しずく泣く | ナノ



 苔に覆われた碑を読むにはそこは、屍すら残さない戦場の成れの果てだった。午前七時五十分。雨は止まない。
 それは鉄柵に囲まれた公園の一番端、小さな雑木林の片隅に佇んでいた。通学路だった。入口は柵をたどっての反対側で、公園自体に入ったことはない。歪な数行の隷書は、道路に向いていた。柵越しの、雨に濡れた石はしめやかに新八の姿を映し取り、触れることさえ憚れるほどに朧な光を纏い艶やかな影を潜ませている。決して鮮やかではない竹と橡の緑に紛れてそうやって、時の流れに置いていかれるようにして、それはずっとそこにいた。
 躓くようにして走るバスと取り残された自分の肩にかかるスポーツバッグの重みが、不意に懐かしい酸い切なさを呼び起こす。己の知る己の思い出ではないそれは、喉を絞るようなうねりを伴っていたが、同時に酷く優しく新八を包み込んだ。しずくの伝う花の房は庭先にも道端にも、その碑の傍にも、寄り添うように青白く儚い。知りもしない歴史も、踏み込んだこともない場所も、恐らくは新八は彼が思う以上に気に入っていた。
 まるで古い知人の在所でも訪ねるような、身に深く切り込んでくるような哀切な思いだった。古い知人も、すり減った記憶も、作るほどの年月は生きていないのだけど。けれど、取りつかれていた。
 梅雨の始まった頃からだ。

