サヨナラのできるこども | ナノ



 何年ものちに私が彼らの愛した街を去るとき、私はあの少し、なまぬるかった夏を思い出す。あの街では幾度もうだるような夏が巡ってきて、その他にもそこかしこの場所と季節に記憶は染みついていたけれど、定春をチェックイン前に大きな旅行鞄一つと一緒に預けて、身軽なままぼうと窓ガラスに額を押し付けて搭乗を待っていたときに思い浮かんだのはあの夏のことだった。多くを思った時期だったからかもしれない。ゆえに、多くを包含していたのだろう。

 あの少しなま温かった夏、銀ちゃんは髪が普段より爆発していることにぶつくさ文句を垂れ、
「いつもと変わらない天パ加減ヨ、ぶっちゃけいつもくるくるで見分けが付かないアル」
 私の宥め言葉に彼は更に機嫌を悪くさせてどこぞのスタイリストが提唱する(洗っただけでサラサラストレート、が確か謳い文句だった)胡散臭いシャンプーに手を出した。
 万事屋の財布を握る新八は中々値の張ったその買い物に激昂しそれから一週間ばかりは豆パンと卵豆腐の生活だったが銀ちゃんはどこ吹く風でシャンプーの効果に夢想を抱きながらジャンプをめくっている。いつまでも雨がしとしとと降り続いて、蝉も入道雲も湧かないのは新八に春が来ないまま専業主婦ばりの存在になったからだろうか。私はそんな詮もないことを考え、それからすぐに新八には春など来たことがないけれど夏はこれまでも来ているからそれはないとゆるりと打ち消して、そうやって風に浚われるように流れる雲の縁が鈍色に光を放つのを眺めていた。
 日頃の騒がしさも賑やかさも重苦しい雲に影を潜めてしまったかのような夏の始まり方だった。もちろんその間も銀ちゃんは生きる糧だと言ってパフェを摂取してパチンコに通い、ついでにマダオを更なる借金地獄に意図せず叩き落したし、新八だって戦場(と書いてお通ちゃんのライブと読む)へ赴いたり、我が家のオカンを買って出たり姉御の延ばしたゴリラの処理係をしていた。そういえばそれで何度か銀ちゃんと土方が顔を突き合わせて喧嘩をしていたっけ。まあ、そんなのはいつものことだ。けれどそれらは手から溢れては落ちて行く零細な星屑みたいに、私の中ではおぼろげになってしまっている。天気のせいだった、たぶん。いや、きっと。きっと連日続くおどろおどろしい天気のせいで、私は感傷的になっていたのだ。
「銀ちゃん、リゾート行きたい」
 長椅子に手足を投げ出しながら私はそう言った。社長椅子で半ば溶けていた銀ちゃんは怪訝そうに視線を上げこちらを一瞥して、それからわざとらしく家電量販店で配られた団扇を煽いだ。
「バカヤロー、リゾートなんて行けたらこちとら何日も何日も朝昼晩白米と玉子一個の生活をしてねーんだよ」
 だいたいなぁ、お前、南国のビーチリゾートは胸も尻もあるけどスレンダーなお姉さんが肌を晒して汀で戯れる聖地なんですー。断崖絶壁な小娘なんてお呼びじゃねーよ。ほら、こういう。言葉をつらつらと続けながら彼はグラビア写真を指差して私に見せつけた。間違えてヤングジャンプを買ったらしい。
「うるせーヨ天パ糖尿野郎が。私は伸びしろだらけアル。むしろそれなら暑苦しい毛玉こそビーチにはお呼びじゃないネ」
「銀さんこれお洒落パーマだから。誤解されちゃあ困るから。それにお前海行ったってパラソルの下で寝そべってるだけだろ今と同じじゃねーか」
「それがだんご?だいご?ダイゴミだって知らんとは銀ちゃんもまだまだアルナー。っよっと」
 とりあえず買い間違えたら買い間違えたでパラパラと目を通しているその雑誌を窓の外に向かって全力で投げた。
「醍醐味を一発で言えなかった奴に言われたくない」
 何してくれちゃってんの神楽ちゃん?!彼は慌てたそぶりをして見せたが、すぐにだらしなく机に頬を張り付ける。例のシャンプーの結果はあえて言及せずとも明らかで、その頭には相変わらず曲がった性根を体現しているかのような毛髪が乗っかっていた。わかったアル、と私は聞き分けよく長椅子で膝を抱え直した。
「じゃあエアコンが欲しい」
「下のババァの所にでも入り浸ってろ」

