太陽の墓 | ナノ



 影法師が伸び始める頃に、かぶき町の燈はぽつぽつと灯り始めた。西の端は橙から朱へ赤へと染まり、ついには東の空から吸い込むほどに透き通った群青が翳す。山際は燃え開けた丘は夕暮れに静まり、猥雑な街では街灯やネオンがこぞって光り煌めく。
 男は江戸の外れの薄野原から歩いてきた。
 大通りを抜けると、車も通らない。風が通りすがれば土煙の立つ道を、男はたどっていく。泥水の溜まった路面はもう暗い。店先の灯りに惹かれるようにして近づく。引き戸越しに漏れる喧騒に、男は安堵したように息を吐いた。
「いらっしゃいませ」
 暖簾を潜れば喧騒と熱気が押し寄せる。お一人様ですか?訊ねる従業員に男は微笑んで肯定した。
 壁に画びょうで貼られた一昔も二昔も前のビールポスターを背景に、賑やかな会話と笑い声が飛ぶ。眺めているとカウンターの客が一人、男に喋りかけた。
「お兄さん、ここ初めて?」
「ええ。良いお店ですね」
「だよね、ツケで飲ませてくれるのはもうこの店だけだよ」
 ねぇ、と振り返れば、グラスを磨く従業員がつと客を見据えた。
「今回までに本日を含める計十五回の料金をお支払いただけなかった場合、今後はもうツケはなしとお登勢様に託っております。晴れてこの江戸でツケてくれる店が零軒となりました。長谷川様、おめでとうございます」
 落とされる言葉はこの上なく冷たい。金ノナイ奴ニ用ハナインダヨサッサト金出セヨ。更に片言の追い討ちが項垂れる長谷川を襲う。
「あー、ともかく、いつもはもっとすごいんだよここ。色んな意味で」
 サングラスを着物の端で拭いながら長谷川が言った。
「この前万事屋の旦那と、何て言うんだっけ、キャプテン鬘?あの二人がいた時、覚えてるか?」と別の客が口を開く。
「桂さんだよ桂さん。あれすごかったよな。結局修繕の金誰が出したんだっけ」
「一瞬前まではテーブルが宙を舞って床に座り込んで飲んでたのにお登勢さんが帰ってきた途端の正座は見ものだったね」
「お前だって何で止めなかったんだってしこたま説教食らったじゃねーか」
「あれを普通の人間が止められると思うかよ」
「確かに。あの二人が揃うとろくなことがねー」
 おのおの酒やらつまみやらを酌み交わしながら好き勝手に会話を続ける。それが好ましいと男は思った。
 きっと、愛されているのだ、彼らは。真選組からかくまってやったのにお礼がんまい棒一本だと愚痴を垂れても、こないだ貸したビデオをまだ返してもらっていないとさんざん貶しても、彼らはそれだけこの街に愛されている。この街で生きてきたのだ。この街で生きているのだ。
「愉快な方たちですね」
 従業員に投げかけた言葉に返された、「愛されてるんですよ」は機械的な発音にしては妙に心に沁み込み暖かさを残しながら広がる。いっそう笑みを深めて、男は強く頷いた。

