直轄区は全て壊した。…いや、壊れた。壊された。クラウドの甥の手によって。
甥。妹と許嫁であった幼馴染の多分、息子。
どう造られたのかはわからない。けれど、クラウドは確かに二人の形見と二人の面影を見た。だから、彼はクラウドの甥であった。
彼に寄り添う竜がクラウドは気に食わなかった。アレはだめだ。何かを腹の底に溜め込んでいる。それが何かはわからないが、あまりいいものではないだろう。
けれど、今はアレらに頼らなくては。空を飛ぶ術をクラウドは持っていなかった。
あの神官長の裏切りで五感を奪われ、暗い寂しい所で苦痛にまみれ、彼の黒き竜は狂った。狂ってしまった。
クラウドの声も聞こえないほどに、怒り、憎悪に心を縛られた竜はクラウドの甥に悪魔と称された。それでも、クラウドは彼の竜が美しいと思っていた。もう十数年その姿を見ていなかったとしても。
黒い美しい鱗は何ものにも染まらず漆黒に煌き、吐く炎はどんな高温の炎よりも鮮やかに色付いていた。きらきらと艶めく金の角は王冠のように精緻に彼の竜の頭に鎮座していて、黒く羽ばたく翼はどんな風でも柔らかく孕み、何千里でも一日で飛ぶ強靭さを持っていた。
クラウドが恋をした彼の竜はクラウドの知る何よりも美しい碧い空の深いところの瞳を持ち、初めて出会った時から何も変わらず、美しく気高く、正しく孤高であった。

(俺の、俺だけの竜。俺だけの、美しい黒き竜。なぁ、スコール。スコール、もう苦しくないだろう。帰ってこい、俺の元へ)

愛おしく呼んだ。狂おしく呼んだ。何度も、何度も呼んだ。甘く、甘く、恋焦がれるように。
何もかもを失って、彼の黒き竜すら失って、それでも世界を愛そうと思ったのはスコールが、黒き竜が世界を支えていたからだ。
黒き竜がクラウドのいる世界を支える楔に、贄になったから。
だから、クラウドはスコールが支える世界を、スコールの残滓を感じ取って、幸せに生きようとしたのだ。
竜が守った、赤く濁った狂った空でなく青い澄んだ「いつも」の空が、世界の果てまでも続くのを見届けるのが彼の竜の望みだと思ったから。
常に身体に感じる封印の鈍い痛み。黒き竜が抱えている痛みには程遠いが、同じものを共有している安堵。
胸の中の心の臓は変わらず彼の竜のもの。心に響くのは彼の竜との僅かな語らい。クラウドはそれがあれば幸せであったのだ。
けれど、神官長はそれを裏切った。黒き竜の憐れみを、裏切った。
確かに黒き竜の献身はクラウドにだけ向いていた。クラウドのためだけに封印に身をやつした。しかし、だからこそ黒き竜はクラウドが生きている限り、封印に耐え抜いたであろうし、人を欺くなど意識の外だっただろう。
しかし、神官長は悲しいまでに愚かで、賢しく、どこまでも人間だった。
ドラゴンの真意がわからず、その意思を疑った。その疑いから封印の苦痛を和らげる神殿は作らず、竜の強く強い力を封ずる直轄区を作った。竜の五感を封じる、強い強い五つの封印。
そのとき、クラウドは神の容れ物たる少年を連れて世界を旅していた。少年に真実を、少年自身の罪を見つめさせるために。

「こんなことするなら殺せ!殺せよ!なんでこんな、俺はあの人の言う通りやっただけなのに!あの人が愛してくれると言ったから!!お前みたいな****なんて死ねよ!!死んじまえ!!」

