三、二 遅い雷 | ナノ



 瞼の裏の光をたどっている。閃光のような、稲妻のような、筋状放射状の鱗が広がり窄まり蠢いている。虫のようなものだった。瞼に映る光の筋は、いつもそこにあった。両の目が歪むことなく世界を見据えていた時も、硝煙の匂いも嗅いだことのなかった時も、故郷と今はもう呼べぬくせに当時、そう呼ぶことさえ知らなかった時も、目を閉じればいつもそこで待っていた。のちに光をなくした片目は、けれど闇を得ることなどできなくて、燐光を放つ虫をこうして、今も見ている。
 朔を過ぎたばかりの月ははやくも消えた。
 今夜あたりに行けばいい、前よりも面白くなっているはずだと前日、夜兎の馬鹿提督に連れ出された街は確かに随分と変わっていた。電線の剥き出した鋼鉄の天空にはぽっかり穴が開き、代わりに空だった女の心が埋まっていた。ただ、見知った男にあまりに酷似したその雰囲気に高杉は嘲笑に見せかけ舌打ちをこぼす。眩しいほど染まっていることが苛立ったのだと思う。
 夜王が死んで、目の前の餓鬼に変わった。
 それだけの事実の裏で神威が自分を誘った意図も彼のお侍さんの話も、ものごとの糸を繋げるのは容易い。面白いのはテメェだけだろう。女の酒を勧める声を流しながら、行燈の灯に目を細めたのを思い出す。部屋の、日焼けた畳の匂いだったかもしれないし、飾り棚のものの並べ方かもしれなかった。下らない話に付き合わされて、その上思い出したくもない昔を思い出した。それを抱えて、艦艇に戻る気になどなれない。
 そこから出る明け方、薄靄の中で雨が降った。そういや昨晩の蜻蛉が低かった。
 雨が止んで虹が立っても、人は起きなかった。草履の音は、自分だけに聞こえる。煙の溶ける空も、今は一人のものだ。朝日のまだ冷たい光に淡く影の付いた石橋は細い川を跨いでいた。裏路地を抜け、裏路地へと繋ぐ小さなものである。苔のついた緑の石と、沼のような緑の水が繋がっていた。肺に浸食しまた吐き出される灰が深緑を汚す、薄闇の時間は好ましい。
 ぬかるんだ地を踏み足に跳ねた泥水を一瞥すると、戻らない言い訳を見つけた。


 



 街を見るのは久しぶりだった。
 寺子屋へ赴く声、買い出し、出社。新しく古い一日を始める人、人、人。魚を売り歩く声、値引き交渉の声。賑やかさの裏は、至って下らない。日常が眩しく疎ましかった。竹刀袋を忘れ取りに戻った姿は、かつての自分でもあるのだから。未だ咲かぬ木犀の道は田んぼと田んぼを結び、毎日必ず通った。竹藪に蛇がいると近所の子供を脅した時も、その昔、脅された時も。間に合わないと駆けだす子供も、弁当を持って追い掛ける母親も、咲収めの夏の花も、すべてが生活に溶け込んでいるものだった。生まれ、学び、働き、養い、死ぬ。平穏な一生を約束された人を照らす、今更入道雲の湧く空には、生きた証もない。それを知りつつ追う者、去る者、留まる者。そして追い詰められ落ちる者。
 何も持たずに生まれて、一盆の灰となって去る。
 灰さえ戻らなかった人は、何年も何年も、消えたと高杉は信じることを拒んだ。
 学び舎が焼けても、教壇に立つ人が戻らなくとも、戦に身を投げることとなっても、饐える腐臭の中で飯を腹に入れることに慣れても、聞き分けの悪い子供のようだった。
――「高杉、」
 あの日も、まだ少年だったその男が最初に見つけた。
――「先生が帰ってきた」
 笑い顔とも泣きっ面とも付かない表情はけれど悔しさだけを露わにしていて、それを押し殺そうと眉間に寄せた皺は、今となっては想像以上に重いものだったと高杉は気付く。それに比べて先日、先生の仇だと牢で斬った者の足掻きは、二メートル立方の箱を死に場所とするにも勿体ないほど、なんと軽かったものか。
――「どこにある?」
 そう訊ねた高杉は、もう受け入れていたのかもしれない。彼はもうものとなってしまった。外、と自分達だけに聞こえる声で宣言が落とされる。
 残っていたのは既に三人だけだった。ある時は菓子を分け合い、ある時は雪合戦で本気になり結果取っ組み合いとなる、またある時は肩を組み、机を並べた同郷は戦場に身体ごと残していった。彼らの残した人は、未だに夢を見ながら待っている。
 けれど唯一帰ってきた彼の成れの果てを見た時、もうかえることはないだろうと、高杉は何よりも早く悟っていた。それから起きるすべての絶望を希望だと言った人はもういないのだ、この世界のどこにも。荒い呼吸と血にむせ、膝を折る。ついに嗚咽は漏れなかったが、磁石がなくなれば残った砂鉄はただの砂だった。彼人の後を追う者も、記憶に刻む者も、すべてを捨てて進む者も、きっといる。けれど、あの地を今一度踏むことは、決してない。はやく灰に還って欲しいとさえ思った。暖か過ぎた記憶も焼けるような痛みも残したあの場所に、彼人の存在した証にまみれたあの地あの道を逆行することなど、できるはずもなかった。
 そして実際、そうなった。
 最期の別れは、最後の宴だ。世界が見捨てた子供達は、その時世界を見捨てた。
 カアと一声、鴉が鳴く。
 高杉は引き戻されたように、袖で額に浮き出た汗を拭う弁当届けの母親を見ていた。夏中、鴉は鳴いていなかった気がする。
 道の反対側に目をやれば、小さくなった子供の後ろ姿があった。短く切った濃い色の髪は子供が腕を揺らすごとに跳ねる。その更に先に髪を高く一つに束ねた女の子がいた。角を曲がったところにある寺子屋は騒がしさの途切れることがないのだろう。わけもわからず見たいつかの残像に高杉は項垂れた。振り返った子供と目があった気がして、高杉は陽が届かぬ路地裏へ戻り、息をつく。やはりこちらの方が生きやすかった。
 肺を通り抜けた煙の行き着く頭上には、彼人の生きた空がない。