 禍時にもなると客足は一気に伸びた。
 お登勢がかぶき町定例会議から戻ったのもその頃合いだ。
「なんだい、あんた、初めてだね」
 カウンターに座り馬鹿騒ぎには参加せず、けれど耳を傾けている男。声を掛けると彼は今しがた気づいたようにゆるりと顔を上げた。
 微かに上がった口角に、優しい眼差しをしている。そう、それは目のかたちではなく眼差しなのだ。温かく懐かしく優しく遠く、黄昏時にわけもなく感じる酸い切なさのように、彼の纏う淡い色彩も相まってそれは酷く胸を締め付ける。
 一献は私の奢りだよ。ずるいと喚く酔っ払い共を一蹴し、徳利を男の前に置く。
「この町の人じゃあないだろう。江戸の人でもない」
「江戸っ子の粋がないんですかね」
 人懐っこく笑った男に、そうじゃないよとお登勢が苦笑した。いや、そう言ってしまうところがそうかもしれないけどねぇ。
「出稼ぎしに来たようには見えないけど」
 まさか、と男は小さく息を吐いた。
「知人の探訪ですかね」
 遠慮なくいただきますと男は徳利から酒を注いだ。比較的甘い大吟醸が一口、ゆっくりと喉元を通ってゆく。澄んだ酒は波紋を作り、うねる表面が控えめな光を映し反射する。みなもの静まる様子を見ながら、お登勢は煙草を銜えた。
「へぇ、どこから」
 火を付けながら訊ねる。
「西から。と言っても、気付けば江戸近郊を歩いていて、ふと立ち返れば暖簾を潜っていました。自分でも不思議で」
「なんだいそりゃ、何かに引き寄せられてるんじゃないかい。悪い霊とか」
「いえ、スタンドはちょっと……」
 少し頬を引きつらせる男に、お登勢は思い当たる節があった。従業員のこども達が居ついてしばらく経った頃、稼いで来いと知り合いの寂れた旅館に放り込んだ二階の間借りをしている男は、帰ってから長らく彼がスタンドと呼ぶそういった類のものに過敏だった。話して数分もしない内にわかる男の悠々自適さといい、奇なる相似点といい、お登勢は日々自堕落に過ごす家賃滞納常習犯と、似ても似つかないはずの目の前で酒を吟味する男とが重なって見えた。そしてそれが決して気のせいではないと確信する。老獪の勘によるものか、それとも一種の閃きあるいは天啓であるかは知れなかった。
「それで、尋ね人は見つかったのかい」
「いいえ、まだ。ふと会わなくてはと思い至って……三人いるんですがね」
 話しながら、男は目を細める。遠くを眺め、ここではないどこかの情景を思い出している。子を見守る親のような、無条件の慈しみを堪えた目は、彼の口にする三人を本当に想っているのだと悟らせる。この男の探す人は、幸せ者だとお登勢は思った。
「もうどのくらい会ってないんだい?」
「随分と長い間です。こどもが大人になるくらい」
「人は変わるさね」
 赤々と時に仄かに鮮烈に光る火種を見つめる。緩慢とした動作煙草を吸い、時間を掛けて煙を吐き出す。年を重ねるにつれ、本数は減った分、一本一本により時間を掛けるようになった。
「ええ。時は人を変えますから。概論かもしれませんが」
 もちろんそれもそうだが、とお登勢は煙草を灰皿に押しつけながら告げる。
「一番速く人を変えるのは戦だよ。終わってなかったろう、当時はまだ」
 お登勢の脳裡には、もはや一人の男しか思い浮かばなかった。ええ。悔いのような苦々しさが、男の顔を横切った。それはほんの一瞬のことだったが、お登勢は見逃さなかった。
 今でこそ貿易も交流も進んでいるが、戦のことは記憶に新しい。天人の支配下から逃れ国の独立自立を護ることが初衷だった戦が、ついには人と人の殺し合いとなった。当初の空の彼方より来訪した脅威は高みの見物と決め、尽忠報国の掛け声は空回りし、化野原に散ったのは人間と傭兵の血で、残ったのは悪足掻きの果ての無残な死に損ないと無様に膝を着いた統治者だけだった。
「私にも、幼馴染がいてね」気付けばごく自然に、口から言葉が出ていた。「帰ってきたほうは、それからすっかり変わっちまったよ」
 溜息と共にするりと吐き出される言葉は、不思議とその場に留まっているような余韻を残して消えた。男は黙ったまま、聞いているのか否かわからない様子で、相変わらず騒ぐ客を見ていた。彼はものを考えているようではあったが、もしかするとただぼうとしていただけかもしれなかった。お登勢も倣って、テーブル席を見た。万事屋に貸して返してもらっていないという、例のいかがわしいビデオの内容で盛り上がっていた。しばらくすると男が振り返ったのでお登勢も食器を片づけながら男に視線を向けた。
「変わってほしくない、きっと変わらない何かがあると信じたい人の性を、私はそれほど悪くは思いません」
 毅然と男は言う。人は、不変のようで流れやすく、強いようで脆く、弱いようでしたたかだ。なるほどそうかとお登勢は少し晴れた気持ちになった。大きく伸びをして、外へ見やった。空の色を薄める不夜城はどこか遠くになったような気がして、吸い込まれそうに黒い闇夜に満天の星が広がっていた。
「共に過ごした記憶というのは、あれじゃあないかね。各々の人生の中で、ごくわずかな間だけ、道が重なること」
 男は静かに聞いている。麦茶で喉を潤し、お登勢は続ける。
「その道が確かに沿った歳月は、きっと何も見逃さないほどにちゃんと視ている。未練など残させない。でもその一瞬だけのことしか知らない。結局それだけのこと。互いに、己の考えを持って、別に生きる。そう思わないかい?」
 手に持っていた猪口を置き、それから男は重々しく頷いた。
「あんたの探す人は、あんたが拾ったのかい?」
 幾年か前の雪の日を思い出しながら、お登勢は聞いた。何気ない会話の延長線と、先ほど滔々と喋ったことがなんだかこそばゆくなったので、話題を変えたいからでもあった。
「いえ、拾ってませんよ」
「なんだい、そいつが勝手についてきたのかい」
 からかうように応えれば、男は柔らかく微笑んだ。そうじゃないんです、そういう意味じゃなくて。
「私が彼を拾ってやったんじゃなくて、彼が私を選んでくれたんですよ」
 変わらず笑顔の男にほうとお登勢は目を瞠った。そこには敬服の意が含まれていた。純粋にそのように考える人が果たしていたのだ。それが驚きで、同時に酷く優しい気持ちになった。自分が思い至らなかったという悔しさは微塵もなく、代わりに寺子屋で初めて何かを学んだ時のような、嬉しさが広がった。
 ところでこのお酒、おいしいですねと男が言った。彼もまた少し気恥ずかしくなっていたのかもしれない。
 それから男はしばらく黙々と徳利を空けた。

 更に半刻ほど経つと男はそろそろ宿を探さねばと酒を切り上げた。大した量は飲んでいなかった。男はともすれば二十代後半から三十半ばにも見えたが、時折、お登勢と同世代あるいはそれ以上を彷彿とされる言動や仕草を垣間見せた。西から来たと言う割には、言葉の訛りもまったく聞き取れない。不思議な人だと、長年の勘が訴えている。もう少しばかり、話したいのだと。
「あんた、江戸の人じゃないと言ったね」
 ごちそうさまと手を合わせた男が、カウンターに立ったお登勢を見上げる。ええ、と怪訝そうに応えた。
「こんなに緩やかなのに真っ直ぐな人はいないよ」
 この街の男はどいつもこいつも真っ直ぐすぎて人の話を聞かない奴と、自堕落な奴しかいない。
 ありがとうございます。そう言った男は、お登勢の知る男に似ていた。彼は雲だった。風であり水であった。とらえどころなく流れるままに、けれどどこか潔くしなやかな、時折はっとするほどに美しい姿を見せる。そうであることすら気づかせないことがもどかしく、同時に爽々しかった。

 雇い主が酷い二日酔いだからと新八と神楽が訪れたのは男が席を立った時だった。大きな犬を引き連れて、少女は酔っ払い共この神楽様に席空けろとでも言うような勢いで堂々と敷居を跨ぎ(そして実際にそう言って)、その後ろから申し訳なさそうに少年が入ってくる。
 引き戸の外は静かだった。人が働き遊び、住む空間なのに、そこには何もないような気がした。地上の明かりに幾層も薄められた夜が、茫々と広がるばかりである。がらんどうに見えたそこへ踏み入れようとする男は一度でも視界から消えればそのまま夜に溶け込んでしまいそうだった。
「会いに行ってやらないのかい?」
 最後の問いかけに、男は降参を示すように軽く両手を挙げた。困ったような表情だった。
「ずるいお人だ、あなたは。全部見抜かれている」
「あんたに言われたくないね」
 お登勢は、きっとこの男がそうなのだとわかっていた。階上の住人がいつかこぼした、一人の人間の名前。彼を人にし、消失により彼らを修羅へと落とした、すべての始まりなのだと。道を沿うどころか、原点を与えるというのも大変だ。ぽつり呟く。
「何かおっしゃいました?」
「何でもないよ。またいらっしゃい」
 予備に炊いていた炊飯ジャーのコンセントを抜きながら、お登勢は緩く手を振った。
 あ、お勘定と懐の中を探る男に、上の二日酔いにツケとくよと笑いかける。それはまた申し訳ないことをしてしまいました。それなら会いに行っておやり。言い聞かせるようにしてお登勢は念を押した。……やっぱりずるいお人だ、あなたは。男はまるでたんぽぽの綿毛を吹くように、晴れやかに笑う。
 ふいに新八が男を見遣った。
 人探しですか?とその目は妙に輝いている。ええ、まぁ。気圧されたように男は曖昧に答えた。
「万事屋なんてどうですか?人探しから屋根の修繕、探偵事業、なんでも万事屋銀ちゃんにお任せください!」
 そこでお登勢はそういやここ最近万事屋の食卓にまともなおかずが乗ったことがないことを思い出した。お主も強かになったのう、と炊飯ジャーを抱えた神楽が新八に耳打ちした。豆パン生活も二週間目に突入すれば悟りの境地に達するんだよ神楽ちゃん。新八が囁き返す。聞こえてますよとの親切なツッコミは誰もいれない。
 若干戸惑いながらそれでも男はちらりとお登勢を見遣り、それから新八に振り返った。
「そうですねぇ、今日はもう遅いことですし、では明日にでも赴きましょうかね。万事屋さんに行けばすぐにでも見つかるような気がします」
 ねぇ、と悪戯っぽく同意を求めてきた男にお登勢は内心ほくそ笑んだ。