最初のころ、少年は暴れ、罵り、何度も何度でもクラウドの元から逃げようとした。クラウドはそのたびに少年を殴り、折檻し、罰した。少年の手首には逃げようとしたたびにクラウドに力一杯掴まれ、痣になった跡が消えずについていた。
当時、少年は自分の犯した罪の重さを理解するにはまだまだ幼かった。しかし、クラウドは容赦するつもりはなかった。
クラウドが少年に奪われたものは、何よりも重かったからだ。
己の罪から逃げることは決して許さない、とその物言えぬ口で何度でも糾弾した。
そのため、クラウド自身は怯えられていたが、世界の有様を見て、少年は懺悔をするようになった。焼け崩れ落ちた家を見て祈るようになったし、墓場では一人一人の墓の前で跪き、放って置けばいつまでも祈っている。

旅の始めは何度も少年を殺そうと思った。
妹を殺し、幼馴染を洗脳し、神の意向に沿って世界を壊そうとした元凶。
クラウドの数少ない大切な物を根こそぎ奪っていったのは少年だった。
それでも殺したいと望むほどの憎しみを押さえ込んだのは少年に向け叩きつけた、世界中の憎悪を、悲哀を背に受け、贖罪の一生を生きるべきだ、と言う黒き竜の断罪があったからだ。
だから安易で楽な死に逃げる選択肢を選ばせるつもりはなかった。
最後に残った黒き竜すら封印として奪われた憎しみは、少年と共に世界を旅して回り情が湧いていくうちに、少年の贖いと苦しみを見て行くうちに、少しずつ、少しずつ色と熱さを失っていった。
同時に手首の消えなかった痣が薄くなり、少年の手首にはそれを隠すようにクラウドの手首についていた、まだ幼子には大きい手首飾りが揺れる。
クラウドはそろそろこの旅も潮時だと思っていた。
そうしていた山越えの野宿のある夜。絶望的に強い苦しい痛みがクラウドを襲った。痛みに慣れ、生半な痛みでは眉ひとつ動かさず対処するクラウドが痛みに悶え苦しみ、土を引っかき、暴れる。爪は込められた力の強さに砕け、地は叩きつけられる苦しさに割れた。
そんなクラウドに少年が怯えることは摂理であっただろう。
少年はきっとクラウドに殺されると思ったかもしれない。護身用に与えた小刀を構えた少年に、我を失ったクラウドが襲い掛かった。
恐慌に陥った少年は必死の思いでクラウドの左目に小刀を突き刺し、抉る。潰れ抉られた瞳のその痛みにクラウドは咄嗟に少年を振り払う。
契約者で人知を超えた力を持つクラウドの腕力で少年は吹っ飛ぶ。少年が落ちた先は崖だった。クラウドは僅かに残った理性で死に物狂いに少年に手を伸ばす。
助けようとしたのか、狂気に任せ、殺そうとしたのかは今でもわからない。
ただ、言える事はクラウドの手は少年に届かず、絶望した表情の少年が谷底に落ちていったと言う事実。
そして、失血と苦痛で気を失った自分が再び目を覚まし、谷底を探しても少年の姿は見つからなかったと言う事実。
それに加えて、クラウドは左の視界を失ったという事実。
しかし、そんなことはどれも今のクラウドには些細なことだった。
神官長が自分とドラゴンを裏切り、封印を強化している。何ものにも変え難き、分かち難い半身を引き裂こうとしている。
ならば、クラウドがやるべきことはひとつだった。
胸のうちにまだ途切れ途切れに聴こえる声はひたすらクラウドを呼んでいた。直向きに呼んでいた。
痛みを取り除いてくれと望む声ではなかった。己の解放を願う声でもなかった。
ただ、ただひたすら、クラウドを請う声だった。呼ぶ声だった。
返す声は届かない。歯痒かった。