 昼下がり。タイムセールへ駆け込む馴染みの色を見た。
「神楽は豚肉半額セール!新八は野菜詰め放題!俺は糖分確保な!」
 主婦の群れに押される男は動きやすいとも涼しいとも言い難いふざけた服装をしている。糖尿予備軍は高杉の左目が最後に見た鬼の目を、けれどもう持ち合わせていなかった。
「なわけあるか!あんた僕達だけをあの修羅場に放り込むつもりですかテメェも行くんだよ大体仕事が入ればこんな野獣の群れに入らなくてもよかったのにってオイ聞けよマダオ!」
「銀ちゃん、酢昆布買っていいアルか?」
「二箱までな」
「ケチ」
「誰のせいで食費が十人並みだと思ってやがんだコラ」
 人斬りの腕を切った少年と、単身で船に突っ込んだ少女と、その男。ビニール袋を両手に腰には随分軽くなった差料、こども二人を引き連れて歩く彼はそんな穏やかな表情をしていられる日常が、あったのか。今頃生きようが死のうが関係のないはずなのに、目で追うのをやめることが出来ないことを高杉は戸惑う。きっと腑抜けたものだと嘲笑したいだけだと喉を鳴らした。
 ふいに二十年も前、唐突に背負われて来た白い子供が、彼に重なる。傷に塗れ泥に塗れた自分と歳の変わらないような子供を、高杉は睨みつけた。かつて日陰で生き凌いでいた子供はやがて光を見つける。けれど永遠だと根拠もなく確信していた光は果て、亡きものとなったから、代わりに男は自ら光となったけれども、高杉はそれを今度こそは永遠になくした。それだけの違いだった。
 彼人の最後の言葉は、この捻くれた男が聞いた。その内容を高杉は知らない。桂も、他の誰も知らなかった。それが妬ましいのかもしれなかった。最後の姿も、最後の言葉も、戻ってきた彼を最初に見たのも、彼。それでいて、なのにそれらを捨てたように見せのうのうと陽の下を歩き、生きていることが、憎いのかもしれなかった。
――「ちょっと外へ出てきます、しばらく戻らないかもしれません」
 しばらくは、まだ続いている。必ず帰ってくると言わなかった優しさと残酷さを持ち合わせていたけれども。

「お、銀時久しぶりだなぁ」
 別れた道の一本を進んだ先より見える景色には、そのような選択肢もあったのだ。
 聞いてくれよ銀時ぃ、トシが倒れちまってよー。おー、とうとうマヨネーズを吸い過ぎたか?そりゃめでたい。ああ、総悟が赤飯炊いてた、って、そうじゃなくて!え、土方さん過労でしょ?大丈夫なんですか?そう、それ、そうなんだよ、過労だから休ませてるんだがよ、総悟が奴を吉原に押し込んじまってよぉ。はぁ?お宅は病人になんてことしてんだよ!ただでさえ倒れてるのに遊ぶことなんてできるか!金の無駄だろうが馬鹿ヤローが!そっち?!で、近藤さんあんたはここでなにやってるんですか?ああ、俺?俺は、見ての通り、お妙さんの警備中だ。死に晒せゴリラァぁぁぁあああ!
 幕府組織の局長が地に突っ伏す光景は、船へ戻る合図だった。
 街の上空を入道雲が覆っている。水分を溜めに溜め、雨粒が高杉の被った笠を打った。
――「時計の針は回りますよ、あなたがいくら耳を塞ごうと」
 耳の傍で、囁かれているようだった。けど時によって流されてはならないのだ、あなたの死は!
 花をささげることを理解できるか、できないか、よくわからないでいる。墓に団子を添えるのも己の弔い方ではない。それでもあなたの教えを忘れたことなど気を違ったなど一度もなかった。
 世界が綺麗でなくなったのも、あなたがいなくなってから己の瞳が濁ったから。でも、耳元の声はいいえと諭す。その証拠に、目を閉じれば変わらず虫がいる。
 ゴロゴロと唸りが聞こえる。
 遅すぎた雷は代わりに、瞼に落ちた。




2013・9/9


――――――
かえれないなら、進むだけだ。
(穢れてしまったこの身で、)還ることなど。
先生。
先生に対する思いは、多分銀時視点の方が書きやすかったです…。
でも、坂田も高杉も根底はどちらも先生だから本当にもう松陽先生は愛されちゃって…!←






「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -