしてあげたり。そのツケも、一生じゃ払いきれないね」
と笑いながら言った。
それを言うなら、メルに散々弄ばれ、ひどい目に遭わされている私の方こそ代金を要求したいくらいだが。
「しかし、私は友人思いの寛大な人間だからね。君のお願いを聞いてあげようじゃないか」
メルはそういうと、机の上に一枚の白封筒を投げ出した。くしゃくしゃによれているが、表には出版社名の印刷がある。
「君の探し物はそれだろ」
「なんで君が持ってるんだ?」
もしやあのスリはメルの差し金だったのか?
いやそれよりも、中身を確認しなくては。封筒に手を伸ばす。が、横からサッと奪われた。犯人はもちろんメルだ。
「依頼料はこれで手打ちにしてあげようじゃないか。これで美味い肉を食べに行こう。それなら君も文句はないだろ」
むしろ文句しかない。しかし、美味い肉は食いたい。自分の金で食べるとなると値段が気になって味は二の次になってしまうが、他人の金なら存分に楽しめる。美味いものは誰と食べても美味いし、それが他人の金(元は私の金なわけだが)で食べるものならなおさらだ。この機会を逃すのは惜しい。
「わかった。それでチャラなんだな?」
私は潔く、目先の肉をとった。




メルは信用ならない男だが、食の好みは信用してもいい。今日連れてこられた店も当たりだった。チェーン店ではない個人経営の店は当たり外れが激しいので避けがちだが、その点メルが選んだ店に外れはない。内装こそ小汚いが、私は衛生管理に拘泥するたちではないので、特に気にはしない。気になるのはそれよりもむしろ価格の方だ。値段が安くて美味いほど良い。
「値段の割に美味い。よくこんな店を見つけられるな」
友達がいないくせに。とは思ったが、さすがにストレートに口に出すほど私も愚かではない。私がカルビを育てていると、メルが箸を伸ばしてそれを攫っていった。脂の滴る肉をタレに漬けながらメルが言う。
「なんせ私は銘探偵だからね。愚凡な君とは情報網が違うのさ。それに君は私が誘ってやらなければ、外食する相手もいないほど人脈がないわけだから、君の知らない店ばかりなのも仕方がないことだね」
「君以外にも外食する相手くらいいるさ。こういう店に行かないだけだ」
「可哀想な君に教えてあげるが、編集者との打ち合わせを『友人との食事』とは言わないんだよ」
少し焦げたカルビを自分の取り皿に避難させ、私はトングで生肉を掴んで鉄網の上に並べていく。哀れむようなメルの声音が腹立たしい。それを言ったらメルこそ、知り合いこそ多いが友人と言えるのは私くらいなものじゃないのか?
「美袋くん、そこのハラミが重なってるじゃないか。気をつけてくれ」
言われるがまま重なった部分をちょいちょいと直す。それは別にいいが、なぜ私がメルに召使いのように使われなければいけないのだ。そもそも、ここの支払いも私の金だ。
「美袋くん、タンもよろしく」
「良いけど裏返すのは自分でやれよ」
塩タンは薄切りされているため、火の通りが早い。片面が焼けるのに五分とかからない。焼くというより炙るに近い早さだ。自分で食うもの以外の面倒など見ていられるか。私はハラミをうまく焼き上げるのに忙しいのだ。友人に焼肉奉行がいるが、其奴が言うには「焼きすぎるくらいなら生焼けの方が良い」のだそうだ。もっとも其奴は何ヶ月か前に食中毒で病院送りになったと聞く。メルが食中毒に苦しむのは構わない(むしろ大歓迎だ)が、自分がなるのは御免蒙る。
ただでさえ貧窮しているというのに、メルに大金を巻き上げられたのだ。このうえ入院だなんだと出費が嵩んではたいそう困る。
「それにしても、君のあのひどい小説でも原稿料を取れるのだから、君の仕事は詐欺のようなものだな。私をネタにしているくせにああもつまらないものを書かれると、肖像権使用料を請求するのも恥ずかしくなるね」
「その金でこうして肉が食えるんだから、詐欺でもなんでもいいだろ。それよりもメル、君の商売の方が詐欺じゃないか。今日のあのスリだって君の差し金なんだろう。自分で事件を起こして自分で解決なんてマッチポンプじゃないか」