その衝撃と激情を抑えないまま、封印の儀に滑り込みで間に合う。違う、間に合わせた。
ろくに食事も休息も取らず、昼夜も気にせず駆け続けたのだ。
そして大神殿を、封印の儀の最後を今まさに執り行おうとしていた神官長を襲撃する。
神官長はなぜだとかどうして英雄のあなたが、などと言っていたが答えは返さなかった。返すのも億劫だった。
裏切ったお前が言うのか、と呆れたところもある。
封印の儀の間であったので無用だと思われていたのか、武器をあまり持っていなかった奴らを嬲り殺しにする。
神官長は特に念入りに、人の形もわからなくなるほどに壊した。神官長の周りにいた騎士団と名をつけられた私兵の全ても殺し尽くして、これで良いと思った。
周りに散らばるのは人の形だったとも思えぬ肉片。
臓物が引きずり出されたもの。
狂気的なまでに幾度も剣を突き刺した肉塊。
苦痛の表情を引きずり出したく執拗に腕や足を切りつけられ、生きたまま皮膚を、筋肉を剥がしたもの。
地獄と見紛う有様の中、そこだけは形を残した神官長の首を捧げ持ち、返り血に頭からびっしょりと濡れ、クラウドは立ち尽くす。数に任せて取り囲まれつけられた、熱を持つ軽い傷口が煩わしい。
しかし傷を呆れつつも舐めてくれた竜は傍にいない。
クラウドに怯えていたくせにクラウドが傷を作ると泣きそうな顔をして手当をしてくれた少年もまた、いない。
クラウドの傍にはまた、誰もいなくなっていた。
その事実に気がついているのかいないのか、逸る感情が復讐へとクラウドを駆り立てる。足元の人の形を留めない元は人間であったそれへと執拗に剣を突き刺す。
殺戮に酔っていた時、必ず聴こえていた嗜める竜の声は聞こえず、更にクラウドを苛立たせた。
苛立ちに任せて、左手に下げていた神官長の首を蹴り飛ばす。ぐちゃ、と嫌な音を立てて壁に当たったそれは半ばまで潰れた。
でろりとはみ出した頭の中身は酷く醜悪で、しかしクラウドのささくれた心を少しだけ慰めた。

幸いなことになされた封印は不完全な四つ。
後は焦らず、一つずつ確実に直轄区と呼ばれる封印を解いていけばいい。
そう思ったのに、胸のうちに響く声は完全に途切れた。
なぜだ、なぜだ。クラウドは少し考えて無様に逃げた男がいるのを思い出した。封印を身に負おうとしていた男に庇われ死に損なった男。
きっとそいつが封印のため、……いや、生き延びるため契約をしたのだろう。それが業苦の道になるとも知らずに。
契約した人間たちの最期は惨々たるものだろう。クラウドはそう、悟っていた。己の生存本能と一番強い欲求が強化され、肥大し、最後は狂う。
もともとクラウドは殺戮に狂っていたが、それを更に狂わせたのは心を占めるあの黒き竜だとわかっていた。クラウドが心を砕くのはもう彼の竜だけだったのだから。

(俺の、俺だけの美しい黒き竜。俺のスコール。俺だけのスコール。きっと、きっとお前を助け出すから)

愛おしく呼んだ。狂おしく呼んだ。何度も、何度も呼んだ。甘く、甘く、恋焦がれるように。
こちらの声は届かなくても、彼の竜の苦しむ声は聴こえた。だから、何度でも封印を壊しに襲いにいった。
憎悪に滾る腕は軽かった。人殺しを楽しむ呪われた性。けれど、紛うことなくそれはクラウドの本質であった。
黒き竜が恋をした、黒い黒い憎悪に塗れた生存本能と底の見えぬ復讐心。それがクラウドの本質の全てだった。
直轄区を襲うために村へと潜み、準備をしている中、村人の噂話で希望と祭り上げられている青年がいることを知った。その青年が封印を壊して回っていることも。
あまり間をおかず、救世主と呼ばれる青年もまた仲間になったと。
希望と祭り上げられた青年は、噂話をしている村人に良く良く話を聴くと、谷底に落ちたあの少年だった。

迎えにいかなければ。それだけを胸に彼らの足取りを追った。
そして追った彼らと出会えた錆の村。
彼らを囲んで追い詰めていた彼らの追っ手を、憎き神官長の私兵だった騎士団を、手にした剣の一振りで切り伏せた。血液が雨のように飛ぶその中で少年と再会の喜びと、殺戮の美酒に悪鬼のように醜悪に顔が歪む。
普通の笑みとはかけ離れた、歪んだ笑みに少年は怯え、息を呑んだ。
少年はクラウドの事を覚えていないようだった。様子がおかしくなった少年を抱えて、救世主と呼ばれる青年は少年とあのいつか無様に逃げ出した男と共に銀のドラゴンに乗って逃げていった。
壊された直轄区は二つ。残りは三つ。そして、彼らの仲間にあの無様に逃げた男が入り、仇討ちのためクラウドを追っているという。
男を殺せば直轄区は壊れる。救世主の知り合いとも見えた男を殺すため、クラウドは四つ目の直轄区へと向かった。
そして、彼らの働きで光城郭と騎士団が呼ぶ、三つ目の封印である宝光の直轄区が落ち、彼の竜の感覚がまた一つ解放される。

「光……? ク……ラ、ウ……ド。俺……ガ、……見エル……カ?」

その時、久方ぶりに彼の竜のか細く弱い声がそれでもはっきりと聴こえた。
クラウドは歓喜した。声は未だ届かないままであるが、あと少し、もう少しと聴こえる声に促され、向かった四つ目の明命の直轄区。
そこには命を吸い、赤く赤く血のように禍々しくも美しく咲き誇る命の花が青々と繁っていた。
人の命を吸い竜を縛り付ける花を踏みにじり、立った封印の上で憎悪を瞳に映した青年に目が留まる。封印を負おうとした男が父代わりだったらしい。そう、漏れ聞こえてくる会話で推測する。
憎悪に濡れた瞳はクラウドのものとよく似ていた。
そして彼の手首のブレスレットがよく見知った形のものだった。あれは亡国の王族の証だ。この世に残存していたのは妹と己が持っていたもののみ。己の飾りは旅の最中、少年に託した。返してもらう前に目の前からいなくなってしまった。
ならば、あの飾りは妹のものなのだろう。耳のピアスは幼馴染のものによく似ていた。
そこで腑に落ちた。
そうだ、あれはどう造られたのかわからないが、自分の最後の血縁だ。彼の竜が断頭台と呼んだ、奇跡の体現でも使ったのだろうか。
そんなことはどうでもいい。
思考を振り切るように地を蹴った足は、男を狙った剣は青年に邪魔をされ、体力を無駄に使ったが、打ち合いのあとクラウド以上に消耗し動けぬ青年に向けて、剣を振り上げる。狙い通り青年を庇った、死神と契約し死神が憑いて死を失った男を切り捨てる。そして死神が無理矢理蘇らせた男を何度も死神ごと切った。

男は死なない。
ならば死ぬまで何度でも殺すだけだ。あの大戦では死んだ敵兵すら、もう一度殺したのだ。今更なんの躊躇いがある。
けれど、その死なない男にクラウドはじりじりと聖花の生える足場の端に追い詰められる。焦れたようにクラウドが剣を突き出す。
男の腹を抉ったそれでやっと絶叫をあげて死神が剥がれ落ち、消える。死神が男に死を返したその瞬間、致命傷を幾つも負った男が最期の力を振り絞り、クラウドを突き落とす。
底の見えない落差。
だがクラウドは契約者だ。こんなもので死にはしない。落ちた先には水も通っていたのだから。水音が立つ。水に身体を打ち付け脳が揺れた衝撃で薄れ行く意識の中、それでもクラウドは彼の竜を呼んだ。

(俺の、俺だけのスコール。美しき俺のドラゴン。待っていろ。もう少し……残るは一つだ、スコール)

愛おしく呼んだ。狂おしく呼んだ。何度も、何度も呼んだ。甘く、甘く、恋焦がれるように。
直轄区で負った傷を癒すため、そして彼の竜といち早く会えるよう、聖地と呼ばれるようになった地へと向かった。人の足では移動は哀しい程に遅いから。
聖地に向かう傍、噂話で救世主たちのおかげで最後の戒めが外された、と聞く。これで民草は虐げられることはなくなったと喜ぶ声と共に。

ああ。
ああ、ようやっと彼の美しき竜が開放される。やっと会える。
浮つく声で彼の竜に呼びかける。彼の竜が封印の女神となった十八年前の別れのとき、捧げられた美しい名前を噛み締めるように呼ぶ。

(俺のスコール。スコール、もう苦しくないだろう。聴こえるか、俺の声が。聴こえていたら応えてくれ)

彼の竜の応えは聴こえない。
戒めを外された竜は今までの苦痛で我を失い、人間への憎悪に、人間の裏切りに、狂った怨嗟の呻きが聴こえるだけ。
赦さない、と。俺を裏切ったのか、と。五感を失ってなお、ひたすら求めた相手がいたことも忘れ。
彼の竜が開放されたが、憎悪に狂った竜は村を焼き払い、人を殺していった。全て焼き尽くす鮮やかな炎の中、赤く照らされなお黒い彼の竜は凄絶に美しかった。何ものにも染まらぬそれは、真に黒く美しい。
けれど人々には女神ではなく、悪魔と呼ばれるのを何度も聞いた。当然だ、人を殺し、村を焼き払っているのだから。
どうにか彼の竜を取り戻したいと、愛おしく呼んだ。狂おしく呼んだ。何度も、何度も呼んだ。甘く、甘く、恋焦がれるように。それでもかの竜はとまらなかった。

彼の竜と出会い契約を交わした、始まりの地。
悲哀と憎悪に埋れた女神の城。竜の移動先を予測し、追いかけて、やっとの思いでそこに辿り着き、人を殺すために飛び回り、強靭な翼をもつ彼の竜も流石に疲れたのか、ほぼ同時にこの地に降り立つ。
そばでもう一度彼の竜に呼びかけたら正気を取り戻すのではないか。
その僅かな希望は黒き竜を追ってここまできた救世主によって潰された。クラウドを認識せず、人間全てを憎悪する竜。
それに酷く衝撃を受けた。一瞬、全てを忘れて立ち尽くしたくらいには。
けれど、それでも救世主は最後の血縁。狂った竜の顎から守っていた。困惑で縋るように見つめてくる瞳。
すとんと胸に落ち着く納得。これは妹だ。よく、こんな瞳をして縋ってきていた。
こちらの声が聞こえるのはあちらの竜だけであり、そしてあちらの竜は話す意思すらない。だから会話も交わせず、彼の竜を追っていった彼らを見送る。
いや、視線は彼の竜だ。人は空を飛べない。彼らにかの竜のことは任せるしかなかった。
それでも、彼の竜が正気に戻れるよう何度も何度も呼んだ。
愛おしく呼んだ。狂おしく呼んだ。何度も、何度も呼んだ。甘く、甘く、恋焦がれるように。

「全テノ人間ニ滅ビノ業火ヲ!」

狂気に染まった怨嗟を紡ぐ声。そんな声を聞きたくなかった。
クラウドに向けられた声は、いつでも呆れたように、それでも慈しんでくれる声だった。十八年前、短くも濃い戦争の中聞いていた、腹の底に響くそれは皮肉気で、けれどひどく優しい。

(俺の、俺だけのスコール。スコール、なぁ、答えてくれ)
「俺ハ……ドコニイタ?暗闇ノ中デ捜シ求メタモノハ……誰ダ?」
(ここだ、俺はここだ。なぁ、スコール、俺はここにいる。ここにいるんだ)

契約により、炎で焼かれる痛みは共有している。そして、傷すらも。
銀の竜の炎を受け、爛れ、焦げる身体を放って呼びかけ続ける。けれど、竜は正気に戻らない。耳をかさない。
人間であるクラウドには想像もできないほど長く生きた竜にとっては瞬きのような十八年間。しかし五感を奪われ、苦痛だけが身を蝕んだ十八年間、縋る相手に呼びかけても声は返って来ない。
そんな絶対的な孤独に耐えきれず、狂気は彼の竜を蝕みきっていた。
それならば、共に。世界よりもクラウドは彼の竜を選んだ。
十八年前に既に、穏やかで幸せだった頃の象徴の全てを失って、彼の竜がクラウドの全てになっていたから。
彼らの竜に声を送る。スコールを倒せ、と。
それでよかった。いや、それがよかった。空でどんな会話が交わされたのか、聞くつもりはなかった。聞きたくもなかった。
頭の中を占めるのは彼の竜だけでありたかった。最期だけでも共に生を終えるなら、それで良かったのだ。
引き離された半身を取り戻せるなら、どんな形でも良かった。

(俺の、俺だけのスコール。なぁ、俺がわかるか?わからなくてもいい。共に逝こう、どこまでも)

愛おしく呼んだ。狂おしく呼んだ。何度も、何度も呼んだ。甘く、甘く、恋焦がれるように。
捧ぐように、誓うように何度も、恋人に愛を囁くように甘く甘く彼の竜を呼んだ。

「俺ヲ呼ブ者……クラウド?
……クラウド!
……見エナイ……ドコニイル……?」

甘えるような、泣きそうな喉から絞り出した声で竜がクラウドの名を呼ぶ。
見えないと哭く。狂った竜が求めたのはそれでも竜が全てを捧げた男だった。
求めるものが見つからず、絶望に咆哮する竜の猛攻。
けれど四つある目は、深化した銀の竜は、封印で痛めつけられ、負荷がかかった二つの目しか持たないかの竜を追い詰めていった。
左翼にまともに炎が着弾。クラウドもまた、どこかが千切れた音がして、左腕が激痛を訴える。弾けた肉からばたばたと血が滴る。

「……ク、……ク……、ク……」

もう、うまく舌も回らないのか呼ぼうとしても形にならない声。
それでもりぃんりぃんと声は胸に響く。竜の鼓動を感じる。
声はひたすら呼んでいた。直向きに呼んでいた。
痛みを取り除いてくれと望む声ではなかった。憎悪を晴らせと願う声でもなかった。
ただ、ただひたすら、愛しい男を請う声だった。

(ここだ、ここにいる。俺はここだ、スコール。スコール、俺の竜。俺だけの竜。俺は、俺の心の臓はいつでもお前の傍に)

呼ぶ声は狂った竜に届かない。
それでも呼んだ。何度も呼んだ。愛おしく呼んだ。狂おしく呼んだ。何度も、何度も呼んだ。甘く、甘く、恋焦がれるように。

胸に激痛。
同時に断末魔が響き、大きいものが空を切って落ちてくる。
ああ、彼の竜だ。
空を見上げたまま、彼の竜を見つめたまま、声を出せない口を噛み締めて、心臓を抉るように胸を掴む。封印されてもなお、規則正しく生を刻んでいた心の臓は弱々しく、けれどまだ脈打っていた。天より堕ちた、クラウドへの恋で天に弓引いた、矮小で愚かなクラウドの、竜の鼓動はまだ。

(スコール、)

身体を蝕む苦痛など意識の外側に、彼の竜を迎えるように大きく腕を広げた。
女神の城の中庭、始まりの地。全てが始まった、運命の地。
始まりに堕ちた竜はただ地に伏せ、愛しい男を見つめた。あの時のように、無様に地を這いずって。
一つ二つ違うことは、死はもう避けられぬ結末であること。そして、絆が分かち難くむすばれていること。
クラウドの手から、前の大戦の時、意識を失っても一度も手放さなかった剣が落ち、甲高い金属音がした。