 それから二週間ばかりして、私の願望は叶うことになる。エアコンではない。リゾートの方だ。本当はエアコンの方がよかったけど、無料券を三枚、商店街の福引で新八が当ててきた。何かデジャヴとか言うな、だいたいそんなものだ。
 浮足立って私は水着も浮き輪もつばの広い麦わら帽子もサングラスも用意して当日に臨んだ。もっとも着いたところは町内の健康ランドだ。市民プールでもない。新八と銀ちゃんがターミナルともバス停とも駅とも違う方向へ、スクーターにも乗らずにふらりと歩き出したところでおおかた検討は付いていたけれど。
「夏に向けて新しく改装したみたいですよ。気分はリゾートだってね」
 新八が自動ドアに踏み入れながら説明するように確かに中身はブラウン管テレビで見たリゾート地だった。朱い石畳に点在する青いプール、ビーチチェアにジェットバス。手前の大理石のカウンターでのタオル貸出に、奥にはガゼボ。どういった仕掛けなのだろう。黄昏前の夕陽の眩いばかりの光も、ガゼボから見渡す遠い眼下の海原も、そよ風に揺れる椰子の木までもが影を濃くして並んでいる。
「おーおーさすが天人の最新技術」
 鼻に指を突っ込みながら銀ちゃんが嘯く。どうやらそういうことらしい。
 あのちゃちな健康ランドの薄汚れた壁や隣接する風俗店の呼び込みの声からまったくもってかけ離れている。ここで気合いを入れすぎた所以か知らないけれど、この健康ランドは結局、二年後に潰れた。それでもこのとき眺めた幻影は薄く重なった雲間からの飛行船もなく、ただただ高く澄んだ夏夕空を海風が穏やかに撫でてゆくばかりだった。
「ここまで来ると、もう本当か嘘かもわからなくなるアルナ」
 結局水着に麦わら帽子も身に着けて、ぬるめのジャグジーに肩まで浸かる。たゆたう海に向かって突き出したところにある六角形の浴槽は、三人入ってしまえば肩と肩を寄せ合うかたちとなった。見晴らしの良いここは、来たときにはカップルが寄り添っていたものの、銀ちゃんが無遠慮に踏み入って私もそれに続くものだから、女の方が男の方を引き出すようにして出て行ってしまったのだ。新八がひたすら申し訳なさそうに物陰に隠れていたのは見ものだったけど、ひとたび人がいなくなれば彼だって頭を下げながらもあーだかうーだか年寄りくさい息を吐きながら湯に入った。
 こつんと泡に隠れた水面下で私と新八の足指が触れる。
「……見えるものと見えないものの違いって、何アルカ」
 見えるのが信じられるものアルカ?見えないとそこにいないものアルカ?鼻先までちっとも温まらない湯に沈めて、私は問うた。あとで知ったことだけど、赤子は誰もが最初、直接見えないものは存在しないものだと見なすらしい。視野にないもの恒常性を認知するまで、だから親が姿を消せば泣き喚くし、いないいないばぁには手を叩く。成長するうちに当たり前に身に着けた感覚をそのとき私は信用できないでいた。思えば周りに牙を剥く若い獣のように、私は何事にも猜疑を向ける年頃だった。
「でも見えないけどそこにあるものだってあるでしょ神楽ちゃん」
 昼間の星とか、うーん、深海魚、とか。少し言いよどむこの少年は、赤らんだ空気に呑まれたこどもの唐突な戸惑いをそのまま真っすぐ受け止める。上っ面だけは面倒くささを装う天パだっているけれど。
「でもスタンドは見えるけどいねーじゃん」
 自らに言い聞かせるように、すねたように彼が呟いた。ついでに無料券を良いことに通りかかった従業員のおばちゃんにとりあえずシャンパン、だなんてのたまって頭を叩かれる。代わりに私がアイスを人数分、注文した。塩レモン味だ。
「銀ちゃんはじゃあ、むしろ見えないものを信じるアルカ」
「何言ってんだ、俺は時代の最先端を走る男だから先なんて見えないことが多いんだよ」
 今に見てろよ、あと七年くらいもしたらきっと町中どこを歩いても銀髪天然パーマ風パーマだからなお前ェら。そうして悪びれることなく両腕を投げ出す男に、
「それ確か前にヅラも同じようなこと言ってたアルヨ」
 指摘すれば、彼は至極嫌そうに顔を歪めた。あいつと一緒にすんじゃねーよばぁか。吐き出された言葉は文面ほどにきつい響きを伴っていない。天然パーマ風パーマってなんだよ。新八の一拍遅れのツッコミでさえ及び腰だ。でも――、。掠めとるように彼は続ける。
「見えないからって信じないのは寂しいだろ」
 ……いつからこんないい話になったのだっけ。まろい輪郭にこそばゆさをまぶしたような口調に、私は息を詰めた。

 ときどき、銀ちゃんはくらげのような生き物だと思う。別にまるくて、半透明で、ふわふわしているだとか、そういうわけではない。確かに頭はまるく、特価三百九十七円で購入した蛍光灯の光を透いた髪はふわふわしているけれど。
 一度、「銀さんは透明みたいだ」と吐露したのは新八だった。
「透明?」
 神妙に鸚鵡返しして、抽象的なはなしだろうかと私は首をかしげた。平凡を形にして眼鏡を掛けたような彼は、時々に突拍子もなくそんな話をする。
「そう、透明。僕にもよくわからないけど」
 何の前触れもなく始まった話は、それっきり、あいまいに途切れてしまったけど、その新八によくわからなかったものを、私はくらげみたいだと片づけた。
 そのことはまだ、誰にも告げたことはない。
 くらげは、その身体のほとんどが水だ。たしか、九十七パーセントにものぼるはずだったと思う。残りのわずか三パーセントで、くらげは泳いだり、食べたり、漂ったりしているのだ。
 ――三パーセント。
 その三パーセントがあるから、くらげは死んで、ぜんぶが溶けるまで、海に還れない。その三パーセントがあるから、くらげは水のかいなに抱かれながらも、いつも寂しい。
 それを思うと、私は自分がくらげにはなれないと思った。解かった、と言った方が良いかもしれない。自分も、新八も、くらげにはなれない。一匹で途方もない海原を、冷たい水中を、目的もなく浮かんでいるのは耐えられないのだろう。銀ちゃんは、怖くないのだろうか。
 今も、彼の少し伸びた襟足がゆらゆらと水の中を泳いでいる。
 銀さん、と新八が引き止めるように彼を呼んだ。
「僕らはちゃんとここにいますからね」
 私は新八が銀ちゃんを透明だと例えたことを理解したような気がした。しろい皮膚の上で数え切れないほどの傷跡を踊らせながら、あの片腕を抜いた、ふざけたような着物を纏わない彼はいまにもこの大掛かりな幻影と一緒に消えてしまいそうだった。
 それを受けて、銀ちゃんはかすかに目を瞠った。それから眦を伏せて、ふぅ、とお腹いっぱいご飯を平らげたあとみたいな息をこぼした。
「いいか、お前ら。大切なことはぺらぺら喋んじゃねェぞ。言えば言うほどどんどん自分のものじゃあなくなっちまう」
 目を細める姿に、ならば彼の言葉にしてきた数々は何だったのだ。夕方の金粉を撒いた水面のにおいをジャグジーから嗅ぎ取ろうとしながら私は思い募った。そりゃあ、彼の口にすることの大半はしょうもないことばかりだけど、時に背筋が凍るほどにおそろしく鋭い本質を突きつけてくる。そして時には彼の魂を載せたような咆哮も。
 いつぞや姉御を残して不気味な紅い刃と相対したときも、ババァが斬られたときも、幾度となく敵いそうにない相手とのころし合いに身を投じたときも、そうだった。
 あれは彼にとっては大切ではなかったのだろうか。私にはそうとは思えなかった。むしろ、あれは彼自身という濾過装置を経て、いずこかへ還元しようとしているとさえ取れるやりくちだった。自分でないどこかへ追いやり、突き放すと表してしまえばあまりに酷だが、それよりもずっとずっとあたたかい行為だ。
 けれど、私は彼が新八のあの一言を大切なことだと認識しているのだと思い至ると、意図せずに顔がにやけた。それでも銀ちゃん。胸を張って私は宣言する。