 放課後になっても、雨は止まなかった。夏が近く、日は延びたせいか、鈍色の雲の上に突き抜ける蒼さを垣間見る。とっくに帰りのホームルームが終わった教室は駄弁っていた生徒すら帰宅していて、体育館や部室棟、図書館などを除いて校舎に人気はない。いつもなら掛け声の聞こえる校庭も、水溜りだけが数を増やしていった。かくいう新八も一度は帰ろうとしたのだが、忘れ物に気づきわざわざ引き返してきたのである。もう誰もいないだろうと教室に入ったのだが、どうした新八と片手を挙げる担任の姿に虚をつかれる。窓際の席を陣取り分厚い書類の山を重ねて机にぺったりと頬をくっつけた体勢を一瞥して、いやあんたこそなんで職員室じゃないんですかと訊ねれば、んだよいちゃ駄目かよと彼は両手を投げ出した。
「駄目じゃあないですけど」
「なら俺の自由だろうが」
 たまにはだだっ広いとこで仕事をやりたいのーと年甲斐もなく体を揺らす銀八に新八は苦笑して、ロッカーからノートを取り出す。これがなければ明日提出することになったら大変なところだった。ほっと一息吐いたところでさて帰るかと窓際を見れば、銀八は意外にも真剣な目つきで紙を一枚一枚眺めている。無意識なのか、右手のボールペンがくるくると回っていた。こんな担任の姿を見るのも珍しくて、新八はそれとなく銀八の横から覗き込んだ。
「何してるんですか」
「仕事」
「それは分かります」
 近づけば、それが今日出した進路指導票だとわかった。神楽、と先の丸くなった鉛筆で力強く記された名前に慌てて目を逸らす。それよりも神楽ちゃん、えいりあんはんたーって、と思わず見てしまったとても達者とは言えぬ筆跡は無駄に元気がよく痛快で、自然と笑みが浮かんだ。同時にふと、これはどこかで聞いたことがあると、覚える違和感。
 ぐぅ。帰るべきだと踵を返そうとした矢先、妙に間の抜けた音が教室に響いた。えーっと。このまま去るのもなんだか後ろめたくて、お腹すきましたと素直に弁明する。
「腹減ったってお前、95%の眼鏡に3%の水分、それと2%のゴミのどれに食べ物が入る隙間があるんだ言ってみろよ」
「食べ物の前に僕の居場所は!てか、そのボケ、前にも聞きましたよ」
「……あれ、そうだっけ?」
 えーこんなインパクトのある高度なボケ忘れるわけねーのに。ぶつぶつ言いながらも、彼は指導票一つ一つに(それが判読可能かは別として)細かいコメントを書くことは忘れない。自分で言うなよ。ツッコミを入れながら新八はそれがいつの話か思いめぐらせるも、思い出すことはできなかった。それほど昔のことだっただろうか。彼とこうやって話をするのも、今年、彼が担任になってからだと言うのに。
 まあ何でもいいけど、と考える努力を放棄し、銀八は神楽の進路指導票を二つ目の束に裏返して置いた。
 白い空から眩しい初夏の光が差してくる。
 春でも夏でもないこの季節も、昼間でも夕方でもないこの時間も、手の届かぬ遠くを望むような哀愁じみた複雑な感情を呼び起こす。境目のものごとを新八は苦手としたが、嫌うことはできなかった。
「先生、」
「なんだ」
「……なんでもないです」
 ふーん。興味なさそうにあっさり切り上げ、彼は窓際に置いたマグカップに手を伸ばした。イチゴ牛乳の入った、とびきりずばぬけたピンク色。その隣になぜブラックコーヒーについてくるようなシュガースティックが並んでいるのかなんて、ツッコミを入れるほどの気力はないのだけれども。
 開け放った窓から外へなびくカーテンと、湿った風と、目に飛び込んでくる蛍光灯の色を、新八はなにをするでもなく見ていた。そそくさと帰るよりも、その方が正しいように思えたのだ。
 いつものよれた白衣を椅子に掛けた銀八はイチゴ牛乳を大切そうに二、三口飲むと大きく伸びをした。その嗜好ととても普通とは言い難い摂取量に関わらず、彼は意外にがっちりとした身体つきをしている。シャツが汗で湿っていた。思いのほか広い背中だ。
 あ、。
 白衣と同じように皺だらけのシャツの下、そこを大きく裂く赤い線を見て、新八は思わず息を詰めた。
 これは、何なのだ。包丁などではない、ナイフでもない、これは。
 そうだ、刃によるものなのだ。
 青い背中を走る赤い線が、点滅を繰り返していた。それを追い払うように新八は頭を振る。いやそんなことがあるわけなどないことは知っていたのだ。けれど、きっとそうなのである。新八は閃くようにそう思った。あれは軽く反ったうすい鋼による跡なのだと。
「せんせい」
 唐突に押し寄せてきた焦燥に、不安に、新八はどうすればいいのかわからなかった。忌まわしい赤の点滅は、それでも彼の背中にあるということだけで、あたかも白い彼を彩る装飾のようだった。まるでその深紅を持たない彼はもはや彼ではないかのように。それがこわかった。何かに怯えていたのかもしれない。言葉にするのもおぞましかった。
 先生、先生。
 彼の存在を確かめるように、もしいなければ、ということなど許さない、まるで地団駄を踏む子供のように新八は繰り返した。そうすれば繋ぎとめられるように思えた。どこへ消えるわけでもないというのに。
 少し怪訝な顔を見せはしたが、彼はちょっと待ってろと言い置いて散乱している(といっても学校用の机にどれほど散らかせられるのかという話ではあるが、)進路指導票をかき集め揃えると、白衣を引っかけ、待ってろよと念を押して教室を出た。古ぼけた呻きを上げた扉の、そのあとに残るのはがらりとした空間だけだった。
 何の冗談だ、これは。
 自分に頭を抱える。