「クラウド!お前……封印となった俺を救うために何度も助けに来てくれたんだろう?……一体どれほどの人間を敵に、回したか……俺は……気付くことが出来なかった……」

痛みに僅か正気に戻った竜がクラウドに悔いた声で囁く。
気付かなくて良かった。クラウド自身のどうしようもないエゴだったから。
彼の竜さえいれば、クラウドは他の人間などどうでも良かったのだ。優先順位は妹が、友がいなくなってから人間より自分の契約相手である黒き竜に傾いた。
クラウドは一度頭を振ると、ただ無言で黒き竜に手を伸ばした。
封印にかの竜がなったいつかのように、鼻先を手のひらで暖めてやる。思うまでもなく、久方ぶりの互いの温もり。十八年前の戦争の最後には、いなくなることすら考えつかなかった己の半身。
暖かい。温かい。
直向きに求めた存在が目の前に在る事に、心のうちに抱えた憎悪が解けて行く。けれど、これが最期の触れ合いだとわかっていた。
重い身体はもう、あまり言うことを聞かない。それでも、凪いだ心の海は不思議な充足感を感じていた。

(やっと、やっと会えた。俺の、俺だけの竜。俺のスコール。俺の、俺だけの美しい黒き竜。スコール、)

愛おしく呼んだ。甘く、甘く、恋焦がれるように。
何度も、何度でも飽きずに呼べる。彼の竜の名を知らずに、それでも恋をした。そして、同じ情動を返してくれた竜の名前は何ものにも変え難い宝であった。
形の残らぬ、至宝。それが、彼の竜も同じであったのなら、それ以上に望むことなどなかった。

(……クラウド、)

甘く濡れた声で、焦がれたと一目でわかる声で、音を並べて愛でるように彼の竜も声で一度だけ、クラウドの名を呼んだ。一度、閉じた瞼から涙が一筋、落ちる。
その声の響きだけで今までの辛苦の全てが許せる気が、した。
腕を上げていることも辛くなり、腕を下ろす。
じっと見つめ合うわずかな時間。ゆっくりと最後の瞬きをした彼の竜の瞳が、空がまるで雲に覆われるようにとろりと白く濁っていく。胸の中で途切れがちだった心の臓の鼓動が完全に止まる。
竜の体を支えていた力が抜け、ゆっくりと地に崩れ落ちた。一瞬のち、竜の身体が発火する。
黒い美しい鱗が僅かづつ灰に消えて行く。間をおかず、クラウドの身体も燃え上がった。
後ろで絶句している肉親を見やる。
懐かしい家族と友の残り香。大切であった、生まれた時より狂っていた自分でも守ろうと思った柔らかい世界。口元が笑んだのがわかった。
今まで、彼の竜と歩んできた記憶が走馬灯のように過ぎる。憎悪と、殺戮と、哀しみ。瞬きのようにごくごくわずかの優しい記憶。
魔竜の炎で傷付いた竜を気遣い、冷たく清浄な泉で傷を癒した僅かな期間。クラウドの恋の始まりはきっとそこであったのだろう。



「もう、……いいのか、クラウド……」
(ああ、逝こう。共に……)

遠く消える意識の中、許しを請うように柔らかく愛しく名を囁く声に頷いた。捧ぐように誓った。
好いた女と共に逝かずして何が残ろう。彼の竜がいびつに歪んだ病んだ心の全てを攫っていったというのに。
クラウドは満足だった。満足していた。自分の生に。
辛く呪われた生であったが、しかし最期は最後に残った幸福と共に逝けるのだから。そばにいられるのなら、どんな形でもよかったのだ。
灰となれば、種も何もかもを超えて一つになれる。身体がさらさらと崩れ落ちる痛みすら愛おしかった。
いつか、戦の終わった宵闇の空を共に駆けよう。交した約束は果たされることはなかったけれど、それでも最期、二人は確かに満たされていた。
燃え尽き、人と竜が混ざり合った灰が風に浚われていく。二人分の灰をとかし、浚っていった空は、黒き竜の瞳のように深く深い美しい碧色をしていた。


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