「私のマミーは、思ったことは言葉にするように言ったアル。だって、かたちにしないと人は忘れてしまう生き物ヨ」
 例えば、母のことはよく覚えている。みんなに言ってきたから、諳んじるほどになってしまった。でも、残された家族を本当はどうしたかったなんて、思い描いた自分は果たしていたのだろうか。
 新八は透明だと例えた銀ちゃんを、私は時折霧を掴んでいるみたいだと思う。夜、トイレに起きて布団に潜る前に、障子から眠る姿のぞき見るとき、いつも。もちろん、大多数の時はここにいるとちゃんとわかる。しかしここにいるとわかると同時に、ここにいないともはっきりと判ってしまう時もままあった。
 塩レモンのアイスの、いかにもなビタミンカラーを頬張る二人を眺めながら、私はそうか、と泡が弾けるように合点した。そうか。くらげにしてもなにも彼らは漂っていたいから漂っているわけではないのだ。大海原に迷えるのがくらげの宿命ならば、彼は怯えるくらげなのだった。たった三パーセントの有機物のせいで、余生を送るように生きている。必須アミノ酸とその他諸々の詰まった三パーセントに隔てられて。
 そのくせ彼の周りはいつも人で溢れていて、それぞれの愛憎が入り混じった渦中にいたから、見た目に違わずお人好しな眼鏡と、見た目に反してお人好しな天パが真っ先に突っ込んでいったから、だから彼の抱え込んでもさがのない怯えに誰も気が付かないのかもしれない。
「それもまた、愛のかたちじゃないかな」
 考えた末に新八が言葉を落とす。
 レモン色に徐々に溶けていくしろい彼を想像する。まるでそうあるべきかのように、それはすとんと私の心の中で落ち着いた。新八はもう、ずっと前から知っていたのかもしれない。
 それを認めるのがなんだかいじらしくて、はずれだったアイス棒を咥えながら、
「うっせーヨ、アイドルにしか愛を見いだせないオタク眼鏡が」
 と、とりあえず殴っておく。
 理不尽を騒ぐ眼鏡を横目に、銀ちゃんはのぼせると言ってジャグジーから上がった。首筋が少し赤かったのは、きっと彼の言う通りのぼせたせいなのだろう。

 何年ものち、私が私の愛した星を去るときに、私は決まってあのリゾートもどきに行った日を思い出す。本当に三人で、そうして水入らずで過ごすことは案外少なかったのだと、私を知る人は誰もいない出発フロアに入って、気づく。波乱に満ちた日々にともすれば呑み込まれてしまいそうなそれは何気なく、他愛なく、だから途方もなく愛おしい。
 免税店の端で懐かしいアイスを見つけた。少し鼻に染みる塩レモンの味にかぶりつく。
 思えばあの夏から、私はサヨナラのできるこどもだったのだ。



 




2016・7/7


――――――
三パーセントの不純物があるから触れられる、
クラゲについて読んでいたらどうしても入れたくなって(笑)
思えばこの三人を書いたことがなかったです。
本当は「丸くてもひと角あれや、〜」をどこかで言及したかったのに、それはまた別の機会ということで、
昨日の原田さん、今日のお登勢さん陸奥さん、明日の沖田くん、おめでとう!





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