 ほれ、と投げられたのはミネラルウォーターだった。今度これのお礼に甘いものをおごりなさい。ほざく担任の手にはしっかりとイチゴ牛乳のパックが握られていて、あんたこれ自分の買ってきたついでですよね。さほど考えもせずに流れ出るツッコミが少し、虚しかった。
 それで、どうした。椅子を些か乱暴に引いて新八の机一つ隔てた前に座り、彼は面倒くさそうに訊ねる。そのように見せているだけだ。一年どころか半年さえない教師と生徒の付き合いでも、これくらいのことはわかっている。この男の、無関心と見せかけた裏から滲み出るちょっとした心配を悟れぬほど、幼くはなかった。それがまた、悲しいのだけど。
「先生、」
「なんだ」
 彼の優しさは、人を寄せ付けない優しさであると新八は思う。興味好意を寄せるほどに煙を巻いて交わす彼はこのましく、同時に疎ましかった。同じことだと新八は思った。彼と、あの時に忘れ去られたような場所と。
「先生は、どこかへ行くんですか」
 問いたいことはたくさんあるような気がするのに、いざ口を開くととたんに何もかも雲散して、飛び出したのは自分でも予想外の言葉だった。
 銀八は眠たそうな目を数回瞬かせた。いや、行くってね。仕事が終わったら家に帰るけど。
「ほら、先生学校にジャンプは持参してくるしやることは色々とぶっ飛んでるし、そのうち飛ばされちゃいますよ」
 この前の銀行強盗の時も、神楽ちゃんのお兄さんが殴りこんできた時も。あの時だって、巻き込まれるのが怖いわけではなかった。大体、担任があそこで高杉と神威に割り込まなくとも、あの魑魅魍魎、いや、あとで殴られそうなので訂正、ええ、えっと、そう、魅力満点だ、魅力満点なクラスメンバーに敵うわけがないのだ。この天邪鬼な男と同じように、あの破天荒なクラスの誰だって、ものすごくわかりづらい上に行動が裏目に出ることがほとんどではあるが、彼が傷つくことを何より恐れている。彼を失うことを。
 それを恐れるだけの危うさを、この男はもっている。
「この前は少し格好よかったです。でも、あんまり危ない真似はしないでくださいよ」
 続けた声が酷く弱々しく、新八はだから、神楽ちゃんとか姉上とか、普段はあーだけど、本当に心配してるんですからね、先生のこと。言い訳がましく付け足した。
 銀八の、イチゴ牛乳をマグカップに移す手が止まっている。もっとも中の甘ったるい液体はずいぶん前に器に収まっていた。
 窓からの風が合図のように、カーテンが翻ると彼は合点したのか息を吐いた。
「ああ。ああ、悪かった」
 聞きなれた無気力なものではない、隠しきれない慈しみを含んだ声が、新八の耳にいとも簡単に侵入し、染み込む。悪かった。俺はどこにも行かねーよ。ジャンプを黙認してくれる職場なんてここだけだしな。
 大人というには諦めが悪くて、こどもというには疑いを知りすぎた、二つの時期の境目に挟まれた自分たち。たいていの人は通るような漠然とした不安と喪失感と、たぶんそれが故の勝手な心配を、彼はいとも簡単にほどいてゆく。
 でも俺あんなに身体張ったのに少しだけ格好良かったってなんだよ、少しだけって。男は困ったような表情で頭を掻いた。