 夜更け、男は静けさに包まれた河原を歩いていた。灯りが吹き消され、夜はこれからといった具合である。目はすっかり冴えてしまっていた。
 男は、夜が明けたら会いに行くとの約束を交わしてしまったものの、スナックの老婆の言うことは最もだとも思っていた。人は変わるのだ。それが望ましいことか、憎たらしいことかは差し置いても。ふとした拍子で訪ねようと思った。その念頭に何があったのかは覚えていない。尋ね人三人に対する、己の影響を男は知っている。知っているからこそ、自分がいなくなったことによってもたらされただろう変化も、容易くわかってしまった。あの焔は、かつてはこどもだった彼らの少年時代に終わりを告げるものだった。あたたかに閉じたあの場所で、国の意行く末を憂いつつ学問に剣術に悪戯に打ち込んだ燦然とした時間の幕引きの合図だった。
 赦さないのだろう、彼らは。己を奪った世界だけでなく、今更姿を現す己をも。それでも彼らが根を張り広げられたのならば、それで良いのだと、男は思う。
 川に浮かんだ船に、動く人影がいた。それは窓を開け放ち、冷えた夜風を迎え入れる。人影の姿を認めると、男はやはりと笑ってしまう。このまま、趣くままに歩いていれば、もう一人の消息もたどれるような気がしていたのだ。街に入るまで、そして入ってからも、もう指名手配の写真は何枚も見ている。
 対する船の人影は、悠々と煙管に火を付け咥え、水面の冴え冴えとした光を見つめていたが何気なく岸へ視線を上げ、そのまま固まった。鋭い目つきに打ち消されているが、案外童顔である教え子の表情に、男は微かな安堵を覚える。
「明日、万事屋さんに行きなさい。あそこは万事解決してくれるみたいですからね」
 窓から乗り出し大きく揺れた船に呼び掛ける。途方に暮れて立ち尽くしたような、万感の想いのこもった複雑な表情が、川岸に立つ男にはよく見えた。口にされそうになった言葉に男は唇に人差し指を静かに当てる。
 せんせい。背中に投げつけられる声を、少なくとも今は聞いてしまってはいけないと思った。
 私たちの別れは、いつだって手の届くところにあったのだと告げるには、あまりに悲しかった。


 




 2014・3/29


――――――
このは様へ捧げます。
まず、本当にすみませんでした!!(スライディングジャンピング土下座)
頂いたリクエストは「松陽先生生存&再会な話で、高杉さんが出る」とのことでした。
が、前半しか掠ってないことに申し訳ないばかりです。
スナックの婆さんと先生とおぼしき人の会話だけだよバカヤローって話ですよね。
高杉ほとんど出てないですごめんなさいm(_ _)m
そして再会してないですね……。

付け足しをさせて貰いますと、最後は少し重くなっているのですが、先生の危惧に反して翌日はボケツッコミでぐだぐだぁっとなるのではないかと思います。そのあとまた改めて話すのではないでしょうか。でも彼らは、だからと言って突然変わることはないと思います。だいぶ丸くなったり、穏やかになったりはするのでしょうが。

それでは、リクエストどうもありがとうございました!
とても楽しく書かせていただきました。





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