「なんで私が君にスリなんか差し向けるんだい。私はそんなつまらない事件には興味がないよ。だいたい君に依頼料を払ってもらったためしがないのに、そんなことをしても働き損じゃないか」
確かにメルに利益がなく、そんなことをする理由はないと思えるが、メルは損得で動くのではない愉快犯だ。私の原稿をダメにしたり私を散々な目に遭わせるのは、最早趣味なのではとさえ私は思っている。
「美袋君、きびきび働かないと肉が焦げるよ。体で支払うんじゃなかったのかい」
「あれはチャラだって言ったじゃないか!」
私はトングを手に怒声をあげた。網の上で肉がじゅうじゅうと焼け、脂を滴らせている。
「今回の依頼料はチャラだ。でも今までの貸しはまだ残っているんだよ、美袋君。体で支払うのなら、相応に働いてもらわないとね」
ハメられた――。
私の周りにはこういった罠が幾重にも張り巡らされている。自棄を起こして馬鹿なことを口走ったら最後、蜘蛛の巣にかかった羽虫のように絡めとられてしまうのだ。




食事の後、メルと別れた私は、まっすぐ家には戻らず、少し散歩することにした。食いすぎた腹が重かったのだ。せっかくだからと食い意地を張って、焼肉屋のメニューをコンプリートする勢いで肉を食べた。最後に出てきたテールスープがとどめだったな。と思う。食べられるところなんてほとんどないだろうと舐めていたのだが、思いの外肉がついていた。あれがなければカルビをもう一皿くらいいけたはずだ。
重い腹を抱えて俯きがちに歩いていた私は、前からくるガラの悪い集団に気づかなかった。理由はどうあれよそ見していた私に非があるのは事実だが、少し肩がぶつかった程度で路地裏に連れ込みカツアゲ紛いの、というかモロにカツアゲをされるいわれはない。
五人ほどだろうか、チンピラらしいド派手な柄のシャツを着た男たちに囲まれ、私は精一杯虚勢を張って堂々として見せる。
「悪いが僕は見てのとおり貧乏なんだ。僕のような貧乏人じゃなく、もっと裕福そうな相手を狙ってくれないか」
そう言ってはみたが、素直に聞き入れてくれるような相手ではないのは承知のうえだ。案の定、連中は因縁をつけてきた。
「そんな高級ブランドの小奇麗なコートを着て、『わたし貧乏です』だって? おれたちを馬鹿にしてるのか?」
大柄なスキンヘッドの男が言う。見た目に反して意外と筋が通っている。このコートはメルの私服を無断で拝借したものなので、高級ブランドとは知らなかった。なんとなく値が張るのだろうな、と予想してはいたが、汚さなければ平気だろうと甘い考えで借りてきたことを後悔した。
「これは借り物で……」
「ごちゃごちゃうるせえよ!」
此方の言い分には聞く耳もたず、といった様子で、派手なカラーリングの髪の男が殴りかかってくる。メルにステッキでぶたれ慣れた私は反射的に腕を交差させて防いだ。我ながらナイスな動きだった。これはメルのおかげということになるのか? いや、そんなこと認めてたまるか。
「おとなしく殴られろよッオラッ!!!」
私は腕を構えて頭を守ろうとしたが、殴りかかってくる派手髪男の隣からまた別の男が蹴りを入れてきて、腹に直接衝撃を受けた私はその場に崩れ落ちて蹲った。私の周囲を取り囲んだ男たちが次々に私を蹴りつける。ぐっ、と私は呻き声をあげ無様に地面に這いつくばった。メルのコートが汚されていく。あとでどんな目に遭わされることか――いや、私は何も悪くない。当たり屋のように絡んできたチンピラが悪いのであり、引いては彼らの目につくような高級ブランドのコートを焼肉屋に着てくるメルが悪い。そんな自己擁護を脳内で並べ立てながら、私はおとなしく蹴られ放題になっていた。
そのとき、私の腰のあたりから、大音響が発された。シューベルトの「魔王」。私はもちろん、チンピラたちも戸惑ったように動きを止める。