 彼をずいぶんと長く見てきた錯覚を新八は起こす。
 時々世間話の一つでもする教師と生徒ではなく、もっと近い、何らかのかたちで。
「つーかさ、あの銀行強盗の拳銃ごとき、当たんねーよ」
 軽い口調で銀八が言う。いつもの倦怠は、あながち間違いでもないが、彼が意識的にそう見せようとしているのを新八は分かっている。
「高杉さんの時はバッサリいったじゃないですか」
「あれは立ててやったんだよ。他校生の前で多感なお年頃の高杉くんの顔がつぶれちゃあ、アレだろ」
「傷だらけの身体してるくせに?刀で斬られたみたいな」
 新八は知っている。見てきたのだ。勝手に背負って傷つく彼を、鉄ではない、鉄をも両断する木で出来た鈍を振るう彼を。
 どこで見たかはわからない。国語教師のくせに白衣を着てスリッパをペタペタと鳴らすだけの彼しかしらない。
 夢で魘され、粒ほどの脂汗を浮かばせるくせに、起こせば巨大プリンに飲み込まれて息ができなかったんだとうまく笑顔さえ作れない時。
 しかし起こすことも記憶にない。修学旅行の朝も担任がいないと思えば部屋にではなくホールでデザート全種類を制覇していたのに。
 それでも、知っているのだ。暗雲の下、刃こぼれした刀で異形を断つ姿を。絶えることなどない怨念を立ち込める死を一身に纏い駆けた、それこそ一時も警戒を怠らない野生の獣の如く、隙を見せない目で。血煙を浴びて戦場――そう、あれは戦場に違いなかった――に立ち尽くし、天に咆える、そのおにの名前を。知っているのだ、自分は。
 何故だ。新八の心臓が早鐘を打っていた。今のはいったい何だった。
 ああ、そうだ。手を振りながら自分だけで一杯一杯だと嘯いたくせに彼はいつだって自分以外の誰かのために血を流した。何一言こぼさず様々なものを受け入れ抱え込み背負っていった。そんな彼を自分はきっとずっと、ずっと見ていたのだ。
「新八?」
 名を呼ばれて新八は現在へと立ち返った。いえ。曖昧に返事をする。ともかく、と銀八が言い聞かせるように言葉を繋いだ。
「俺も若い頃にはよく喧嘩をしたよ。でもなァ、斬られたことはねーよ」
「でも、先生、」
 あなたの背中に、腕に、からだの至るところを走り抜けるそれは、それならば何なのだ。
「ないよ、新八」
 それは俺じゃあないと頭を撫でる手は大きく節ばっている。しかし手のひらには胼胝などなくて、代わりに意外と大きいペンだこが中指にあった。でも、先生。畳み掛ける隙間さえ与えずに、彼はいとも簡単にかわしてしまう。疑問好奇の芽は、萌えることさえ許されずに摘み消された。
「だったらどうして」
 どうして嫌っているんですか。睨めるように新八は言い募った。あなたが見てるのは見知らぬ記憶ですか、それとも見果てぬ夢ですか。かつて、いつかの遠い、まほろばの国が国としてあった名残?そうでなかったら、何故あんなにも捨て身になれる。あなたが腰に携えていたものはあなたの命だったではないか。
「いいや、」
 少しだけ目を伏せた彼は、どこか遠くに思い馳せているようだった。
「嫌ったことなんてねーよ。こればっかりは嘘をつけねー」
 憤っても恨んでも疎んじても蔑んでも羨んでも自分でわからなくなっても、人が嫌いになったことなんて、ただの一度もない。そうではないのだ。人を嫌わないなどすぐに知れる。自分のことを聞いたのだ。いつでも誰かのために使われてきた手は、だども自分のために助けを求め伸ばすことなど知らなかった。途端に、言うべきではなかったと新八は思った。そもそもノートを取ってすぐに帰るべきだったのだ。あまりに悲しいから、そのかなしみの根源を、わかるはずなどありえなかった。彼は決してそれを許すはずなどなかったのだ。
「でも、だって、」
「でももだってもねーよ」
 少し疲れたように彼が言った。
 でも網膜に映し出されたあまりに鮮烈な光景はあの場所と繋がるような気がして。だってあのしろがねの光と共にひらめいた一つの修羅の名前は、かつて遠いどこかでそう呼ばれていた男の名前。時間に忘れ去られたあの碑あの石に刻まれていた名前。

 いったい自分はどうしたいのだろうか。新八にはわからなかった。日常の出来事の間に挟まれるようにして唐突に知らない自分と彼に出くわした。それは多分、あの少女もそうだ。覚えのない記憶も感覚も、きっとこの身体を形作る細胞の中の、たった一つになったとしても、まだ巡り続けている。嘆いて喚いて駆け抜けた、彼らはまだ、ここにいる。
「……銀、さん」
 口にしたことなどないはずのその名前を口にしたとき、微かに胸の内で何かが膨らみ、萎んだ。虚しい懐かしさだった。あの碑のすぐ傍に寄り添う花のような厳かさと儚さ苦しさだった。
 肩を回し背伸びをした彼の腹には、見たはずの傷跡はどこにもない。
 雨の中で育ち、いずれは雨により腐り朽ちるその淡い色彩を持つ花は、きっとこの一瞬の白昼夢をもたらすためだけにあったのだ。
 窓からひらひら、迷い込んだ紫陽花は、じきに満開を過ぎようとしていた。


 

(大体、あのなぁ。刀って、俺がそんなに老けて見えるか?先生はまだピッチピチの二十代なんですー)
(アラサーですけどね)
(うるせー)




 2013・11/15


――――――
銀雪様へ捧げます。
「140にあった3Zで戦場跡の話」とのリクエスト…あれ、戦場跡が触れられてない(汗)
申し訳ないです。
ご希望に添えておりますでしょうか?
ふつつかな話ですが、読んでいただけたら嬉しいです。
リクエストありがとうございました!





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