メルからの電話だ。出るべきか、この隙をついて逃げるか……逃げ出すタイミングを計りながら、私はそっと尻ポケットの携帯電話に手を伸ばす。折り畳み式のそれを開いて通話ボタンを押した。
「おいメル、聞こえるか?」
『電話なんだから聞こえてるよ。当たり前のことをいちいち聞くなよ。だいたい君、私のコートをどこにやったんだい?まさか勝手に売り払ってなんかいないだろうね。君ならやりかねない』
「うるさいな。今はそれどころじゃないんだ。助けてくれ、今囲まれて……」
「誰と話してんだよオイ!」
背後からチンピラに蹴られ、思わず携帯を取り落とす。小さな機体は地面にガタンと強く打ち付けられ、嫌な音をたてて壊れた。追い打ちをかけるように誰かの足が容赦なく踏みつぶした。二つ折りの携帯は完全に逆パカ状態で、ひび割れた液晶画面とボタン部分は、むき出しになったケーブル類でかろうじて繋がっている有様だ。あああ、と私の口から情けない声が漏れた。連絡手段を断たれてしまっては、助けが来ることも期待できず、警察を呼ぶこともできない。何より、携帯電話の破損はとんでもない痛手だ。財布への大打撃……
電話に出たのは迂闊だった。メルからの電話なんて無視すればよかった。悔やんでももう遅い。
チンピラの蹴りが脇腹に入る。私はそのまま横向きに吹き飛ばされ、狭い路地を作り出している建物の外壁に背中から激突した。息が詰まる。漫画みたいに宙を飛ぶことができるんだなあ、という変な感慨がある。夢も希望もないが。
口の中を切ったようで、鉄臭い血の味が口腔から鼻にかけて充満していた。それを吐き出す。体勢を整える間もなく、暴力が雨のように降り注いできた。頭はかろうじて守っているが、腹部に向けての集中攻撃がひどい。
ただでさえ吐き気がするほど食べたのだ。そこに衝撃を加えたらどうなるか、考えるまでもない。私はこみあげてくるものをそのまま地面にぶちまけた。
まだ若干形を保っている肉が散乱する。今日はとにかく肉ばかり食っていたので、ほとんどそればかりだ。吐き出したものを見つめ、思わず単価を計算する。カルビ一皿六百円、塩タン一皿四百円、特上ロース千五百円……
牛は飲み込んだものをもどし、また咀嚼するという。私のこれも、まだ消化しきっていないのだから、『反芻』できないものだろうか――いや、さすがにそれは人間としてマズイ気がする。
嘔吐物を見てうちひしがれる私を哀れむ気持ちはないのか、チンピラたちは私をどかどかと蹴り続けている。私はこれ以上食べたものを吐き出すまいと必死にこらえる。ここですべて吐き出せば食い損、盗られ損、メルを頼り損、マイナスが嵩む一方だ。
「クソッ……いい加減観念しろよな、オッサン!」
「お、おっさん……」
そう言う彼らも私とさほど年が変わらないように見えるが、もしやまだ大学生や高校生なのだろうか。学生なら学生らしく学業に専念していてほしいものだ。不良になると老けて見えるのかもしれない。
チンピラは動けなくなった私の体を探り、財布を見つけ出すと中を物色し始める。紙幣入れの部分を開き、納得いかない様子で隠し場所でもないかとあちこち開こうとするが、あいにくそんなものはない。財布の中身は初めから空なのだ。サラリーマンは年齢×千円を常に財布に入れているそうだが、私は不定給の小説家である。財布に紙幣が入っているときの方が少ない。
「……チッ。しけてやがる」
チンピラは舌打ちして、財布を私めがけて投げ捨てる。そしてリーダーなのだろう派手髪の男の合図で彼らは引き上げていった。
私は大きく息を吐く。靴に隠していた虎の子は見つからなかったようだ。何もとられなかったのはよかったものの、携帯電話の破損は痛い。
今日はまったく厄日だ。
それもこれもメルのせいだ、と悪態をつく私の耳に、音楽が聞こえてきた。


奇想館第四篇のぺらい新刊だったものです。


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